1812年9月7日
ボロディノ――ラエフスキー角面堡





ザクセン胸甲騎兵の突撃


「戦闘はいよいよクライマックスを迎える。有名なこの大角面堡は十九世紀半ばにロシア皇帝ニコライ一世により復元され、その中央にバグラチオン将軍の墓が建てられた。その簡素極まりない墓碑には、この戦場の記念碑の中で一番心を打たれる。会戦当時のこの堡塁は、天然の小丘を突角堡(フレッシュ)と同じ厚さの土壁で補強し、ライエフスキー師団が三方からこれを守った。これはまるで石器時代の堡塁のように原始的だが、効果抜群の防衛設備だった。西から見るとここはかなり急傾斜の丘になっていて、おまけに塁壁の外側には掘割やたこつぼ壕があるので接近しにくい。本来、この堡塁はこの平原一帯を制覇する砲兵隊の陣地で、塁壁の内側は砲二〇門と、砲座と砲座の間の塁壁から発砲する歩兵一大隊強が入れる広さがあった。弱いのは東側で、こちらは地面はほぼ平坦である上、後方のロシア軍から砲車、兵隊、馬などを引き入れる開口部となっていた」
ナイジェル・ニコルソン「ナポレオン一八一二年」 p134-135


 1812年のロシア遠征において、ナポレオン率いる大陸軍(フランス軍及びその同盟諸国軍)とロシア軍とが最も大規模な戦闘を繰り広げたのが、9月7日にモスクワ西方で行われた「ボロディノの戦い」だ。6月24日に国境を越えて侵入してきた大陸軍に対し、ロシア軍の事実上の総指揮官であったバルクライ=ド=トリーは戦闘を避けて退却を続ける作戦で臨んだが、彼がロシア第3の都市であるスモレンスクすら放棄して撤退を続けたため、ロシア首脳部は彼を総指揮官職から外し老将クトゥーゾフを新たな総指揮官とした。
 そのクトゥーゾフがモスクワまで退却する前に抵抗する場所として選んだのがボロディノだった。足を止めて戦う決断をしたロシア軍に対し、大陸軍はまず9月5日に敵の前衛陣地だったシェルヴァルディノ堡塁を奪取。翌日をロシア軍の本陣偵察にあてたうえで、7日の戦闘でロシア軍に大きな損害を与えてこれを退却させるのに成功した。しかし、大陸軍側の損害も大きく、ナポレオンが期待したような決定的勝利とそれに続く和平は達成できなかった。大陸軍はモスクワまで前進し、やがて冬将軍の到来によって敗北した。

 このボロディノの戦いで大きな論争を呼び起こしたのが、ロシア軍戦線の中央にあった大堡塁(ロシア側呼称はラエフスキー角面堡)をどの部隊が奪取したかという点だ。長時間にわたって抵抗を続けていたこの堡塁に対し、大陸軍は午後になって騎兵部隊と歩兵部隊が協力した総攻撃をしかけ、これを落としている。ロシア軍はこの攻撃によって最前線の拠点を失い、部隊の後退を強いられた。
 誰がこのラエフスキー角面堡への攻撃を成功させたのか。Chandlerは「戦役」の中で次のように述べている。

「圧倒的な砲撃の支援を受けながら、ユージューヌ副王は正面から3個師団で襲撃を仕掛け、同時に第2予備騎兵軍団(馬事総監の弟であるコレンクール将軍が指揮を引き継いでいた)は敵の後方に回り込んで狭間も砲座もない角面堡の背後から突入すべく角面堡のすぐ南方でロシア軍戦線に突進した。午後2時ごろ、この二つの攻撃は恐るべき損害を蒙りながらも十分な勢いと能力でもって実行された。フランス騎兵はしかるべく突破を成し遂げ、計画通り角面堡へと突入した。第5胸甲騎兵連隊の先頭に立ってロシア軍の防御陣を一掃したコレンクールはその場で戦死したが、その時にユージューヌの疲れきった歩兵が西方から塁壁を乗り越えてなだれ込み、角面堡を守備していたロシア軍4個連隊は最後の一人に至るまで殺された」
Chandler "Campaigns" p805


