番外2
ウディノ元帥と百日天下





ニコラ=シャルル・ウディノ(1767-1847)


 1815年3月、エルバ島を脱出したナポレオンはパリに到着し、政権を掌握した。慌てたのは復古王政下で高い地位を得ていたかつての帝国軍将帥たちである。彼らの中にはナポレオンの下で再び登用されようと動く者も多かったが、その中で他者と異なる動きをしたと言われているのがウディノだ。

「一本気な性格のウディノは、ナポレオン帰還に際しても節を曲げずにブルボン家への忠誠を麾下の将兵に説いた。しかし兵士たちは応えた。
『我々は、国王万歳よりも皇帝万歳を叫びたい』
 この言葉を聞いたウディノは、何もかも投げ出して故郷へ引退してしまった。親友のダヴーは、ウディノにナポレオンのもとに帰るように説いたが、彼はこの申し出を断わり、ワーテルロー戦の間、何もせずにすごした」
森谷利雄「大陸軍その光と影 その13」(タクテクス第14号)p87


 ブルボン家への忠誠の誓い故にウディノはナポレオンに仕えることを拒絶した。そう書いている人は他にも多くいる。

「ナポレオンの退位に伴い、彼[ウディノ]は新政府に仕え、ルイ18世によって貴族に列せられた。そして、他の多くの古い戦友たちとは異なり、彼は1815年にかつての主君の元へ戻らなかった」
The 1911 Edition of Encyclopedia "Charles Nicolas Oudinot"

「ナポレオンがエルバから戻ってきた時、彼は麾下の兵たちをブルボン家への忠誠にとどめようと無駄な努力をしたが、自らの努力が失敗に終わると逃げ出すことを堂々と拒絶した。ナポレオンにパリへと召還された彼は主君とあいまみえ、自身の領地へ追いやられた」
Chandler "Dictionary of the Napoleonic Wars" p325

「しかし[ウディノは]ブルボンの王政復古を受け入れ、1815年になっても忠義を曲げずナポレオンの下に仕えるのを拒否した」
Philip J. Haythornthwaite "Who was Who in the Napoleonic Wars" p246

「[1814年]4月に皇帝退位を迫った後、彼はメッツの国王政府総督となり、百日天下の間にナポレオンの招請を拒否して戦後は復古王政下で地位を得た」
Stephen Pope "Dictionary of the Napoleonic Wars" p346

「彼[ダヴー]の古い友人であり、彼が愛しているほとんど唯一の人間で、公式の書簡中で『君』と読んでいたウディノ元帥は、ロレーヌから手紙を寄越しナポレオンと敵対すると宣言してきた」
Archibald Gordon MacDonell "Napoleon and his Marshals" p269-270

「彼は領地に戻り百日天下の間、何もしなかった。皇帝に対し唯一潔白な立場から報告できる元帥であったダヴーは彼に対し、古い忠誠に戻るよう感動的な手紙を書いたが、元帥の中でダヴーのただ一人の親友だったウディノは動かされなかった」
Ronald Frederic Delderfield "Napoleon's Marshals" p200

「パリに到着すると皇帝は陸軍大臣ダヴーに対しレッジョ公[ウディノ]を呼ぶよう話した。多くの者たちと同様、彼もブルボン王家に対する忠誠の誓いを忘れただろうと思ったためである。しかし公の本性は違った。彼はルイ18世に忠誠を誓っており、それを破ることはできなかったのだ。皇帝は彼の到着を歓迎し、質問した。『さてレッジョ公よ、貴公が私の帰還を妨げようと試みたことに対しブルボン家は私以上の何かをしてくれたかね?』元帥は誓いを立てたのだと答えた。皇帝は過去の恩顧を思い出させ、誓いを破り自分に仕えるよう求めた。元帥はとても心を動かされたが、それでも頑固だった。『あなたにお仕えできない以上、誰にも仕えないようにしましょう』」
Richard Phillipson Dunn-Pattison "Napoleon's Marshals" p284


