1792年9月20日
ヴァルミー





国民万歳!


「これがヴァルミーの砲戦である。彼の地に於いて世界的な詩人[ゲーテ]は大砲熱を経験し、彼の地に於けるフランスのサン=キュロットは雌鶏のように逃げ出しはしなかった。フランスにとってどれほど貴重なことであったか!」
Project Gutenberg Thomas Carlyle "The French Revolution"


 フランス国王(ルイ16世)がボヘミア兼ハンガリー国王(後の神聖ローマ皇帝フランツ2世)に宣戦布告をしてから、実際に連合軍のフランス侵攻が始まるまでには、およそ4ヶ月の時間があった。このブラウンシュヴァイク公率いる連合軍の侵攻は、彼の名で発した布告の影響もあってフランス国内でまず八月十日事件と王権停止を、さらには九月虐殺、そして共和制への移行をもたらした。
 ブラウンシュヴァイク公が率いたのはプロイセン、オーストリア、ヘッセンに、フランスから亡命したエミグレの軍勢も含めた混合部隊であった。しかし、何より問題だったのは、プロイセン国王フリードリヒ=ヴィルヘルム2世が軍に同行していたことであろう。国王の存在により指揮権が不明確になり、しばしばブラウンシュヴァイク公が国王の意見に押し切られて軍事行動を決める場面があった。
 一方、フランス軍側にも混乱はあった。侵攻と相前後してまず北方軍指揮官のラファイエットが亡命。中央軍指揮官のリュックナーも指揮能力の欠如を指摘され、連合軍を迎え撃つ主力2軍の指揮官が交代を余儀なくされた。後を継いだのは北方軍がデュムリエ、中央軍がケレルマン。ヴァルミーの主役たちである。
 ヴァルミーの戦いが実際には「戦い」と呼ばれるほど本格的な会戦でなかったことは割とよく知られている。だが、会戦前も含めた詳細な経緯はそれほど人口に膾炙している訳ではない。以下ではヴァルミーの戦いに関連するいくつかの論点を取り上げる。

・プロイセン軍の前進

 ヴァルミーではフランス軍と連合軍の間で激しい砲撃が行われたが、砲撃以外の戦闘行為は極めて限られていた。例えばプロイセン軍は風車のあるヴァルミーの丘に布陣するフランス軍に対して歩兵部隊を前進させようとしたが、「停止命令を受けた時、歩兵はたった200歩しか前進していなかった」(Arthur Chuquet "Valmy" p125)。戦闘の大半は遠距離からの砲撃に終始したのが実態のようだ。
 その中で複数の説が存在するのが、プロイセン軍が前進を試みた回数。一般的には会戦の最中に2回、前進の試みがあったとする声が多い。

「それからプロイセン軍主力部隊がやって来て、短い弾幕砲火の後で前進したが、フランス軍野戦砲兵の弾幕に直面し、すぐに後退を強いられた。(中略)その間、ブラウンシュヴァイクは2度目の攻撃を送り出したが、再び激しい砲撃に遭い後退した」
Steven T. Ross "Historical Dictionary of the Wars of the French Revolution" p169-170

「プロイセン軍は午前7時に弾幕砲火で戦闘を開始し、正午頃に歩兵の攻撃が続いた。フランス軍の大砲はおよそ3対2で劣勢だったが、国民万歳!の叫び声と『サ・イラ』の旋律の中、プロイセン軍は熟達した砲撃によって後退を強いられた。(中略)プロイセン軍の2度目の攻撃が撃退された時、戦闘は午後8時の終幕に近づいた」
Ed. Samuel F. Scott & Barry Rothaus "Historical Dictionary of the French Revolution" p82

「戦線の動揺を見たデュムリエがクレアファイト師団による最も激しい攻撃が行われているシュテンゲルの戦線に4000人の予備をすぐ送る必要はあったものの、見ている者を驚かせたのは、フランス軍の未熟な連盟兵が砲撃の下で陣を保持し、1時間後に彼らの銃撃がプロイセン軍歩兵の前進を撃退するのに役立ったことである。さらなる砲撃の延長の後で、激しい雨の中、プロイセン軍は午後4時頃に2度目の前進を試みたが、同様に成功は得られなかった」
Stephen Pope "Dictionary of the Napoleonic Wars" p496

