1805年10月20日
ウルム





不運なマック将軍


「皇帝ナポレオンから大陸軍の兵士たちへの布告
  帝国司令部、エルヒンゲン、共和暦14年葡萄月29日(1805年10月21日)
(前略)兵士諸君、余は諸君に大きな戦いがあるだろうと言ってきた。だが、幸いにも敵の連携ミスがあったため、危険を冒すことなく戦の勝利と同じだけの成功を収めることができた。そして、歴史上空前のことであるが、これだけの偉大な成果を1500人にも満たない損失で達成できたのである。
 兵士諸君、この成功は諸君の皇帝に対する諸君の限りない信頼と、疲労及びあらゆる物の欠乏に耐える忍耐、そしてまれに見る勇気のお蔭である(後略)」
J. David Markham "Imperial Glory" p22-23


 1803年。アミアンの和約は破綻し、フランスとイギリスは再び戦争に突入した。フランス第一執政ボナパルト(後に皇帝ナポレオン)が英仏海峡に軍隊を集めてイギリス上陸を目指す姿勢を見せると、イギリス側は海軍力でそれを牽制する一方、大陸諸国を自らの味方とするべく外交努力を始めた。1805年、まずロシアが、続いてオーストリアがイギリスとの同盟に与する。第3次対仏大同盟の成立である。
 ナポレオンの当初目標はイギリスだったが、フランス・スペイン海軍がイギリス海軍に対抗して海峡の制海権を握ることがほぼ不可能だと分かった時点で、彼は大陸側の敵に対応することを決意する。イギリス遠征軍は大陸軍(La Grande Armée)と名を変え、ブローニュのキャンプから内陸部へ向けて前進をはじめた。
 皇帝ナポレオン率いる大陸軍と連合軍の最初の接触は、ウルムにおけるオーストリア軍の降伏で幕を閉じた。フランス軍が伝統的な進撃ルートであるシュヴァルツヴァルト(黒森)地方を通って前進してくると予想したオーストリア軍のマック参謀長がウルムにとどまっている間に、ナポレオンは彼らの北方を大きく迂回してその背後を断った。フランス軍はほとんど戦わず、ただ行軍しただけで勝利を掴んだのだ。
 一般にこのウルムの戦いは、ナポレオンの戦略が冴えわたった一例として知られている。逆にオーストリア側の将軍(ここでは参謀長のマック)の無能ぶりもしばしば指摘されるところだ。だが、世の中には必ずしもそうした定説に同意しない者もいる。以下ではその例を紹介しよう。

 まず、この戦いにおけるナポレオンの作戦計画はどのようなものだったのだろうか。Chandlerの「戦役」によると以下のようなものだ。

「概要を述べるなら、皇帝の計画は極めて単純なものである。合計して21万人に及ぶフランス兵が新たな組織である大陸軍となり、最も早く直接的なルートを通ってドナウ河へ突進し、その途上で同盟国であるバイエルンの兵2万5000人を吸収する。もしオーストリア軍が、シュヴァルツヴァルト地方でミュラが行っている陽動に刺激されて、その方面への進軍を継続するなら、ライン河から南方へ旋回したフランス軍がマック将軍の孤立した軍を包囲するだろう。そのうえで、フランス軍はロシア軍に鉾先を向ける。12月が終わる前には第3次対仏大同盟を構成するうちの最も大きな二カ国[ロシアとオーストリア]は厳しい教訓を受け、ピット[イギリス首相]の金も彼らの記憶から消え去ってしまうに違いない」
Chandler "Campaigns" p384


 ナポレオンはオーストリア軍を迂回してその背後を断つと同時に、オーストリアを支援するために西進中のロシア軍をオーストリア軍から分断することも狙っていた。Chandlerによるとナポレオンはそのためにミュラやベルトラン、サヴァリーらを南ドイツに派遣してその地域の偵察を行わせた。その上でナポレオンが決定した計画は以下のようなものだったという。