 特に詳細に記しているのはPaul Britten Austinだ。

「ナポレオンがパリに再入城した日、彼[ウディノ]は国王の名のもとにメッツは包囲下にあると宣言した(この時期の激しいドラマはレッジョ公夫人ユージェニーの回想録で読める)。兵と住民が三色旗に従う姿勢を示したため、ウディノは静かにバールへ去ったが、その前に陸軍大臣である彼の友人ダヴーに手紙を書いた。
 二股をかけたくないので私はメッツを去り、我が家のあるバールへ行くことにした。親愛なる大臣よ、私が暮らしていく手段についてだけは聞かないでほしい。私は借金を返すためにいくつかのものを売ることになるだろう。私の領地がスパイされないよう、貧乏なウディノは裏切り行為はできないと伝えてほしい。
 ナポレオンにつくようにとのダヴーの懇願は無駄だった。『私は新たな主君に対して忠実でいる。私はいつでも喜ばしい称号である擲弾兵ウディノのままだ。古い友人、ウディノ元帥』。ナポレオンは最初、彼を領地に去らせた。そして、考えを改めて彼を呼び、『半分皮肉交じりに、半分は真剣に』なじった。『さてレッジョ公よ、貴公が私の接近から彼らを守ろうと望んだことに対しブルボン家は私にできない何かをしてくれたかね?』そこでウディノは答えた。『あなたにお仕えできない以上、私は誰にも仕えますまい』」
Austin "The Father of the Grenadiers" Napoleon's Marshals P394


 多くの高級軍人たちが国王から皇帝へと忠誠の対象を切り替える中、ウディノは決して国王を裏切らなかった。その忠勤ぶり、まことに天晴れである、というのが一般的な説明だ。

 だが、世の中には違うことを書いている研究者もいる。

「ウディノはルイ18世のためにメッツを確保しようと試みたが、軍と住民の叛乱によって追い出された。そして彼はナポレオンに仕えることを申し出た。ナポレオンは彼を許したが、おそらく1813年及び1814年に彼が示した無能ぶりと王党派に対する好意ゆえに彼を雇おうとはしなかった」
Elting "Swords around a Throne" p648

「グーヴィオン=サン=シール同様、ウディノも3月20日より後になっても皇帝の命令に従うことを拒否した。彼はメッツで守備隊と住民の蜂起によって強制されるまで帝国の成立を宣言しなかった。指揮権を解かれた彼は、ナポレオンの好意を取り戻そうとあらゆることを試みた」
Henry Houssaye "Napoleon and the Campaign of 1815" p26


 ウディノは他の軍人たちと同様、帝位に復帰したナポレオンに仕えようとした。彼が仕官できなかったのはナポレオンが拒絶したからだ。Eltingはそう書いている。通説とは全く逆だ。なぜそうなるのか。さっそく双方の説が何を論拠にしているかを調べてみよう。
 とはいえいつものことながら論拠を示さずに書いている本が多い。通説側では唯一Austinが脚注で参考文献としてG. Stieglerの"Le Maréchal Oudinot, Duc de Reggio"を示しているのみ。Stieglerが当事者とは思えないのでどこまで信用していいのか分からないが、同じAustinが書いている"1815: The Return of Napoleon"によればStieglerの本にはレッジョ公夫人の回想録が使われているそうなので、それが論拠と見なすべきだろう。
 ウディノが王家に忠実だったという説の淵源がレッジョ公夫人であることは、インターネットで紹介されているウディノの伝記からも分かる。

「1815年、ナポレオンのフランス帰還後、ウディノは彼の兵たちをルイ18世に忠誠でい続けさせようと試みたが、彼らがナポレオンにつくと表明した後は領地のあるバール=ル=デュークへ戻った。ナポレオンは彼に自分の側へつくよう求め、個人的に会見するためパリに呼びさえした。『さてレッジョ公よ、貴公が私の接近から彼らを見事に守ろうと望んだことに対しブルボン家は私以上の何かをしてくれたかね?』ウディノは答えた。『陛下、あなたにお仕えできない以上、私は誰にも仕えますまい』。ウディノは自分が立派に振る舞ったことと、ルイ18世への忠誠の誓いがいまだに自分を縛っているためナポレオンに合流することはできないということを信じていた。その結果、彼はパリ近くにある彼の領地へ隠遁することになった」
Kyle Eidahl "Marshal Nicolas Charles Oudinot"
Napoleon Series

