1797年
ライバッハ



「ベルナドットがイタリア方面軍と過ごした時間はそれほど長くはなかった。彼は、『市民』ではなくて昔どおりの『ムシュー』を使おうと言いだし、革命軍生え抜きの兵士たちを怒らせた。このせいでまたしても決闘ざたとなり、今度は怒りくるったブリュヌが果たし状をつきつけてきた」
R・F・デルダフィールド著、乾野実歩訳 「ナポレオンの元帥たち」 p70


 長谷川哲也の「ナポレオン 〜獅子の時代〜」でも描かれていたが、1797年にベルナドットの部隊とブリュヌの部隊間で起きた諍いの原因としてよく紹介されているのが、この「市民(シトワイヤン)」か「ムッシュ」かという話だ。デルダフィールドはベルナドット自身がムッシュを使おうと言い出したように書いているが、それを裏づける史料を私は見たことがない。実際にはどうだったのか、ティエボーの回想録には以下のように書かれている。

「多くは南フランスの地域から徴集されていた昔からのイタリア方面軍兵士たちは、自らを市民の軍だと任じていた。彼らはライン方面軍を『ムッシュたちの軍』と呼んでおり、ベルナドット師団がラインから到着するや否やこの名を彼らに当てはめた。彼ら[ベルナドット師団]の整った出で立ち、その規律、士官に対する兵士たちの敬意などは、敵を倒すこと以外の義務を知らない[イタリア方面軍の]兵士たちとは実に対照的だったが故に、一層嫌われる理由になった。マセナ師団の兵士たちは、その愛国心では誰にも譲るつもりはなかったが、決して統制の取れた連中ではなかった。唯一、彼らの将軍[マセナ]のみが彼らに規律を守らせるだけの敬意と畏怖を得ていた。その時、彼は講和の準備について総裁政府に伝えるべくパリに向かっていた。留守の間ブリュヌが指揮を執ったが、彼は我々の兵士たちのような連中の手綱をしっかり握るに十分なほど厳格ではなかった。ベルナドット師団と接触するや否や、彼らは相手を挑発する目的で『ムッシュ』という言葉を使い始めた。すぐにいくつかの争いが始まった。混乱を収めるため双方から士官が派遣されたが、争っている連中を分けるどころか彼らは部下たちの味方をした。既に100人以上が倒れ、そのうちマセナ師団が嘆かねばならない者は少なくとも60人に及んだ。両方の部隊が集まり始め、双方が銃剣を構えて互いにぶつかりあう恐れも出てきた。呼集のドラムが打ち鳴らされ、全兵士は宿営地へ押し込められた」
"Mémoires du général Bon Thiébault, II" p102-103


 まずブリュヌはあくまで臨時の指揮官だったことが分かる。そして「ムッシュ」という言葉を使ったのは、デルダフィールドの見解とは異なり、マセナ師団即ちイタリア方面軍の側。要するにマセナ師団が喧嘩を売り、ベルナドット師団はそれを買った訳だ。また、デルダフィールドが書いているようにブリュヌが決闘を申し込んだという話もここには見当たらない。
 もっともティエボーと違う話を紹介している人物もいる。サラザンがそうで、"Royal military panorama, Vol. III."に紹介されている"General Bernadotte, Prince Royal of Sweden."によれば、この事件は以下のような経緯をたどったという。

