1806年7月4日
マイダ





“栄光の15分”


 ナポレオン戦争にある程度詳しい人でも、マイダの戦いを知らない人は多いだろう。1806年夏にイタリア半島南部でフランス軍とイギリス軍がぶつかったこの戦いは、両軍あわせても戦闘に参加したのが1万人程度と、この時代としては極めて小規模な戦闘であった。だが、このマイダの戦いは英語圏ではそれなりに知られた戦いでもある。
 フランス革命戦争当時から欧州大陸に遠征したイギリス軍はいつも敗北を喫してきた。1793年から95年までの低地諸国遠征、1793年のツーロン、1795年のキベロン湾、1799年の北部オランダ。いずれも遠征軍は最終的に大陸から追い落とされている。1801年のエジプト遠征でようやくイギリス陸軍の連敗記録は止まったものの、ヨーロッパにおいては依然としてフランスに対抗できないのが実情だった。その流れを変えたのがこのマイダの戦いである。
 1805年、イギリスはロシア、オーストリア、両シチリア王国と第三次対仏大同盟を結び、地中海でのイギリスの覇権を守るべくクレイグ将軍率いる遠征軍をナポリに送り込んだ。だが、アウステルリッツの戦いで勝利したフランス軍がイタリアを南下してきたのを見て、イギリス軍と両シチリア王国はシチリア島へ撤退する。フランス軍はレイニエール率いる部隊をシチリア対岸のカラブリア地方に展開させ、シチリア遠征の準備を始めた。
 イギリス軍はシチリアの防衛に努めるだけでなく、反撃の機会も窺っていた。レイニエールの軍がイタリア人によるゲリラ戦に手を焼いているのを見たイギリス軍(指揮官のクレイグが病気で帰国し、副指揮官のステュアートが指揮を取っていた)は、イタリア半島への逆襲を計画。1806年6月30日にサン=ユーフェミア湾に上陸した。イギリス軍の動きを予想していたレイニエールもすぐに軍勢を集めて上陸地点へ向かった。
 7月4日、イギリス軍とフランス軍はそれぞれ敵に攻撃をしかけるべく前進をはじめた。両軍はアマト川沿いの平坦な場所で遭遇、短時間だが激しい戦闘が繰り広げられた。結果はイギリス軍の完勝。フランス軍は文字通り壊走した。イギリス側の損害が327人だったのに対し、フランス軍は約2000人にも及んだのである(Richard Hopton "The Battle of Maida" p128-132)

 ナポレオン自身がこの戦場にいなかったためか、Chandlerの「戦役」やEsposito & Eltingの「アトラス」にはマイダの戦いに関する記述はない。しかし、たとえばChandlerであれば彼の書いた"Dictionary of the Napoleonic Wars"にはきちんと説明が載っている。

「レイニエールは攻撃をするため、縦隊を組んで川を渡り開けた土地へと前進した。ステュアートの歩兵は低い稜線に沿って二列横隊を組み、静かに敵を待っていた。イギリス軍は射撃を控えたまま恐るべき『赤い線』を組んで前進し、そして至近距離から何度も決定的な一斉射撃を浴びせたうえで、軽歩兵を先頭に断固とした銃剣突撃を行った。フランス軍はすぐに退却し、彼らの左翼は完全に壊走した」
Chandler "Dictionary of the Napoleonic Wars" p261


 同様の話はStephen Popeの"Dictionary of the Napoleonic Wars"でも紹介されている。

「フランス兵は開けた場所を縦隊で前進した。ステュアートの部隊は稜線の背後にあって最後の瞬間まで射撃を控え、それから繰り返し至近距離でマスケット銃の一斉射撃をしたうえで銃剣突撃をした」
Pope "Dictionary of the Napoleonic Wars" p313


 縦隊を組んで前進してくるフランス軍に対し、横隊で待ち構えるイギリス軍。最後の瞬間にイギリス歩兵が壊滅的な射撃を行い、大損害を受けたフランス軍が退却に転じる。後にイベリア半島の戦闘で何度も繰り返され、最後はワーテルローの戦場でフランスの親衛隊までもが敗北を強いられた同じパターンが、このマイダの戦場で最初に実行された、というのが上にあげた書物の説明だ。
 この説が英語圏でよく知られているのは、半島戦争について詳細な歴史を記したイギリスの歴史家Charles Omanが、マイダの戦いを当時のイギリス軍とフランス軍の戦い方を示した典型例として紹介したためだ。1929年に出版した"Studies in the Napoleonic Wars"の中でOmanは以下のように述べているという。

「ラマト川沿いの砂地で6000人の縦隊による攻撃を受けた5000人の歩兵横隊が、戦争全体を通じて小規模な戦闘としては最も決定的な敗北を敵に加えた。(中略)戦場の最も重要な場所で、かつてのイタリア方面軍の中でも最良の兵であった4個大隊(第1軽歩兵及び第42戦列歩兵連隊の2800人がケンプトの軽歩兵大隊とアクランドの第78及び第81歩兵連隊の2100人と対峙した)の縦隊を組んだフランス軍が、イギリス軍の2列横隊によって正面から叩かれ粉々に打ち砕かれた」
Chandler "On the Napoleonic Wars" p141-142