「ハノーヴァーとユトレヒトから移動してくる大陸軍の左翼はヴュルテンベルクで合流する。中央と右翼――英仏海峡に展開していた兵によって構成されている――はライン河中流域のマンハイム、シュパイアー、ローテルブール、ストラスブールに展開する。準備が整った段階で軍はライン河を渡り、ミュラとその騎兵がマックの注意をひきつけるためにシュヴァルツヴァルト地方に対して強力な陽動を行っている間に7個軍団がドイツ国内を素早く通過してドナウ河の合流地点を目指し、プフォルツハイムとドナルヴェルトの間を前進する」
Chandler "Campaigns" p385


 ミュラの騎兵予備で敵を幻惑し、その間に他の部隊が大きく敵の側面を回り込む。実際に起きたのはここに書かれている通りの事態であった。Chandlerによれば、ナポレオンは当初からそうした作戦を視野に入れて行動していたことになる。同じ見方を取る他の研究者も多い。

「概要を述べるなら、ナポレオンは彼の騎兵予備をライン上流で渡河させシュヴァルツヴァルト地方へ向かわせて、南方でオーストリア軍の気をそらす。その間に彼の兵をブローニュ、オランダ、ハノーヴァーからスワビアへと大きく旋回させ、オーストリア軍の右翼と後方へ侵攻することを意図していた」
Christopher Duffy "Austerlitz 1805" p40

「彼自身の側面と後方の安全を確保したうえで、ナポレオンは8月23日に、過去2年にわたって海峡の幕営地で戦闘能力を研ぎ澄ましてきた兵たちを前進させることを決断した。(中略)西方から接近する際には必ず通らなければならない狭い通路を確保するべくオーストリア軍が既にシュヴァルツヴァルト地方へ向かって前進していたのを見て、ナポレオンはオーストリア軍の作戦を逆に利用しようと考えた。ジョアシャン・ミュラ元帥率いる騎兵予備はライン中流域とシュヴァルツヴァルト地方に展開して敵が突破できないよう遮蔽する。この森の多い地域に近づいた時点で、ミュラは積極的な活動を行ってオーストリア軍の注意を引き、彼らの関心をナポレオンが攻撃しようとしている重要な側面から逸らす。その間に7個軍団が海峡に面した幕営地を出発し、素早くライン河へ、さらにその彼方へと行進する。そしてスワビアへ向けて大きく旋回し、オーストリア軍の戦略的右翼と後方を完全に危険に陥れる」
Scott Bowden "Napoleon and Austerlitz" p165


 だが、Bowdenが記すようにナポレオンが8月23日の時点で早くもこうした作戦計画を考えていたということは、実際にはあり得ない。何しろ8月下旬の段階ではオーストリア軍はまだ進軍を始めていなかったのだ。Bowden自身が以下のように記している。

「フランス軍がライン河へ向けて部隊を東進させている間に、フェルディナント大公のオーストリア軍は逆方向へと移動していた。一部のオーストリア軍は9月2日から攻勢を開始していたが、ハプスブルク軍の部隊7万2000人の大半は9月5日にヴェルスの幕営地を出立した。西方へ進んだオーストリア軍はイン河を越えバイエルンへとなだれ込んだ」
Bowden "Napoleon and Austerlitz" p168


 8月時点のオーストリア軍はまだ幕営地にとどまっており、「既にシュヴァルツヴァルト地方へ向かって前進していた」筈はない。たとえオーストリアがいずれ戦争に踏み切ることは想定していたとしても、彼らが国境を越えた後でどのような作戦を採用するかまで事前に予想するのは困難だろう。実際、Frederic Natusch MaudeはEncyclopedia Britannica, 11th editionの中で、ナポレオンがオーストリア軍についてほとんど情報を得ていなかったと指摘している。