「征服した[オーストリアの]地域から撤収している間にたまたまベルナドットとマセナの師団が伴にライバッハ[ルブリャナ]に宿営することがあった。マセナ師団のデュフォー将軍が、彼の地位を示すものを身にまとうことなくビリヤード場に現れ、第19猟騎兵連隊の士官と勝負した。熱烈な愛国者だった将軍がシトワイヤンという言い回しのみを使ったのに対し、彼の相手は彼のことをムッシュとしか呼ばなかった。貴族的と思っている方法で呼ばれるのにうんざりしたデュフォーは、彼に自分のことをシトワイヤンと呼ぶよう求めた。士官は、自分は被告席にいる者以外のシトワイヤンを知らないし、社交の場ではムッシュという呼称こそがふさわしいように思えると述べ、彼の要請を拒否した。彼の拒絶に怒ったデュフォーは士官に決闘を申し込み、その士官も受け入れた。立会人は、イタリア方面軍の将軍がライン方面軍の少尉と争うのは望ましくないと反対した。実は少尉であったこの士官も、デュフォーの階級を知って彼と関係することを拒んだが、彼がムッシュという言葉を使うのに反対することが適当だと考える同じ階級の士官からの挑戦なら受ける準備があると宣言した。彼はその言葉を守り、両師団に属する何人かの目撃者が見守る中でマセナ師団の士官の肺を剣で突いて殺害した。マセナとベルナドットはいずれも不在だった。前者はドイツ皇帝陛下によるレオーベンの和約を総裁政府に批准してもらうためパリに行っており、ベルナドットはトリエステに出張してそこで彼の師団の到着を待っていた。今や元帥になっているブリュヌ将軍がマセナの代わりを務めていた。起きたばかりの致命的な決闘の原因はすぐ知られるようになった。ジャコバンたちはムッシュたちに敵対して大声を上げ、ムッシュたちはシトワイヤンを殺すのが適当だと考え、そして両師団の兵士たちはすぐさま武器を取った。ブリュヌ将軍は、暫定的にベルナドット師団の指揮を執っている私[サラザン]を呼び寄せた。彼は日々命令にすぐ以下の文言を入れるよう要請した。『互いにムッシュと呼ぶのは禁止し、代わりにシトワイヤンを使うことを命じる』。そうすることで、何が起きてもそれは私の拒絶に責任があるように仕向けようとした。私は将軍に答えた。『私はベルナドット将軍から命令を受けており、問題となっている出来事に関する彼の意見を知っている。提案された方法を受け入れれば、私が彼から永遠の不興を買うことは間違いない。それに兵士たちは、彼らの軍事的義務との関係で筋が通らないそのやり方を採用するのを間違いなく拒否するだろう』。同時に誰かがブリュヌ将軍に、マセナ師団の第32連隊とベルナドット師団の第30連隊が武器を持って広場に集まり戦おうとしていると伝えた。我々はすぐにそこへ赴いた。ブリュヌが兵士たちの愛国心を大いに称賛している間、私は彼に士官たちと下士官たちを広場の中央に呼び集めるよう求め、私もそこにベルナドット師団の士官と下士官たちを集めた。なお心の中でミラノでの出来事が引っかかっていたデュピュイ大佐が不満分子の先頭にいた。ブリュヌは懇願を繰り返し、私が彼の助言を受け入れれば事態は落ち着くことを確約した。私は大声で拒絶を貫いた。『どうして士官たちが自らの口論の結果によって兵士たちを危険に晒せるほど利己的になれるのか理解できない。おまけにここは兵営ではなく戦場だ。侮辱を受けたと考えている者が一対一でその紛争を終わらせるべきだ』。その後に、もし私が彼をムッシュと呼んだ場合に彼にとってそれが必要だと思えるなら、私はブリュヌ将軍と自ら決闘しようと申し出た。そして私はベルナドット師団の士官たちと兵士たちにすぐその場を去るよう命じ、それは実行された。ブリュヌも同じようにした。極めて多くの個人的諍いがそこでは生じ、その結果として50人が殺され約300人が負傷した。病院の記録によると後者のうち3分の2はマセナ師団の者だった」
"Royal military panorama, Vol. III." p326-327


 読んで分かるように、サラザンによれば「ムッシュ」と言い出したのはベルナドット師団側だ。ただしベルナドット本人ではなく、あくまで同師団所属の士官の言葉。そもそも諍いが起きた時、ベルナドットは不在だったことになっている。さらにこの騒ぎには伏線があり、文中にも登場するデュピュイ大佐がそれに絡んでいる。
 ベルナドット師団が最初にミラノに到着した時、彼らに提供された宿は捕虜のオーストリア兵が使った後の修道院だった。ベルナドットは宿を手配したデュピュイを呼び出した。「司令官[ボナパルト]から与えられた信頼によって強い立場にあったこの士官はベルナドットを訪れ、軽蔑的な口調で言った。『この修道院はイタリア方面軍のシトワイヤンにとっては極めてよい宿舎でした。従ってライン方面軍のムッシュにとっても泊まるのにいいところでしょう』」("Royal military panorama, Vol. III." p321)
 つまり、もともと「ムッシュ」という言葉を挑発的に使ったのはイタリア方面軍のデュピュイだった、というのがサラザンの主張だ。ベルナドットはすぐに他の宿を用意するよう命じたが、デュピュイは「いいですか、私はイタリア方面軍に属しており、従ってライン方面軍の将軍であるあなたの命令は受けません」(p321)とまで言ったらしい。ベルナドットは軍法の適用まで言及して彼を従わせた。
 以上の経緯は"Mémoires du Général Sarazin"のp68-69にも簡単に紹介されている。サラザンの言葉を信用するなら、ムッシュとシトワイヤンに関するトラブルは、デルダフィールドの説明よりももっと複雑な経緯をたどったことになるし、ティエボーの説明とも必ずしも一致しない。被害者数にしてもティエボーが100人以上としているのに対し、サラザンは死者50人、負傷者300人と書いている。

 "Dictionnaire Biographique des Généraux & Amiraux Français de la Révolution et de l'Empire, Tome II"によればティエボーはリヴォリ会戦に参加している(p493)。一方のサラザンもベルナドットと伴にイタリア方面軍に配属されたと記されており(p423)、要するにどちらもこの騒ぎを現場で目撃していた可能性はある。にもかかわらず両者の説明に違いが存在していることもまた事実。一次史料だからと言ってもいつも鵜呑みにできる訳ではない。




ギヨーム=マリー=アン=ブリュヌ(1763-1815)

――大陸軍 その虚像と実像――