 同じChandlerの著書である"Dictionary of the Napoleonic Wars"にも、ほぼ同様の説明が簡単に記されている。

「歩兵が大砲用の狭間を通じて襲撃しようと試みている間、オーギュスト・ド=コレンクールは第5胸甲騎兵連隊を率いて角面堡の背後へ向かい、突入に成功した。将軍は戦死したが、ラエフスキー角面堡は遂に午後3時にフランス軍の手に落ち、クトゥーゾフの戦線の急所は打ち抜かれたかに見えた」
Chandler "Dictionary of the Napoleonic Wars" p66


 そしてEsposito & Eltingの「アトラス」には次のようにある。

「ようやくユージューヌは部隊を引き返し、ブルーシエールを先頭に、ジェラールとモランを支援に回して攻撃を仕掛けた。コレンクール将軍(砲弾によって戦死したモンブリュンの後を引き継いだ)は角面堡の南方に突撃した。ラエフスキーの残存歩兵部隊を蹂躙したうえで、彼は大陸軍を止めようとしたロシアの予備騎兵部隊も壊走させた。そして、突然配下の胸甲騎兵部隊の一部を左翼へ旋回させ、角面堡の後方にいるロシア歩兵部隊を追い散らして角面堡を背後から襲撃した――その間に彼自身は戦死した。同時にブールシエールの歩兵が正面から突破してきた」
Esposito & Elting "Atlas" map118


 ユージューヌの第4軍団(歩兵部隊)と、コレンクールが臨時に指揮を取った第2予備騎兵軍団とが協力して角面堡に攻撃をしかけた。歩兵部隊は正面から、騎兵部隊は南側から回り込んで攻撃し、最終的にはワティエール師団に所属するフランス第5胸甲騎兵連隊が堡塁を奪った。だが、その際にコレンクール自身は戦死した…というのが両者の説明だ。この説を唱えたのは、ナポレオンが会戦後の9月10日付で出させた大陸軍公報が最初であろう。

「将軍コレンクール伯は(中略)第5胸甲騎兵連隊の先頭に立って前進し、あらゆるものを蹴散らし、角面堡の左側入り口からその中へ入った。(中略)この素晴らしい突撃で名を上げたコレンクール伯はその運命を終わらせた。銃弾に撃たれ、彼は死んだ。羨望に値する、栄光ある死であった」
J. David Markham "Imperial Glory" p297


 コレンクールと第5胸甲騎兵連隊の話は、戦死したコレンクール将軍の兄である馬事総監アルマン・ド=コレンクールの書いた有名な回想録によってさらに広まった。その中には以下のような文章がある。

「私の弟は、歩兵大隊にそれぞれ支援された二箇師団に進撃を命じる一方、みずからすすんで第五胸甲騎兵部隊の先頭に立ち、指揮下の各部隊を鼓舞して大堡塁への攻撃に向かわせ、すでにたびたび試みられて成功しなかったこの攻撃を、決定的な勝利に導こうとしたのであった。そして彼は、敵の掃蕩に成功した。(中略)副官のひとりが駆けつけてきて、皇帝に、大堡塁がたったいま私の弟の手によって陥落し、敵はあらゆる拠点から退却しだした、と告げたのであった。
 そして、その直後のことであった。悲運の弟の副官で、弟のもとにつき従っていたウォルベール公が、皇帝にこの戦闘の詳報をもたらしにきて、弟が心臓下部に銃弾を受け、戦死したことを告げたのである。弟はすでに奪取した大堡塁を出て、敵への追撃にうつるところだった、という」
アルマン・ドゥ=コレンクール「ナポレオン ロシア大遠征軍潰走の記」 p79-80


 セギュール伯が記した回想録でも、「彼[コレンクール]はすぐに出発し、目の前にいるあらゆるものを駆逐し、突然彼の胸甲騎兵と伴に左へ旋回して、血に塗れた角面堡へ最初に入ったところで銃弾によって倒された」(General Count Philippe de Ségur "Napoleon's Expedition to Russia" p79-80)との話が紹介されている。

 ロシア遠征について調べた最初期の歴史書にも、この話は採用された。例えばDigby Smithの"Borodino"の中には1823年に出版されたシャンブレー侯の著作から引用された文章がある。