「ナポレオンがイギリス侵攻を実際に決断していたのかどうかはしばしば議論になっているが、大陸の敵との戦争が始まった段階で通行しなければならない地域についての情報を十分に入手していなかったことを見ると、彼がイギリス侵攻以外の作戦について熟考していたとは想像しにくい。この事態を改善するため、ミュラや他の士官たち及びスパイが、平服で南ドイツを旅行し情報収集と地形の観察を行うよう命じられて送り出された。加えて、皇帝は敵の作戦準備の程度について不十分にしか知らず、準備段階の命令を口述した時点では彼は連合軍が前進する方向についてもいまだに気づいていなかった。彼が最終的にマックをウルムへ引き寄せるに至ったその後の展開を見越していたとはとても信じられない」
Maude "Napoleonic Campaigns"
Encyclopedia Britannica

 8月下旬、イギリス侵攻を諦めて内陸部に兵力を振り向ける決断をした段階では、ナポレオンの脳裏に具体的な作戦計画はまだ出来上がっていなかったと見るのが妥当だろう。彼がミュラとベルトランに対し偵察のためドイツへ向かうよう命じたのは8月25日、サヴァリーに対する命令はさらに遅れて8月28日である(La Correspondance de Napoléon Ier)。その偵察結果が伝わったのは更に遅く9月の中旬になってからであり、それまでは具体的な作戦を立てたくても敵情が分からなかったのである。
 だが、ナポレオンが伝統的なドナウ河への侵攻ルートであるシュヴァルツヴァルト地方に向かわず、部隊をより北方のライン河中流域へ差し向けたのは事実だ。それが結果としてウルムでの大勝利につながるのだが、敵情が分からない中でナポレオンはどのような理由で軍の展開地域を選んだのだろうか。まず、Maudeは以下のような見方を示している。

「しかし、8月26日になって彼[ナポレオン]は10万人のロシア軍がボヘミアへ前進しつつあり、それからイン河とドナウ河の合流点付近で8万人のオーストリア軍と合流しようとしていることを知った。この情報を受けて彼は軍の前進方向を変更することを余儀なくされた。主力はシュヴァルツヴァルト地方でもネッカー河北方のルートへ向かい、南方の道路は騎兵だけが見張ることになった」
Maude "Napoleonic Campaigns"
Encyclopedia Britannica

 ボヘミア方面に接近してきたロシア軍にも対処できるよう部隊の配置を北方へずらした。Maudeはそう説明している。これに対し、Esposito & Eltingの「アトラス」には異なる説明が載っている。

「ナポレオンはいまだドイツにいるオーストリア軍についてほとんど何も知らなかった。従って彼は軍の大半を敵の初動作戦地域から離れたブライザッハ―マインツ―ヴュルツブルク周辺に集め、より正確な情報を待った。9月13日、ミュラからの伝令が敵のバイエルン侵攻を伝えた。続く伝令がフェルディナントの前進については具体的な状況を明らかにしたが、依然としてロシア軍に関する情報は乏しく不正確であった」
Esposito & Elting "Atlas" map46


 ドナウ河周辺で活動するオーストリア軍から少し離れた地域に部隊を集め、敵に奇襲を受けないようにすることがナポレオンの狙いだった。それがEspositoとEltingの見方だ。Maudeと理由は異なるが、後々の作戦行動を睨んだうえで軍の展開地域を定めたという点は同じである。
 だが、ここに一つ、もっと変わった理由を指摘する研究者もいる。マーチン・ヴァン・クレヴェルトは「補給戦」の中で、8月下旬時点で最初にナポレオンが考えていたのは実は伝統的なシュヴァルツヴァルト地方への侵攻作戦だったと見ているのだ。