 この文章についた脚注を見れば、Eidahlがレッジョ公夫人マリ=シャーロット=ユージェニー=ジュリエンヌ・ウディノの回想録307ページを参照していることが分かる。定説の元になっているのはウディノの妻が残した記録だった。
 ではEltingやHoussayeの唱えた異説の論拠は何だろうか。Houssayeが詳しく書いている。

「彼[ウディノ]は自身でナポレオンに手紙を書いた。ダヴー、スーシェ、ジャクミノーにはとりなしを懇願した。彼はスーシェに書いた。『すぐ皇帝の下に行き私に関するあなたの見解を伝えてほしい。あなた自身の責任を指摘し、あなたが自身とネイの手紙を27日夕方まで私に送らなかったことを言ってもらいたい。ウディノはナポレオンの恩義を決して忘れることはなく、もしウディノが過ちを犯したならその失敗を彼に指摘すればすぐ彼は全力で償いと埋め合わせをしようとするだろうと話してほしい。私の決定的な不幸を分け合うことになる我が妻と子供たちのためにも、あなたのとりなしをとても必要としているのだ』」
Houssaye "Napoleon and the Campaign of 1815" p26-27


 ジャクミノーへの手紙は以下のようなものだった。

「急いでほしい、そして私の不面目は終わったと伝えてほしい。それが私にとってもっともよい知らせだ」
Houssaye "Napoleon and the Campaign of 1815" p315


 ダヴーへの手紙の中身は分からないが、彼がウディノから手紙を受け取って皇帝との間でとりなしに動いたことはダヴーの書簡集からも窺える

「元帥レッジョ公へ
 1815年3月28日
 親愛なるウディノ。バールへの出立を知らせてくれたあなたの手紙は皇帝の目に触れるようにした。陛下は私に対し、あなたの望みを保証すること、及び領地でおとなしくしているよう伝えるのを認めた」
Gallica "Correspondance du maréchal Davout, Tome Quatrième" p375


 そしてまたダヴーの書簡を見る限り、領地に引っ込んだのはウディノの意思ではなく、ナポレオンの命令だったことも分かる。
 ウディノの懇願を受けたナポレオンは、次のような態度を取った。

「皇帝はウディノをロレーヌに追放するという命令を取り消し、テュリルリーで彼に会うことにすら同意したが、彼を雇わなかった。メッツでの彼の行為以外にウディノに敵対する理由がなかったのだから、ナポレオンがいつまでも強情であったとは考えられない。おそらく、戦闘前夜の拙い部隊配置と戦闘の最中における致命的な躊躇のためにレッジョ公がバール=シュール=オーブで敗北した1年前の記憶の方が、よりナポレオンに影響を及ぼしたのだろう」
Houssaye "Napoleon and the Campaign of 1815" p27


 ウディノはナポレオンの招請に応じなかったのではない。逆にウディノはナポレオンに雇ってもらうよう様々な運動を行った。だが、彼の仕官はナポレオンによって拒絶された。ウディノの忠誠が問題になったのではなく、皇帝は彼の軍事能力の欠如を嫌ったのである。それがHoussayeの指摘だ。
 Houssayeはさらにレッジョ公夫人の主張に対する反論も述べている。

「ウディノ元帥の妻は、ナポレオンが彼を雇わなかったのは元帥自身の明白な要望があったからだと主張している。しかし、上に示したウディノの手紙(もちろんレッジョ公夫人はそれに触れることを避けている)と、王党派としての良心の咎めがどの程度弱いかを試すものであるシャン=ド=マルスで行われた祭典に彼が列していたのを見ても、皇帝が地位を提供していれば彼がそれを受け入れたであろうことが強く推論できる」
Houssaye "Napoleon and the Campaign of 1815" p315


 もしHoussayeの指摘が正しいのなら、ウディノは節を曲げない硬骨漢どころかフーシェもびっくりの変節漢である。もっとも、この時期にウディノと同様の行動を取った人間は他にも大勢いた。ウディノだけが恥知らずだった訳ではない。
 それにしても、単に無能が理由でクビになった人間が、その後の運命の転変(ナポレオンの没落と第二次王政復古)によって高い地位に復活しただけでなく、妻の残した回想録のお蔭で人格的にも優れた人間であるかのように思われるに至ったのが事実であれば、全くもって驚きである。世の中というのはどう転ぶか分からないものだ。

――大陸軍 その虚像と実像――