「ユージューヌはブルーシエール、モラン、ジェラール師団に対して射撃をやめ強襲を行うよう命じた。同時にコレンクールがワティエール師団の先頭に立って対峙している敵の戦線を突破し、正面の胸壁を迂回した。ロシア側の守備隊は全て切り倒され、フランス軍は大砲21門を奪った。ワティエールは再びユージューヌの右側面に戻った。コレンクールは角面堡の中で致命傷を負った。時間は午後3時になっていた…」
Smith "Borodino" p122-123


 これと同じ描写は割と最近に出版された本でも見られる。たとえば1985年に出版されたナイジェル・ニコルソンの「ナポレオン一八一二年」では以下のようになる。

「早朝のウージェーヌ軍の攻撃を皮切りに、この大角面堡は激しい砲火にさらされた。いよいよ歩兵隊と騎兵隊が真正面から合同攻撃をかける時が来た。二師団から成るウージェーヌ軍団はコローチャ河を渡って斜面を登り、胸墻を越えてこの大角面堡に強硬に侵入する。他に六騎馬連隊がちょうどロシア軍の騎馬部隊を背後から突くような形で右側に回り込み、堡塁の後方から内側に向かって突入する予定であった。この騎兵隊の指揮官は、馬事総監コーランクールの弟で、ナポレオンの副官をつとめるオーギュスト・ド・コーランクール将軍。歩兵隊は、コーランクールの反対側からの突進とほぼ同時に首尾よくこれに攻撃をかけた。ロシア軍砲手たちはてこ棒や、弾薬を装填する時に使う押込み棒などで対戦したが、全滅した。第五胸甲騎兵隊の先頭に立ったコーランクールは、堡塁の裏側の開口部に突進中に心臓に銃弾を受け、勝利をあげた瞬間に倒れた。彼の戦死の知らせが届いたとき、ナポレオンは『彼は勝利を決定的にして、勇士らしく散った』と述べ、兄のアルマン・ド・コーランクールのほうに向き直り、その目に浮かぶ涙を見ると、辞去する機会を与えようとした。コーランクールは『感謝のしるしに帽子をちょっともち上げただけで、それを辞退した』(セギュール伯)」
ニコルソン「ナポレオン一八一二年」 p135-136


 最も新しい本で同じ主張をしているのはFrançois Guy Hourtoulleの"Borodino-The Moskova: The Battle for the Redoubts"だろう。2000年に出版されたこの本には、以下のような記述がある。

「コレンクールの率いた突撃はワティエール=ド=サン=アルフォンスの師団が先頭に立った。第5及び第8胸甲騎兵連隊が彼らの新しい指揮官に従って最初に進んだ。この騎兵の大群は速度を上げ、大堡塁の側面を駆け、突如左へ旋回して大砲と砲兵を守る目的で支援に当たっていたロシア軍のいる谷間目掛けて襲い掛かった。リハチェフ率いるバゴヴート第2軍団所属の第17師団がこの胸甲騎兵による突撃の矢面に立った。角面堡は大砲と弾薬車で効果的に守られており、ロシア歩兵はすぐ背後にある谷間を通じてそこから出ていた。
 同時に角面堡の正面からは3つの歩兵部隊がその目標に向かって突撃した。彼らは胸甲騎兵がロシア軍守備隊に突撃したのと同時に土壁をよじ登った。
 陣地は奪われ、リハチェフ将軍は捕虜になった。しかしモランの代わりに指揮に当たっていたラナベール将軍は攻撃中に戦死した」
Hourtoulle "Borodino-The Moskova: The Battle for the Redoubts" p48


 以上に紹介した一連の著作では、フランス騎兵部隊による迂回行動と第5胸甲騎兵連隊を先頭にした突撃が成功しラエフスキー角面堡は落ちたがその際にコレンクールが戦死した、というのが共通理解となっている。

 しかし、世の中にはこの説を採らない書物も多い。他の著作はどのような説を唱えているのだろうか。 1988年に出版されたGeorge F. Nafzigerの"Napoleon's Invasion of Russia"から引用しよう。

