クロファードの報告
1795年12月21日
以下に抜粋を載せている報告書は、陛下の外務省の主務大臣であるグレンヴィル卿がクロファード中佐から受け取ったもので、クロイツナッハのクレアファイト元帥の軍司令部発1795年12月21日付。
直前の手紙で述べたようにクレアファイト元帥が得た優位の結果、ジュールダン将軍は、軍の右翼を安全にするため様々な機動を無駄に試みた後で、今月13日にナーエからの退却を開始し、15日にフンズリュックに陣を敷き、ラインのバハラッハとモーゼルのトラールバッハ間にある全ての主要街道を占拠しました。
15日から今日にいたるまで、両軍の前衛部隊間でいくつかの重要でない戦闘が行われ、オーストリア軍の軽兵は何度かビルケンフェルトからトリーアまでの地域を捜索しました。しかし山岳部にある敵陣地の強さ、及び最近の雨によってそこへ通じる道があまりに悪くなり重砲兵の行軍をほとんど不可能にしたことが、結果としてクレアファイト元帥によるどのような作戦の実行も妨げました。閣下の戦線はいまやライン沿いのドライエクハウゼンからシュトロムブルク・キルン、オーバーシュタインを経てビルケンフェルトへ伸び、そこで彼の軍の左翼は、カイザースラウテルンからノイシュタットを経てシュパイアーバッハと呼ばれる小川に沿ってラインまでを占拠しているヴルムザー元帥の右翼と、軽兵の連鎖によって連結しています。
ピシュグリュ将軍はオーストリア軍にカイザースラウテルンの陣地放棄を余儀なくさせようといくつかの試みを行いました。そして今月20日、彼は非常に優勢な兵力で攻撃をしましたが、数時間の戦闘の後に完全に撃退され、2000人近くといくつかの大砲を失いました。この戦いでオーストリア軍は29人の士官、600人から700人の下士官及び兵が死傷しました。
敵は時にデュッセルドルフから陽動を行いますが、ジークの小川に沿って布陣しているオーストリア軍部隊が彼らをその方面に完全に抑止しています。
ヴルムザー元帥の軍の一部とコンデ公の部隊はフィリプスブルクからバーゼル間のライン右岸を守っています。
google book "A collection of state papers, Vol. III. Part II." London Gazette p59-60
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