「今度はプロイセン軍の縦隊が前進する順番だった。フランス軍の砲兵は動揺し陣から逃げだしたが、士官たちの努力と模範によって立ち直り、そして歩兵の戦列を再編したケレルマンは隊列の間に徒歩で立ち、敵を近づけさせそれから銃剣突撃せよと兵士たちに呼びかけた。兵たちは将軍の熱狂に打たれ、国民万歳の叫びが一つの大隊から次の大隊へと広がり、谷を渡って攻撃側にまで響いた。プロイセン軍は、決然として強力に見える部隊に対して丘を登って突撃することを躊躇った。彼らはしばし谷底で止まり、それからゆっくりと谷間の彼らの側へと退却した。
 (中略)そして彼[プロイセン国王]は再び攻撃を率い、フランス砲兵が再開した致命的な砲撃で彼の幕僚が周囲で薙ぎ倒されるのを見ながら最前線を行進した。しかし今やデュムリエに送り込まれた兵たちがケレルマンと効果的に協力しており、[ケレルマン]将軍自身の部隊も成功に意気上がり、それまでにないほど頑強な戦線を築いた。背後に800人の死者を残してプロイセン軍は再び退却し、夜になった時にはフランス軍は勝者としてヴァルミーの丘に残っていた」
Edward Shepherd Creasy "Fifteen Decisive Battles of the World"


 このうちPopeのいう連盟兵の話は事実ではなく、「ヴァルミーの風車近くに布陣した13個連隊または大隊の歩兵のうち、志願兵大隊は第1ソーヌ=エ=ロワール大隊と第2モーゼル大隊の2つだけだった」(Chuquet "Valmy" p148)。また、Popeの言うようにフランス軍がプロイセン軍にマスケット銃で銃撃を浴びせることもなかった。さらにCreasyの指摘とは異なり「砲撃を見たプロイセン人の誰一人としてフランス人の叫び声には触れていない」(Chuquet "Valmy" p124)し、プロイセン軍の死者は会戦全体を通じて184人にとどまっている。
 このようにヴァルミーの戦いに関しては史実に反する話がしばしば伝えられているのだが、上に紹介した著者の全員が一致している「プロイセン軍が2回前進した」という話も実は怪しい。彼らとは異なる意見の持ち主もいるのだ。

「午後1時ちょっと前、非常に躊躇った後で歩兵はフランス軍陣地を正面から攻撃するよう命じられた。笛と太鼓の響きの中、プロイセン軍連隊は彼らの伝説的な精密さで攻撃のための2個横隊を組んだ。(中略)兵がたった200歩進んだところで、ブラウンシュヴァイクは止まるよう命じた。
 (中略)ラ=リューヌの高台からのさらなる偵察で敵が秩序と高い士気を持っていることを知ったブラウンシュヴァイクは軍事会議を招集した。そこで彼は"Hier schlagen wir night"(我々はここを攻撃できない)という歴史に残る意見を述べた。その意見は多数の者、特に――決定的だったが――国王にも同意された。さらに多くの砲弾が飛び交ったが、両者はそれから本格的に取っ組み合うことなく、夜になって戦闘は先細りとなった」
T.C.W. Blanning "The French Revolutionary Wars" p77-78


 Blanningによればプロイセン軍主力の前進は1回しかなかったという。ChuquetやRamsay Weston Phippsも彼と同じ見解だ。Chuquetはより詳細に説明している。

「あらゆるドイツ側の記録は例外なく、攻撃部隊が移動したのは1回だけだとしている。ケレルマンのみが、彼らは2回移動したと主張している」
Chuquet "Valmy" p131


 霧や雨の中、遠方にいる敵の動きを見ていたケレルマンの主張より、プロイセン側の主張の方が正確だと考えるなら、プロイセン軍主力の前進は1回だけだったと考えるのが妥当だろう。Chuquetはブラウンシュヴァイクが部隊の配置を変更したのを「ケレルマンはプロイセン軍が彼を攻撃しようとしているものと思い込んだ」(Chuquet "Valmy" p131)としている。ただ、ケレルマンの主張は今でもいくつかの研究者の文章内に痕跡を残している。

