クロファードの報告2
1795年10月30日



 マインツのクレアファイト元帥の司令部、10月30日

 閣下、
 クレアファイト元帥が昨日、マインツ前面の敵の塹壕を掘った宿営地を攻撃し、完全な勝利を得たことを謹んでお知らせします。以下はこの実に素晴らしく重要な作戦の詳細です。
 昨年11月にフランス軍がマインツ前面の高地にある陣地を奪い、右翼をラウベンハイムに、左翼をバーデンハイムに置いたことを閣下も思い出してください。いずれの村もライン沿いにあり、前者は要塞の上流に、後者は下流にありました。この陣地は完全にその方面で町を取り囲んでいました。そして最初にそこを占拠した時以来、ほぼ攻撃が行われた日まで、彼らは常に最も手ごわい塹壕のの建設と完成に取り組んできました。この陣地は2つの戦線から成っていました。第1線は離れた場所にある後方まで閉じた大きな防御陣地で構成され、互いに3つの目立つ範囲にある落とし穴によって守られつながっていました。第2線は完全につながった塹壕で、同様に守られていました。2つの防衛線の堀はいずれも野戦陣地に通常使われるものをはるかに超える深さを幅を持っていました。特に要塞化した宿営地の建設には向いていた地形の利点は全て使われていました。そしてフランスの将軍たちはしばしば個人的に、この陣地は全面的に難攻不落だと考えていると述べていることを知られていました。
 ジュールダン将軍にライン再渡河を強いた後で、クレアファイト元帥は軍の一部とともにマインツから約5英マイルのところにあるヴィッカートの宿営地に戻り、その結果、敵がその地の前にいる軍を極めて大量に増援しようと試みているとの情報を受け、ラーンの向こうまで前進した兵たちを待つことなく、上に記した塹壕を歩兵52個大隊と騎兵5個連隊で占拠しているシャール将軍の攻撃を決断しました。
 この攻撃に使われる軍は常備兵32個大隊、いくつかの軽歩兵、及び騎兵28個大隊で、一部はマインツ守備隊から取られ、4つの師団に編成されました。1つは歩兵10個大隊と騎兵6個大隊で、ニュー[ノイ]将軍麾下に、1つは歩兵10個大隊と騎兵6個大隊で、シュターダー将軍麾下に、1つは歩兵5個大隊と騎兵16個大隊でコロレード将軍麾下に、そして1つは擲弾兵7個大隊でヴェルネック将軍麾下に置かれました。ニュー将軍とシュターダー将軍は行軍を率い、前者はラウベンハイム上にある高地へ、後者はハイギー=クロイツ(敵の右翼正面にある古い教会)へ歩兵で3つの横隊を形成し、敵陣右翼に対して互いにすぐそばで連携しながら攻撃を行い、その間にヴァラスディナー軽歩兵がラウベンハイム村を迂回しました。そしてラインで乗船した約1000人のスラヴォニア兵が砲艦に守られながら敵右翼の背後に上陸し、陽動を行うため激しい射撃を続けました。コロレード将軍は敵中央正面にあるベルツェンハイム村へ行軍し、そこで兵の一部、特に騎兵を、シュターダー将軍と協力するため派出し、残る部隊の一部とともに中央の様々な場所に向けて威嚇行動をする一方、彼の部隊の歩兵2個大隊と騎兵2個大隊は重砲兵のかなりの部分とともに敵左翼正面にあるモンバック及びゴンセンハイムの2つの村へと陽動攻撃を行いました。いくつかの軽歩兵は、敵右翼背後に上陸した部隊と同じ目的で、敵陣左翼後方に上陸しました。ヴェルネック将軍の師団は予備としてマインツの斜堤にとどまりました。
 クレアファイト元帥が本当の攻撃を宿営地の中でも最も高く圧倒的に強力なところに振り向けた点に注目すべきです。その地点での成功が敵全軍の即時退却を不可避にするためです。
 この方法による攻撃は朝5時半に始まりました。配置は実に正確に行われ、極めて短時間で会戦は規律と勇気の模範を示したオーストリア軍の優位で決まりました。落とし穴のため乗馬したまま前進できないことに気づいた将官たちは馬を下り、兵たちの先頭に立って徒歩で塹壕へと突入しました。敵は少しも攻撃されると予想していませんでした。そしてオーストリア兵が陣地に接近するために乗り越えねばならない困難によって確かに防御の準備をする時間を与えられたものの、にもかかわらず奇襲効果と、同様に攻撃が実行された尋常でない大胆さこそが、それ以上の抵抗なしにかつて占拠した最も恐るべき陣地を敵が放棄する原因になったと考えるべきでしょう。
 106門の大砲、200両の弾薬車、及び約2000人の捕虜(将軍2人と他の士官60人を含む)が既にマインツへ連れてこられました。攻囲のために集められた各種の大量な物資も同様にオーストリア軍の手に落ちました。
 敵の死傷者はおそらく約3000人と見られます。
 オーストリア軍はこの戦闘で60人から70人の士官、及び約1500人の下士官と兵が死傷しました。前者の中にはシュメルトリンク中将とヴォルケンハイム少将が含まれています。
 ナウンドルフ将軍はゲラウ近辺に宿営していた彼の兵の一部とともに午後にラインを渡り、オッペンハイムに布陣しました。
 元帥は今、マインツ前面に宿営し、彼の軽歩兵はあらゆる方角へ追撃しています。

google book "A collection of state papers, Vol. III. Part II." London Gazette p47-49


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