「角面堡に最初にたどり着いたのはワティエールの第2胸甲騎兵師団だった。角面堡の後方に入ろうとした瞬間、彼らはそこにいた歩兵による一斉射撃を浴びた。第5胸甲騎兵連隊の先頭にいたコレンクール将軍は撃たれ、戦死した。ワティエール師団は撃退され、生じた隙間を埋めるように第4予備騎兵軍団が移動してきた。ザクセン、ポーランド、ヴェストファーレン人部隊で構成されるロルジュの第7胸甲騎兵師団と、その左翼に2列横隊を形成するロスニーキの軽騎兵部隊、及び軍団所属の騎馬砲兵部隊が前進した。彼らはロシア軍の第33猟兵連隊とペルム歩兵連隊、キクスホルム歩兵連隊から60歩の距離で射撃を浴びた。大陸軍騎兵部隊の前進は止まったが、ティールマン将軍はザクセンの近衛騎兵連隊と伴になおも前進を続けようとした。
 近衛騎兵連隊は左を向いて彼らの後方にいたツァストロウ胸甲騎兵連隊を暴露し、直接角面堡の胸壁へと前進した。近衛騎兵連隊とその最も近くにいたツァストロウ胸甲騎兵連隊の一部の大隊は胸壁を乗り越え、残りのツァストロウ胸甲騎兵連隊所属大隊は角面堡の後方や狭間を通って突入した。ザクセン部隊が胸壁の上を乗り越えた時、彼らは角面堡に布陣していた歩兵部隊が密集隊形から上へと突き出した銃剣に迎えられた。守備隊は角面堡周辺にいたロシア歩兵からの射撃によって支援されていた。殺された騎兵は角面堡の中に転げ落ちたが、彼らの背後には怒り狂った仲間たちがすぐに続いていた。そしてあらゆる軍事的規律や組織的行動とはかけ離れた血みどろの白兵戦が起きた。
 フランス歩兵部隊は騎兵のすぐ後から前進してきており、第9歩兵連隊の角面堡占領によって彼らの地歩はしっかりと固められた。角面堡近辺における戦闘の激しさにもかかわらず、ロシア軍は角面堡から6門の大砲を回収するのに成功した。2門は北方の入り口で放棄され、3番目は掘割に投げ出された。残る10門は角面堡内で砲車から下ろされた状態で見つかった。この重騎兵による角面堡の奪取は軍事史の中でも並ぶことのない偉業であった」
Nafziger "Napoleon's Invasion of Russia" p246-247


 コレンクールとフランス第5胸甲騎兵連隊はロシア歩兵の一斉射撃で撃退された。ラエフスキー角面堡を奪ったのは、彼らの直後に堡塁へなだれ込んできたティールマン将軍率いるザクセンの近衛騎兵連隊とツァストロウ胸甲騎兵連隊(第4予備騎兵軍団所属)である。これがNafzigerの説だ。そして、同じ説は彼以外にも多くの著者が唱えている。

「角面堡への競争はおそらくワティエールの胸甲騎兵師団が勝利した。彼らが後方から突入しようとした時、角面堡支援に当たっていたロシア軍歩兵が60ヤードの距離から壊滅的な一斉射撃を行い彼らを撃退した。第5胸甲騎兵連隊の先頭に立ち北方の隙間からまさに柵の中に入ろうとしていたコレンクール将軍は、心臓の下に銃弾を受けて戦死した。
 ワティエール師団が撃退されたことで、南側面から角面堡へ前進していた第4予備騎兵軍団の進路ができた。ティールマンはロルジュの胸甲騎兵師団を巧妙な攻撃用陣形に組んだが、騎兵がなだらかな斜面を駆け上っている間に近衛騎兵連隊が砲兵陣地の胸壁へ直進するように左へ向かったため、次第にツァストロウ胸甲騎兵連隊が暴露されるようになっていった。
 近衛騎兵連隊とツァストロウ連隊の中で角面堡に最も近い場所にいた大隊は砂と死体に埋もれた掘割になだれ込み、最も優れた騎手は胸壁を飛び越え、他は狭間を通ったり後方へと回り込もうとしたりした。すぐに『狭苦しい堡塁内は凶悪な騎兵とロシア歩兵がひしめき、混乱しながら互いに相手の首をしめたり押しつぶそうとした』。後方の連隊とツァストロウ連隊の残る大隊は、一部は南方の入り口から角面堡へなだれ込み、他は背後の谷間に潜んでいた歩兵に向かって直接に駆けていった」
Christopher Duffy "Borodino and the War of 1812" p126-127

