1793年4月4日
オドム近傍





シャルル=フランソワ・デュムリエ(1739-1823)


 漫画「ナポレオン〜獅子の時代〜」の外伝「禿鬼」でも紹介されていたが、1793年にフランス北方軍指揮官デュムリエが裏切った際にダヴーが指揮する志願兵大隊が彼に向かって発砲したという話がある。このこと自体はおそらく史実だが、細部については研究者によって書いていることが違うので注意が必要だろう。

 入手しやすい本としてはJohn G. Gallaherの書いたダヴーの伝記"The Iron Marshal"がある。それによると事の経緯は以下のようなものだ。

「そして、デュムリエの逮捕状を公表し政府を支持するよう志願兵部隊の指揮官たちを奨励した国民公会からの新しい代表団の到着に伴い、ダヴーは行動を起こすことを決断した。彼は4月4日朝、彼の大隊から募った志願兵を率い、軍の総司令部があるサン=タマンへ出発した。コンデからサン=タマンへの途上でダヴーは、オーストリア軍指揮官との会見から戻ってきたデュムリエと出会った。当初デュムリエは中佐[ダヴー]とその部下を口説き落とそうと試みた。そして、それは不可能で計画が阻止されようとしていることに気づいた彼は、銃弾の雨の中を敵の幕営地へと逃げ出した」
Gallaher "The Iron Marshal" p20


 Gallaherはこの経緯に関する信頼できる史料としてダヴーの手紙及びRamsay Weston Phippsの"The Armies of the First French Republic"を紹介している。ではPhippsはどう書いているのだろうか。

「部下のミスによりデュムリエは要塞を確保するのに失敗し、国民公会は兵たちに対し幕営地から要塞へと引き上げるよう命じた。ダヴー中佐の志願兵大隊と出会った彼[デュムリエ]は撃たれ、ほとんど捕虜になるところだった。この出来事は、オーストリアの護衛と伴に部下の前に姿を現すという致命的な失敗へと彼を導いた」
Phipps "The Armies of the First French Republic Volume I" p161


 よく読むとGallaherの話とは異なるところが多い。まず、Gallaherによればダヴーは積極的にデュムリエを阻止しようとしていたことになるが、Phippsの文章では単に「出会った」としか書いていない。また、Gallaherによればダヴーの部隊に狙撃されたデュムリエはそのまま「敵の幕営地へと逃げ出した」ことになるが、Phippsによれば彼はその後で「オーストリアの護衛と伴に部下の前に姿を現」している。
 実態はどうだったのか。Arthur Chuquetによればことの経緯は次のようになる。

「デュムリエはブスへ行ってマック[オーストリア軍参謀長]と出会う前に、4月4日の午前中をコンデ[要塞]の状況を調べるために使うことを決断した」
Chuquet "Neerwinden and the Defection of Dumouriez" p143

「ちょうどその時、荷物と大砲を完全にそろえたヨンヌ第3[志願兵]大隊が街道をやって来た。志願兵たちはデュムリエに気づいたが、慣習に反し、言葉も歓声も上げることなく冷たい視線を浴びせるだけで[デュムリエ]将軍の前を通り過ぎようとした。彼らの沈黙と敵意ある振る舞いに衝撃を受けたデュムリエは、さらに彼の部隊の一つが命令に反して移動をしていることに気づいた。彼は一人の士官に質問した。
 『この大隊はどこへ向かっているのか?』
 『ヴァレンシエンヌです』
 『貴官はヴァレンシエンヌではなく、コンデに向かわなければならない』
 この会話の間に多くの志願兵がデュムリエの周りに集まり、脅迫的な身振りをした。事態を恐れた将軍は街道を外れ、ヨンヌ第3大隊をブリュイユの幕営地に戻すよう命令を記すためにオドム村の最も近い家へ向かおうとした。デュムリエが少し離れるや否や志願兵たちはさらに大胆になった。『裏切り者を倒せ! 逮捕しろ! 捕まえろ!』との叫びと伴に彼らは追撃に移り、何人かはデュムリエを捕らえるために走り出し、他のものは彼をブリュイユから切り離そうとした。銃声が響いた」
p144

「将軍の裏切りを知ったダヴーは彼自身の判断で彼の大隊をブリュイユの幕営地から動かし、ヴァレンシエンヌの国民公会委員の周囲に集まりつつある共和国擁護者たちと合流することを決意した。運命は彼が『悪党』『怪物』と呼んでいる人間と彼自身の進路を交わらせた。将軍を逮捕することによってダヴーは『共和国を救い』、さらに『危機』を終わらせることができると期待した。彼は部下の志願兵たちにデュムリエを追撃するよう命じた」
p145

「デュムリエはすぐマックのいる前で、彼自身が部隊の先頭に立ち『我が計画を精力的かつ躊躇なく実行する』ため翌日には戻ると宣言した」
p146

「1793年4月5日午前3時、ビュリーでマックと別れてまもなく、デュムリエはモールド前面のフランス軍戦線に到着した」
p147


 ChuquetとGallaherが描き出した「デュムリエ対ダヴー」の話には随分と違いがある。

1)Gallaherによるとヨンヌ第3大隊はコンデからデュムリエの司令部があるサン=タマンへ移動していたことになるが、Chuquetはブリュイユからヴァレンシエンヌへ向かっていたと記している。
2)Gallaherはダヴーが移動した理由について恰もデュムリエの逮捕を目的としていたかのように述べているが、Chuquetによれば彼の移動目的は共和国擁護者たちと合流することのみにあった。
3)Gallaherによればダヴーが出会ったデュムリエはオーストリア軍指揮官(ザクセン=コーブルク公)と会合した後だが、Chuquetによると彼はオーストリア軍参謀長(マック)と出会う前だった。
4)Gallaherのデュムリエはヨンヌ第3大隊の銃撃を受けて敵の幕営地に逃げているが、Chuquetのデュムリエはマックと会合した後に再びモールドにあるフランス軍幕営地へと戻っている。

 いずれが正しいかというと微妙なところだ。Gallaherはこの挿話を紹介するに当たり、ダヴーがヨンヌの行政官に宛てた手紙を材料にしている。一方、Chuquetが上げているのはダヴーの娘が記した本とデュムリエ及び副官フェルニッヒの回想録だ。
 Chuquetが材料としたものはどれも出版時期が遅い。一方、Gallaherの話はダヴー自身の手紙という一次史料が入っているものの、これが当事者のうち一方の側だけの主張というところにいささか問題が残る。話の中身としてはChuquetの方が比較的地味であり、面白さに欠ける分だけ私としてはリアリティを感じる。
 実際に何があったかはよく分からないが、おそらく確かなのはヨンヌ第3大隊に撃たれたことだけがデュムリエの裏切り失敗の要因ではないということ。最終的に彼を支持する部隊がほとんどいなくなってしまった時に、初めてデュムリエはパリ進撃を諦め連合軍に投降した。

――大陸軍 その虚像と実像――