「ナポレオン皇帝の意図をもっともよく理解するには、恐らく彼の展開命令を調べることによって可能となろう。これらの命令には最初、ストラスブルクで八万もの兵のテントを準備すること、すなわち『大陸軍』全体のほとんど半分を収容することになっていた。そのうえ同盟国バヴァリアに対し、ナポレオンがウルムに食糧の大量貯蔵を準備するよう求めた事実をつけ加えてみよ。そうすれば、窮極の目的が何であったにせよナポレオンの最初の意図は、最短ルートを通ってバヴァリアに前進することによって、もう一つはシュワルツワルトを通り抜けてバヴァリアに進むことにより、その地でオーストリア軍に先んじることにあったのが明らかだ」
クレヴェルト「補給戦」p45


 他の研究者は指摘していないが、そもそも最初にナポレオンが目指したのはシュヴァルツヴァルト方面だった。彼はそのために、ストラスブールに50万人分、マインツに20万人分のビスケットを準備するよう8月23日に命令を出した(La Correspondance de Napoléon Ier)。これにバイエルンが準備する食糧まで含めれば、英仏海峡にいる部隊は現地調達なしでストラスブールからシュヴァルツヴァルト地方を通ってウルムまでたどり着けた、というのがクレヴェルトの見方だ。
 しかし、この計画は破綻した。ナポレオンの兵站組織には、それだけの食糧を準備することが不可能だったのだ。ナポレオンは28日にはストラスブールに集めるはずだった食糧について、20万人分のみをストラスブールに集め、残りはランダウ(20万人分)とシュパイアー(10万人分)に分散させるよう命令を変更している(La Correspondance de Napoléon Ier)。当初の予定より食糧を準備する地域が北方へとずれているのだ。この日に同じく命令を受けたサヴァリーが、実際に後に大陸軍が通過するネッカー河方面(シュヴァルツヴァルト地方の北方)を偵察するように言われているのも、展開地域の変更を睨んだ結果だろう。
 そして、8月30日に軍の展開地域を当初予定より北方へ変更する命令が出た。「この新配備に従って、ナポレオン軍の大多数は、かつて隘路の中で多くの損害を出したシュワルツワルト経由のかわりに、バーデンおよびヴュルテンベルクの豊饒な地を通って行動することになる」(クレヴェルト『補給戦』p48)
 ナポレオンがシュヴァルツヴァルト地方でなくライン河中流域に部隊を集めたのは、連合軍側の状況を睨んだためでも、ましてマック参謀長がウルムにこだわることを事前に察知していたためでもない。ナポレオンの行動を規制していたのは食い物だった。事前に必要な食料を準備することが不可能になった時点で、彼は現地調達ができる「豊饒な地」へと作戦地域を変更せざるを得なかったのだ。

「ライン川を渡るとナポレオンは、各軍団を別々に離し、最南端を除く全兵団に対して、左側の田野を刈り取って食って行くように命じた」
クレヴェルト「補給戦」p50


 ナポレオンが戦わずして勝利を得たウルム。彼の偉大な勝利の一つとして数えられるこの戦役だが、その実態は食い物を求めてさまよい歩いた軍隊が思わぬ幸運に恵まれただけなのかもしれない。



「『このマックもあわれなものです!』
 マック元帥が自嘲的にいって剣を差し出したあと、将軍たちもこれにならった」
長塚隆二「ナポレオン(下)」P182


 1805年10月20日。ナポレオンの前に降伏したオーストリア軍のマック参謀長と他の将軍たちが姿を現した。ナポレオンの副官を務めていたセギュール伯によると、あるフランス軍の士官が白いコートを羽織った年配の将軍に誰が指揮官かをたずねたところ、その人物は「貴方の前にいるのが不運なマック将軍です」(Bowden "Napoleon and Austerlitz" p157)と答えたという。つまり、この台詞はナポレオンの部下に対して述べたものであり、長塚氏が書いているようにナポレオンに向かって言ったものではないようだ。
 マックが誰に対して自嘲的な台詞を吐いたかはともかく、この戦役が彼にとって最悪の結果に終わったことは間違いない。ウルムでは7人の中将(Feldmarschall-Leutnant)と8人の少将(General-Feldwachtmeister)をはじめ歩兵51個大隊、騎兵18個大隊強の計約2万3000人が降伏したほか、大砲67門と弾薬車50両がフランス軍の手に落ちた(Bowden "Napoleon and Austerlitz" p245)。他の地域でフランス軍に退路を断たれて降伏した部隊まで計算に入れるなら、9月上旬にバイエルン領内になだれ込んだ7万人から7万2000人のオーストリア軍のうち実に6万人が敗北し失われたことになる。
 敗北の責任者として真っ先に上げられるのは、バイエルンへ攻め込んだオーストリア軍の参謀長であったマック中将(Feldmarschall-Leutnant)である。Chandlerはじめ、多くの研究者が彼の失敗について指摘している。