「しかし、先導する師団(ワティエールの胸甲騎兵)が北側の入り口から突入しようとした瞬間、彼らは後方60ヤードのところにいたロシア軍歩兵部隊による壊滅的な一斉射撃を受けて前進を止められた。第5胸甲騎兵連隊の先頭にいたオーギュスト・コレンクールは心臓の直下に銃弾を受け、乗馬から落ちて死んだ。同時にツァストロウ胸甲騎兵連隊の大隊を先頭にした第4騎兵軍団が南方の入り口や他の場所から――第5胸甲騎兵のように――なだれ込んできた。
『彼らは角面堡に正面から向かい、掘割を越えなだらかな斜面を駆け上がった。そして馬蹄の下にロシア歩兵を踏みにじりながら他の敵に切りかかり、さらにその背後で支援している歩兵に向かって馬を馳せた』
 ロルジュ胸甲騎兵師団のメールハイム大佐は胸壁を打ち破り、めちゃめちゃになった狭間を駆け抜け、『狭苦しい堡塁内が凶悪な騎兵とロシア歩兵で乱雑にごった返し、混乱しながら互いに相手の首をしめたり押しつぶそうとしている』のを見た」
Paul Britten Austin "1812: The March on Moscow" p303-304

「軍事史の中でも空前の偉業だが、最初に角面堡に突入したのは優秀なザクセン騎兵、とりわけツァストロウ胸甲騎兵連隊と近衛騎兵連隊を先頭にした騎兵部隊だった。この2個連隊は既にその日の午前中にも戦っており、セミョノフスカヤ近辺のロシア軍防衛線を打ち破るのに貢献している。彼らはまたも前進し、歩兵から防御陣地を奪ったのだ!
 決定的だったザクセン騎兵の突撃の直前に到着したオーギュスト・コレンクール(モンブリュン軍団の指揮をとっていた)はフランス第5胸甲騎兵連隊の先頭に立って勇ましく自身の運命と相対した。ザクセン騎兵が角面堡の右側から接近している間にその左側を進んでいた第5胸甲騎兵連隊は、角面堡支援に当たっていたロシア第24師団の歩兵による射撃を受け撃退された。勘違いか、それとも故意なのかは不明だが、ナポレオンは戦死したコレンクールと彼のフランス胸甲騎兵に角面堡奪取の名誉を与え(そして、実際に彼らはおそらく最初に角面堡に突入したが長く持ちこたえることはできなかった)、そのことがボロディノの戦いについての最初の歴史的論争が生じることにつながった」
Gilberto Villahermosa & Matt DeLaMater "Battle of Borodino"(Napoleon Journal #14) p38-39


 同じくザクセン騎兵が角面堡を奪ったという説だが、細部の異なる描写をする著者もいる。Richard K. Riehnは"1812: Napoleon's Russian Campaign"で以下のように述べている。

「ロシア歩兵の縦隊が前進するのを見たコレンクールはワティエールの胸甲騎兵に突撃を命じ、自らも彼らと伴に進んだ。敵縦隊が到着する前に角面堡の右側を通った彼の胸甲騎兵たちは背後の入り口から突入するのに成功した。ロシア歩兵は短距離から射撃を浴びせてきた。銃弾がコレンクールの頚動脈を断ち、彼は戦死した。混雑の中では撃たれて足掻く馬の蹴りですら銃弾なみに致命的だった。胸甲騎兵たちは角面堡から追い払われた。
 そしてラトゥール=モーブール[第4予備騎兵軍団長]の重騎兵――ザクセン、ヴェストファーレン、ポーランド人で構成するロルジュの胸甲騎兵師団――がやって来た。
 (中略)ティールマンはザクセン騎兵8個大隊とポーランド騎兵2個大隊からなる彼の旅団を率いて角面堡へ向かい、3方向から同時に攻撃した。再び角面堡の入り口付近で集中的に白兵戦が行われ、そこでは騎兵たちは撃退された。しかし乗馬能力に秀でた幾人かの士官と下士官は、どうにか馬を駆って角面堡の急な斜面を登り、大砲用の狭間を通って中へ侵入した。彼らは10人を大きく超える数ではなかったが角面堡の中を混乱に陥れるのに成功し、それを見た旅団の残りは今一度馬を前進させ攻撃を再開した。しかし、その日の間に行われたいくつもの突撃によって完全に息が上がっていた馬たちは歩くことしかできなかった。だが、その時に歩兵が到着して騎兵の角面堡への突入を支援することができるようになり、サーベルを振り回し角面堡内にいるロシア守備隊の大半の注意をひきつけていた一握りの近衛騎兵たちは救出された」
Richard K. Riehn "1812: Napoleon's Russian Campaign" p252-253