・テルモピュライ

「旅人よ、スパルタびとに伝えてよ、ここに彼らが
 おきてのままに、果てしわれらの眠りてあると」
ヘロドトス「歴史(下)」(松平千秋訳)p144


 ペルシア戦争でレオニダス王率いるスパルタ軍がペルシアの大軍相手に戦い、全滅したテルモピュライの戦いは、西洋ではよく知られた会戦である。フランス革命当時もそうした教養は存在しており、それを目の前の状況に当てはめて見せる者もいた。当時の北方軍指揮官デュムリエがそうである。
 ヴァルミーの戦いより前、ヴェルダン要塞が陥落した後で、デュムリエはムーズ河左岸を南北に伸びるアルゴンヌの森に防衛線を敷こうとした。標高はさして高くないものの通過できる隘路がたった5ヶ所しかないこの森に部隊を展開したデュムリエは、ここを「フランスのテルモピュライ」と呼んだのである。この話はよく知られているようで、後の著作者らが取り上げることも多い。

「デュムリエは主な隘路の守りを固め、侵略者のために見つけ出したテルモピュライだと誇った。しかし防御部隊にとって致命的なほど、この直喩はほとんどそのまま実現しそうになったのである[レオニダスのように全滅しそうになったということ]」
Creasy "Fifteen Decisive Battles of the World"

「東方にはドイツ人がフランスのテルモピュライにいた。彼らがもう一歩進めば革命は彼らの下に沈んだであろう」
Ernest Belfort Bax "Jean-Paul Marat"

「夜になってデュムリエはレオニダスのライバルになるよりも迅速に彼のテルモピュライから撤収し、シャロン大街道を渡ったアルゴンヌ南方の隘路の反対、クレルモンとサント=ムヌウールの間に陣を敷いたが、そこはドルーエが国王を追跡した[ヴァレンヌ逃亡事件の]場所でもあった」
John Emerich Edward Dalberg "Lectures on the French Revolution"


 では、デュムリエはいつこの「フランスのテルモピュライ」という台詞を口にしたのだろうか。Carlyleは以下のように記している。

「このアルゴンヌは『フランスのテルモピュライになるであろう!』(デュムリエ、2巻、391ページ)」
Project Gutenberg Carlyle "The French Revolution"


 実際のデュムリエの回想録第2巻によれば、彼がこの言葉を口にしたのは8月28日にスダンで開かれた軍事会議の後だったということになる。彼は会議の場では自らの決断を明らかにしなかったが、会議後に部下のトゥヴノだけに自分の考えを述べた。

「そして彼[デュムリエ]は地図上のアルゴンヌの森を示して彼[トゥヴノ]に言った。ここがフランスのテルモピュライだ。もし幸いにもプロイセン軍より前にここにたどり着けるのならば、全てが救われるだろう」
Gallica "La vie et les mémoires du général Dumouriez, Tome Second" p391


 Carlyleの文章はこれをそのまま引用したもの。しかし、このデュムリエ自身の主張は実は疑わしい。まず会議が開かれたのは28日ではなく29日(Chuquet "Valmy" p19)。さらに、会議の内容も彼が記したようなものではなかったという。

「デュムリエの記録は軍事会議の議事録及びディロン、マネー、ゴベールの報告と矛盾している。マルヌ河の背後に退却して渡河点を守るべきだなどといった発言は全くなく、会議は満場一致でフランスを救う唯一の道はオーストリア領ネーデルランド[現ベルギー]への本格的な陽動攻撃しかないというデュムリエの意見に同意した」
Chuquet "Valmy" p19


 実際、マネーはこの会議について以下のように記している。

「異なる意見が出された後で、ディロン将軍が最善なのは軍をフランドルの国境へ行軍させ、そこにいる部隊と合流してベルギー地域にいるオーストリア軍を攻撃することだと言った。それだけの部隊をもってすれば何者も我々のブリュッセルへの行軍を阻止できないだろうと。私はそのような意見が出されたことに吃驚したが、さらに驚きだったのはデュムリエだけでなくその場にいた全将軍が同じアイデアを抱いていたことだった。私は何も言うことができなかった」
John Money "An English General In the Army of Revolutionary France" p12