「実際、この時期のマック将軍は誤った楽観主義に陥っていた。(中略)彼の見通しは実はぬか喜びに過ぎなかった」
Chandler "Campaigns" p396-397

「安全な作戦拠点と考えていたウルム周辺に腰を据えた後で、マックは戦略的なイニシアチブをナポレオンに譲り渡してしまった。ナポレオンはそれを利用してバイエルンでは3対1、ウルム周辺では5対1の数的優位を達成した」
Gunther E. Rothenberg "Napoleon's Great Adversary" p120

「彼[マック]は次々と計画を立て、それぞれ途中まで実行しながら、結局その全てを放り出してしまうということを繰り返した」
Christopher Duffy "Austerlitz 1805" p47

「中立であるバイエルン領を通って西方へ前進し、攻めにくさで知られるウルムにその風評だけに頼って盲目的に執着した揚げ句に、軍をドナウ河とイラー河の合流点に釘付けにしてしまったことは、マックの戦略的な失敗だった」
Bowden "Napoleon and Austerlitz" p419


 マックの失敗はウルムにこだわり、フランス軍がシュヴァルツヴァルト地方からやってくると信じ込んでいたことにあった、というのが一般的な見方だ。もちろん、オーストリア軍も途中でフランス軍がシュヴァルツヴァルト地方でなくもっと北方を迂回してきたことには気づいたのだが、それでもマックはウルムから動こうとしなかった。
 Chandlerによれば、フランス軍が背後に回り込もうとしていることを知った段階で、マックが取ることができる対応策は3種類あったという。1つは南方ティロルへの退却だが、この策を選ぶとロシア軍との合流は不可能になる。2つ目はフランス軍がドナウ河を渡河している最中に攻撃をしかけて各個撃破を図るか、失敗してもウィーンへの退路を確保するというものだ。3つ目はドナウ南岸の支流を使って抵抗しながら後退し、時間を稼ぐ方法である(Chandler "Campaigns" p395)
 だが、結果から見ればオーストリア軍はこのいずれの策も採用しなかった。戦役の最終局面になってウルムからドナウ河北岸を突破しボヘミアへ脱出するという対策が実行に移されたが、これも結果的には中途半端に終わった。脱出を試みたのはウルムにいた兵力のおよそ半分に相当する2万人強だったが、その大半はフランス軍に追いつかれて降伏し、名目上の指揮官であるエステ家のフェルディナント大公を含む僅か1800人の騎兵だけが逃げ延びることに成功した。
 マックは、ろくに戦うこともなく敗北した責任を追求された。戦争後、軍法会議にかけられたマックは軍籍や勲章を剥奪され、2年間投獄された(Maude "Mack von Leiberich" Encyclopedia Britannica。マック批判の急先鋒は彼の上官だったフェルディナント大公で、彼は「どうしようもない愚か者であるマックが部隊をあちこちへ行軍させる命令を出し、しばしば敵に一撃を与える前に計画を変えてしまうため、軍は我々の目の前で何もしないうちに混乱状態に陥ってしまった」(Bowden "Napoleon and Austerlitz" p419)と述べていた。
 ウルムでのマックの敗北は同時代人からも不名誉なことと見なされていたようだ。1806年にフランス軍の攻囲を受けたガエタの指揮官ヘッセン=フィリップシュタット公はフランス軍に向かって「ガエタはウルムではないし、私もマックとは違う」(Richard Hopton "The Battle of Maida" p79)と叫んだという。オーストリア軍のシュトゥッテルハイムが記し1807年に英語に翻訳された本の中でも、著者は「この勇敢な兵たちはウルムにおいて、マックの行為の犠牲となり、ドイツ軍の壊滅という悲痛な運命に晒された」(Austrian Major-General Stutterheim "A Detailed Account of the Battle of Austerlitz" p145)と記している。
 さらに進んでマック自身の個人的資質に対して疑問を呈する者もいた。