 コレンクール或いはザクセン騎兵が活躍したという2通りの考えがあるのは、それぞれの説を支持する史料があるため。第5胸甲騎兵連隊が角面堡を奪ったという説を支えているのは、戦闘後に出された大陸軍公報やコレンクール、セギュールなどによる回想録といった史料である。しかし、公報は元々ナポレオンが宣伝のために作らせた政治的文章であり、信頼性には乏しいという意見が大半だ。それに、公報を書かせたナポレオンも回想録を記したコレンクールやセギュールも、戦場となったラエフスキー角面堡の近くにはいなかったことが最大の問題となる。彼らはラエフスキー角面堡から2マイル(約3・2キロ)も離れたシェルヴァルディノの本陣にずっと腰を据えていた。砲煙が立ち込める戦場で、はっきりと戦闘の状況を目撃できたかどうかは怪しい。
 それに対し、ザクセン騎兵による角面堡奪取説を支えているのは、実際に突撃に参加した士官たちの証言である。以下、Smithの"Borodino"から彼らの発言を引用する。

「ラトゥール将軍、ティールマン、そして我が旅団副官であるミンクヴィッツといった指揮官たちに率いられ、あらゆる危険と困難にもかかわらず、我々は決して止まることなく角面堡へとなだれ込んだ。角面堡の中は互いを殺そうとする歩兵と騎兵で溢れ返り、混乱を極めていた。ロシア軍の守備隊は最後の一人まで戦った」(メールハイム)
Smith "Borodino" p122

「ラトゥール=モーブールこそが角面堡の近くにいた連合軍騎兵部隊の上級指揮官だった。角面堡への突撃後、その背後に備えていたロシア軍歩兵部隊を破ることで最終的に角面堡を奪取することができた。この困難な任務を成し遂げたのが、デフランス師団[第2予備騎兵軍団所属]に支援されたラトゥール=モーブール軍団であることは間違いのない真実だ。私は彼が角面堡の右手側でそのための命令を下し、さらに副王[ユージューヌ]の歩兵が到着するまで十分な時間持ちこたえたことを確証できる場所にいたのだ」(シュレッケンシュタイン)
Smith "Borodino" p123


 角面堡を奪ったのは第2予備騎兵軍団ではなく第4予備騎兵軍団。先頭を切って角面堡に入り、ロシア兵を追い出したのは同軍団の第7胸甲騎兵師団に所属するザクセンの両騎兵連隊。その後に続いたのがポーランドの第14胸甲騎兵連隊、そしてヴェストファーレンの第1及び第2胸甲騎兵連隊だった。
 シュレッケンシュタインは、この光景がナポレオンの本営があるシェルヴァルディノから見えていたとの主張もしている。戦闘翌日に本営にいたある人物から聞いた話として彼が紹介しているのだが、ラエフスキー角面堡が落ちた瞬間に望遠鏡で様子を見ていた大陸軍参謀長のベルティエ元帥が「角面堡が陥ちた。ザクセンの胸甲騎兵が堡塁の中にいる」と言ったらしい。しかし、ナポレオンはこのベルティエの発言を信用しなかった。自ら望遠鏡を見た皇帝は「違うな、彼らは青い制服を着用している。あれは私の胸甲騎兵だ」と言ったのだそうだ(Smith "Borodino" p123-124)。ザクセン騎兵部隊の後に続いたポーランド騎兵やヴェストファーレン騎兵が、フランス軍騎兵部隊と似た制服を着用していた事実は、皇帝の脳裏に浮かばなかったようだ。
 いずれにせよ、ナポレオンは会戦のクライマックスとなったこの角面堡奪取の功績を、異国の部隊ではなく自国の騎兵と側近の身内に与えた。第4予備騎兵軍団長のラトゥール=モーブールは「この真実を捻じ曲げた行為(公報の記事)に対して激怒した」(シュレッケンシュタイン)が、もはや後の祭りであった(Smith "Borodino" p124)。