 Omanによるこの説は今でも影響力を持っている。2002年に出版されたある本では、Omanからの引用も含めながらマイダの戦いについて以下のように記している。

「第1軽歩兵は優れた軽歩兵連隊であり、ケンプトの兵に匹敵する能力を持っていた。1800人以上の兵が2つの大隊に分かれ、伝統的な攻撃縦隊を組んでイギリス軍の戦線に向かって行軍した。ケンプトは彼の率いる7個中隊、700人弱を2列横隊に配置した。コンペール(フランス軍指揮官)は兵を前進させたが、イギリス軍はケンプトの合図があるまで射撃を控えていた。『皇帝万歳!』の叫びとともにフランス軍部隊はイギリス軍に接近した。150ヤードまで近づいたとき、ケンプトが合図を送り彼の部隊は第1軽歩兵連隊の兵たちに向けて恐ろしい一斉射撃を放った。弾丸の雨の中を怯むことなくフランス軍縦隊は前進を続けた。80ヤードの距離で2度目の正確な一斉射撃がフランス軍部隊の先頭を貫いた。負傷しながらもなおコンペールは兵を駆り立て、第1軽歩兵連隊はケンプトの横隊まで20ヤード以内まで迫った。3度目の一斉射撃は既に縮小していたフランス軍部隊の隊列を粉々にした。第1軽歩兵連隊の兵は崩れ、逃げ出した」
Frederick C. Schneid "Napoleon's Italian Campaigns" p53


 だが、実はこれは史実に反する。実際にはフランス軍は縦隊ではなく、横隊を組んで前進したのだ。最初にそれを指摘したのはJames R. Arnoldだそうで、最近では彼の見解に従った著作も増えている。以下もその一例だ。

「フランス軍が長く伸びた横隊を組んで攻撃したことを示す最もいい事例が、レイニエール麾下のフランス軍がジョン・ステュアート少将率いるイギリス遠征軍とイタリアのカラブリア近くで遭遇したマイダの戦い(1806年7月4日)である」
Brent Nosworthy "With Musket, Cannon and Sword" p146


 なぜ縦隊ではなく横隊だといえるのか。理由は簡単で、戦闘に参加した当事者が軒並み「フランス軍は横隊を組んでいた」と証言しているからだ。Hoptonは多くの関係者が残した記録を紹介している。

「(イギリス軍の軍需品担当だったヘンリー・バンバリー)
 コンペール将軍率いる敵の第1軽歩兵連隊(ポーランド兵連隊に支援されていた)は、イギリス軍軽歩兵部隊に向かって横隊を組んで前進してきた」
Hopton "The Battle of Maida" p156

「(イギリス軍旅団長コールの副官だったロヴェレア少佐)
 我が兵たちはゆるぎなくまるで閲兵場にいるかのように秩序を保っていた。向かい合ったフランス軍も同じように横隊を組んでおり、その武器は太陽の光を受けて輝いていた」
p156

「(イギリス軍砲兵士官のトーマス・ダインリー)
 そして彼らは横隊を組み、想像できる限り最高の秩序を保ちながらやって来た」
p157

「(フランス軍砲兵指揮官のグリオワ)
 左翼で攻撃をしかけようと考えた将軍は彼の主力をそこに配置し、2つの横隊に整列させた」
p158


 実際の戦闘の様子はどうだったのだろうか。Hoptonによると、英仏両軍はそれぞれ横隊を組んで互いに接近していったという。

「そしてフランス軍が100ヤード以内まで接近したところでイギリス軍軽歩兵大隊は最初の一斉射撃を行った。その結果は壊滅的だった」
Hopton "The Battle of Maida" p121


 さらにイギリス軍はもう一度、一斉射撃を行う機会があったという。Hoptonの試算によれば、この2回の一斉射撃だけでフランス軍は800人の損害を蒙った可能性があるそうだ。この時代のマスケット銃は命中精度が極めて低いうえに発射に手間がかかる武器だったが、それでも使い方次第ではおそろしい効果を持っていたことが分かる。

 フランス軍が横隊を組んでおり、当事者もそう証言しているという点には、実はOmanも気づいていたらしい(Chandler "On the Napoleonic Wars" p143)。そしてChandlerもまた"Dictionary of the Napoleonic Wars"に書いたことが間違いだったと後になって記している。「縦隊は最終的な攻撃を仕掛ける前の機動のために使われる手法であり、しばしば主張されるように実際に襲撃を行う際に使われる隊形ではない」(Chandler "On the Napoleonic Wars" p143)というのがChandlerの結論だ。
 フランス革命戦争からナポレオン戦争の時期にフランス軍が使用した「縦隊」が白兵戦用の隊形だという誤解は、日本でもしばしば見受けられる。広く知られている話が必ずしも「正しい」ものとは限らない一つの事例として、このマイダの戦いは重要な意味を持っている。

――大陸軍 その虚像と実像――