「ホレイショ・ネルソンはさらに厳しく指摘している。『マック将軍を雇ってはならない。私はナポリで彼を知る機会があったが、彼は人でなしの悪党で、おまけに臆病者だ』。ナポレオンもおそらくこの見解に同意するであろう。彼はマックについて、知る限りもっとも平凡な人間で、うぬぼれに満ち、何でもできると信じていたが、実際には才能に乏しく加えて不幸だった、と評している」
Philip J. Haythornthwaite "Who was Who in the Napoleonic Wars" p201

「カール大公はマックについて『あまりに意志が弱くうぬぼれが強い人物だったため、誰でも簡単に彼を手玉に取ることができた』と考えていた」
David Hollins "Austrian Commanders of the Napoleonic Wars" p63


 だが、研究者の全てがマックのみを批判して済ませている訳ではない。ウルムにおけるオーストリア軍の敗北で必ずといっていいほど指摘されるもう一つの要因が、軍首脳部の対立と混乱だ。

「状況の悪化は既にオーストリア軍司令部内に激しい論議を巻き起こしていた。マックはあらゆる犠牲を払ってでも軍を集結させておこうとしていたが、フェルディナント大公は参謀長の考えを強引に覆し、ウルムからの騎兵部隊の即時撤退を命じた」
Chandler "Campaigns" p399-400

「オーストリア軍の指揮系統から秩序と服従があっという間に消滅していった。翌日[10月12日]行われた軍首脳部の会合は荒れ、マックはもう一度ボヘミアに向けて突破を試みるようせきたてられた」
Rothenberg "Napoleon's Great Adversary" p121

「[マックが事実上の指揮官だと伝えた神聖ローマ皇帝の]手紙はフェルディナントとマックの間にあった嫉妬と不信を一段と募らせた。結果として、両者の間のやりとりは書面を通じたものだけになり、『あらゆる士官は他の士官が同席して何があったか確認してくれない限り、マック将軍に随伴しようとしなくなった』」
Bowden "Napoleon and Austerlitz" p171

「勇気と進取の気性に富んだマック(いささか衒学的ではあったが)は、プロテスタントであるが故に彼の同僚である貴族たちから侮られていた。部下の師団長らの意見を忠実に反映しようとしたフェルディナントは、即時撤退を望んでいた(中略)。マックは退却は破滅につながる可能性が高く、むしろ増援の到着までウルム周辺で積極的な防衛を図る方がいいと主張した」
Esposito & Elting "Atlas" map48


 もう一つ、面白い見方としてあるのが、マックはナポレオンのスパイに騙されていたとの見方だ。ウルム攻囲戦も終盤に差し掛かりつつある局面になって、マックはイギリス軍がブローニュに上陸しフランスで革命騒ぎが起きたとの非公式情報を得る。大陸軍はこの事態の急変に対応するべくフランスへ引き上げている最中に違いないと判断した彼は、軍をウルムから脱出させる機会を逃してしまう。だが、この情報は全て嘘だった。