 Riehnは"1812: Napoleon's Russian Campaign"の中で、ラエフスキー角面堡奪取の栄誉を巡る論争の歴史について、次のように紹介している。

「この会戦における決定的な場面[ザクセン騎兵による角面堡奪取]はオーギュスト・コレンクールの死にまつわって編み上げられた伝説によって完全に埋もれてしまった。その伝説は、戦闘に触れたうえでコレンクールの胸甲騎兵にラエフスキー角面堡を奪った名誉を与えたナポレオンの大陸軍公報第18号に始まり、この主張を繰り返したシャンブレー侯の作品によって強化された。シャンブレーの戦役に関する大部の書物は、19世紀半ばを大きく過ぎるまでロシア遠征について最も重要で包括的な史料と見なされていた。この書籍が広く出回るにつれ、それはザクセン人と事実が異なることを知っている他の戦闘参加者の注目を集めるようになった。そうでなければ単に戦闘を織り成す事実の一つとしか思われなかったであろうこの場面は、続いて生じた論争とそれに伴う出版物のおかげで結果的にザクセン近衛騎兵連隊の評判を高めた」
Riehn "1812: Napoleon's Russian Campaign" p253


 実際、既に19世紀半ばにはザクセン騎兵こそがラエフスキー角面堡を奪ったのだという主張に基づいた本が出版されている。Smithの"Borodino"には1863年に出版されたM. I. Bogdanovichの"Geschichte des Feldzuges von 1812"が掲載されている。

「ワティエール師団はセミョノフカの小川をカメンカ河に流れ込む付近で渡り、ラエフスキー角面堡の左側を通ってゴルツカ谷にいた第6軍団の一部を攻撃した。第5胸甲騎兵連隊は右へ方向転換し、掘割と塁壁を越えて角面堡へ突入したが、歩兵の射撃を受けて再びそこから追い出された。コレンクールは首筋に命中した弾丸により致命傷を負った。
 (中略)デフランス師団は(ワティエールの)胸甲騎兵部隊と伴に角面堡の左側を通ってきたはずだが、彼らは遅れて到着した。その間、ラトゥール=モーブールの騎兵軍団は角面堡の左側面を迂回してきた。ロスニーキの槍騎兵(第4ポーランド軽騎兵)師団は2列横隊で襲撃部隊の右翼を構成していた。胸甲騎兵は左翼で、中央には騎馬砲兵部隊がいた。 ザクセン近衛騎兵連隊は角面堡に向かった。ザクセンのツァストロウ胸甲騎兵連隊とポーランドのマラコフスキ胸甲騎兵連隊、ヴェストファーレン胸甲騎兵旅団は谷に残っていたペルナウ歩兵連隊、ケクスホルム歩兵連隊、及び第33猟兵連隊に突撃した。我らロシア軍歩兵は60歩の距離で一斉射撃を行い、敵騎兵は逃走した。
 ティールマン将軍とザクセン近衛騎兵連隊は掘割と塁壁を越えて角面堡へ突入した。守備隊の指揮官だったリハチェフ将軍は角面堡の中にいた。彼は病気だったうえに負傷もしており、角面堡が奪われた際に捕虜になった」
Smith "Borodino" p125


 おそらく、ラエフスキー角面堡を奪った功績はザクセンの2個騎兵連隊のものなのだろう。既に19世紀から主張されていたように、彼らこそ騎兵突撃で防御陣地を奪取するという偉業を成し遂げた当事者である。
 だが、むしろ驚くべきなのは、そうした蓋然性の高い異説があるにもかかわらず、コレンクールを主役とした説が21世紀を迎えようとしている時期に至ってもなお再生産されていたという事実の方かもしれない。Riehnの言う通り、「多くの伝説がそうであるように、未だにコレンクールの伝説はしぶとく生き延びる能力を示している」(Riehn "1812: Napoleon's Russian Campaign" p253)。まして日本語で読める本の中で紹介されている話は、私の見た限り全てこの「伝説」に由来するものばかり。コレンクールの伝説は簡単に死に絶えることはなさそうだ。

――大陸軍 その虚像と実像――