 彼らはこの議事録を実際にパリに送っている。会議の内容がこのようなものであった以上、この時点でデュムリエはそもそもアルゴンヌに防衛線を敷く考えなどなかったと考えるべきだろう。となれば、彼がアルゴンヌの森を指して「フランスのテルモピュライ」などと言うこともあり得ない。実際にデュムリエがベルギーへの侵攻を諦めてアルゴンヌに防衛線を敷くことを決断したのは、おそらく会議の2日後の8月31日である(Chuquet "Valmy" p22)
 では、デュムリエはいつアルゴンヌを「フランスのテルモピュライ」と呼んだのか。正確なことは分からないが、Blanningは以下のように書いている。

「彼が陸軍大臣のセルヴァンへ大胆な伝令を送ったのはそこ[アルゴンヌにあるグランプレの隘路]からであった。『ヴェルダンは奪われ、私はプロイセン軍を待っています。グランプレとル=ジレットの幕営地はテルモピュライですが、私はレオニダスより幸運に恵まれるでしょう』」
Blanning "The French Revolutionary Wars" p75


 Blanningの指摘が正しいのであれば、デュムリエがアルゴンヌを「フランスのテルモピュライ」と呼んだのは、実際にそこに到着した後ということになる。そして、ペルシア戦争のテルモピュライがそうだったように、フランスのテルモピュライも連合軍に迂回されてしまい、デュムリエはヴァルミー近辺まで退却してケレルマンらの増援を待つことになった。

・ゲーテ

「この地から、しかも今日から、世界歴史を画する一つの新しい時期が開けるのだ。そして諸君は、そこに居合わせたと言うことができるのだ」
ゲーテ「滞仏陣中記」(永井博、味付登訳)ゲーテ全集12 p147


 ヴァルミーの戦いについてゲーテが言ったとされる台詞は極めて有名である。彼の滞仏陣中記によれば、この言葉は戦闘の後で友人の求めに応じて述べたとされている。しかし、本当に彼がヴァルミーの戦い直後にこう言ったのかどうかは、実は微妙である。何しろゲーテの「滞仏陣中記」は実際の会戦から30年近くも後になって書かれたものなのだ。

「『滞仏陣中記』と『マインツ攻囲』が書かれたのはずっとのちのことであった。ゲーテは一八一九年、これらを自伝のなかの詳しい叙述にする考えをもったが、一八二〇年筆を起こし、一八二二年四月に完成した」
野村一郎「解説」ゲーテ全集12 p364


 実際、ヴァルミーの砲戦直後の時点では、この戦いがどれほどの意味を持つかについて気づいていなかった人も大勢いた。それも仕方ない面がある。ケレルマンは砲戦終了後、夜の闇に紛れて日中守りきったヴァルミーの丘を捨てて南方へ退却。逆にプロイセン軍はその後も10日間に渡って戦場にとどまり、国境へ向けて退却を始めたのはずっと後になってからだった。9月25日の国民公会向け報告で、フランスの陸軍大臣セルヴァンはヴァルミーの砲戦について何も触れていない(Chuquet "Valmy" p137)
 もう一つ、ゲーテの台詞で気になるのは後半の「そして諸君は、そこに居合わせたと言うことができるのだ」の部分。この言い回しはどうしても以下の文章を思い出させる。

「我が国民は諸君を再び喜びを持って見るであろう。そして諸君はこう言うだけでいい。『私はアウステルリッツの戦場にいた』。そうすれば彼らは『ここに勇者がいる!』と答えるだろう」
J. David Markham "Imperial Glory" p56


 ナポレオンがアウステルリッツの戦い後に出したこの布告は日付が1805年12月3日となっている。一方でゲーテの「滞仏陣中記」の出版は1822年4月以降だ。別にゲーテがナポレオンを剽窃したと言うつもりはないが、彼の台詞がそれほど独創的なものではなかったことが窺える。

――大陸軍 その虚像と実像――