「後になってマックは悪名高いスパイ、カール・シュルマイスターが彼を騙したことを知った」
Ian Castle "Austerlitz 1805" p30


 中にはより積極的にマックを擁護している研究者もいる。MaudeはEncyclopedia Britannica, 11th editionの中で、マックがウルムで行おうとしていた作戦について、バイエルン領内にある食糧を全てウルムに集めてそこに立てこもることで、ウルムを包囲するフランス軍が却って窮地に陥ることを期待していたのだと指摘している。増援にやって来るロシア軍がフランス軍を攻撃する間、「彼[マック]は自身の軍を[ロシア軍による]一撃の金床にする決意だった」(Maude "Napoleonic Campaigns" Encyclopedia Britannica。マックがウルムにこだわったのにはそういう背景があったのだ。
 しかし、マックはこの方針を貫くことができなかった。彼自身の躊躇いと部下の不服従で決意が揺らいだマックは、北東のボヘミア方面への脱出を計画する。だが、Maudeによると「一部の部下による故意の妨害と不服従」(Maude "Napoleonic Campaigns" Encyclopedia Britannicaがあって脱出は中途半端に終わった。マックはさらにウルムでの抵抗を続けようとしたが、最終的には「要塞に入り込んだフランス人がオーストリアの兵を煽って暴動を始めた」(Maude "Napoleonic Campaigns" Encyclopedia Britannicaために無条件降伏を強いられたのだという。

「限られた指揮権しか持たずに8万人の部隊を率いた彼[マック]は、あらゆる時代を通じて最も偉大な戦略家でありどのような主君にも指揮権にも服することなく文字通り2倍以上の強さを持っていた敵[ナポレオン]と戦わなければならなかったにもかかわらず、そうした言い訳も許されないままこの惨事をあがなう『犠牲の山羊』にさせられた」
Maude "Napoleonic Campaigns"
Encyclopedia Britannica

 同じことはEsposito & Eltingも指摘している。

「マックは『犠牲の山羊』にさせられた――[フェルディナント]大公は、たとえどれほどうすのろであったとしても、神聖にして犯すべからざるものだったのだ」
Esposito & Elting "Atlas" map48


 果たしてマックはウルムの敗北に責任を負うべき頑迷固陋な「愚か者」であったのか、それともオーストリア軍内部で孤立し「犠牲の山羊」にさせられた不幸な人物だったのか。おそらく、両方の側面があったというのが実情だろう。ただ、一般に広く知られているマック像は、複雑なこの人物の一面にしか光が当たっていない。そうした話だけ読んで満足しているようでは、歴史を学ぶ楽しみのほとんどを知らないことになってしまう。

 最後にマック自身の言い分を、"NWC: Hoofdkwartier 2e NEDERLANDSCHE DIVISIE Revolutionary wars website"から紹介しよう。

「敵の予想しない行軍方向は私の精神状態を完全な混乱に陥れた。私は思案し、軍首脳部の者たちに忠告を求め、状況を何度も何度も熟考している間に、行動に踏み切る時間を失っていった。(中略)事態を恐れたフェルディナント大公は、私よりも大きなミスを犯した。彼はシュトゥットガルトを迂回してボヘミアへたどり着くべく2万人の部隊と伴に脱出した。ボナパルトはランヌ元帥とミュラ公爵率いるエリート歩兵1万2000人と騎兵6000騎に対し追撃を命じた。大公はノルトリンゲンで追いつかれた。彼は自らの脱出しか考えていなかった。一部の軍は彼についていった。残りは包囲され、抵抗することなく捕虜になった。(中略)この大公による不運な行軍の後で、私の状況は絶望的になった。私がウルムで保有していた6万5000人のうち、残ったものは3万人未満になってしまった。私は勇気を失い――もはや私自身を信用できなくなっていた――大公の不運は私の決断力を完全に奪い去った」
General-Feld-Zeugmeister von Mack "Vertheidigung des östreichischen Feldzugs von 1805"

Mack about his defeat at Ulm, and archduke Ferdinand's behaviour during these days, 1805

 マックが名誉と軍籍を回復したのは、ナポレオンの没落後である1819年だった。

――大陸軍 その虚像と実像――