1815年6月18日夕刻
ラ=エイ=サント





ラ=エイ=サント攻防


"Où voulez-vous que j'en prenne? Voulez-vous que j'en fasse?"
Pierre-Agathe Heymès "Relation de la Campagne de 1815"
ネイ元帥

 午後6時半、フランス軍の猛攻の前にラ=エイ=サント農場が落ちた。イギリス連合軍の戦線中央に位置するこの拠点はそれまで何度かフランス軍の攻撃を跳ね返してきたが、激しい戦闘の末に守備隊の弾薬が尽きてしまい抵抗しきれなくなったのだ。
 農場の失陥はウェリントンの防衛線に致命的な影響を及ぼしたと言われている。ネイはすぐに砲兵を農場の北方へ送り込み、至近距離からイギリス連合軍を叩いた。イギリス連合軍側は反撃を試みるが失敗し、厳しい状況に追い込まれた。
 ワーテルローについて記した研究者の中には、この時ネイがナポレオンに増援を送るよう求めたと記している者が多い。激しい攻撃で連合軍戦線中央部はかなりダメージを受けている。ウェリントンが予備を送り込んで戦線を安定させるより前にもう一押しすれば、連合軍は崩壊する。そう判断したネイが決定的な一撃を加えるための部隊を送ってくれと頼んだ。Chandlerの「戦役」も、そのように書いている文献の一つである。

「とうとうネイは正しい戦術的手法――全兵科による協同攻撃――に訴え、そして彼の新たな努力は完全に実った。王立ドイツ人部隊(King's German Legion)は農場[ラ=エイ=サント]から追い出され、隣接する建物と近くにある砂坑もネイの手に落ちた。間髪入れずフランス帝国元帥はイギリス軍戦線中央から僅か300ヤードの場所に砲兵隊を配置し、破壊的な砲撃を解き放った。硝煙を通して第1軍団の他の師団の生き残りが現れ、そして再びネイは成功を掴みかけているように見えた。ウェリントンにとってこの日最大の危機が迫り――彼の戦線中央部は浮き足立っていた――ネイは皇帝に対し、勝利を決するための予備部隊を送るようしつこく要請を繰り返した」
Chandler "Campaigns" p1085


 しかし、ナポレオンはこれを拒絶した。

『兵だと! どこから兵を持ってこいというのだ? 私に兵を作り出せとでも?』というのが、ネイの使者であるエイメ大佐がナポレオンから引き出すことができた唯一の反応であった」
Chandler "Campaigns" p1085


 ナポレオンはこの時、プランスノワを巡ってプロイセン軍と激しい戦闘を繰り返していた。唯一の予備部隊である親衛隊はフランスへ通じる連絡線を確保するためにも後置しておかねばならず、ネイに増援を送ることはできないと判断したのだ。Chandlerは別の本でも同様の話を記している。

「ついにネイは適切に調整された攻撃――騎兵、歩兵、そして大砲を組み合わせたチームで戦う――を準備し、同時にバリング率いる王立ドイツ人部隊が折悪しく弾薬切れに陥ったこともあって、農場[ラ=エイ=サント]の勇敢な守備隊はしっかりと確保してきた拠点から追い払われるに至った。(中略)今回はネイは躊躇わなかった。精力と指導力の全てをもって彼はすぐに農場の上方、ブリュッセル街道沿いに砲兵隊を配置し、僅か200ヤードの距離からウェリントンの戦線中央を狙った。更なる兵――デルロン第1軍団の生き残り――もまた硝煙の中から現れ、すぐに砲撃や一斉射撃がウェリントンの部隊に至近距離から穴を穿った。(中略)
 十分な論拠のある新たな勝利の可能性を嗅ぎつけたネイは、皇帝を探して即刻親衛隊を送り勝利を決するよう求めるためエイメ大佐を南方へ走らせた。『兵だと? どこから兵を持ってこいというのだ? 私に兵を作り出せとでも?』ナポレオンは鋭い口調で答えた」
Chandler "Waterloo: The Hundred Days" p155


 ラ=エイ=サント陥落とその後のフランス軍による攻撃でイギリス連合軍は危機に陥った。しかし、この時ネイから増援を求められたナポレオンは「どこから兵を持ってこいというのだ? 私に兵を作り出せとでも?」と言ってこれを拒否した。そう指摘する研究者はChandler以外にも大勢いる。

「午後6時。
 ナポレオンは、ネイに厳命する。ラ・エイ・サントを奪れ、と。(中略)
 続いてネイは、ドンズロー師団の兵力を以て、ラ・エイ・サントを強襲した。既に、幾度もの攻撃にさらされ、兵力、弾薬ともにおびただしく消耗していた、バリング少将の兵は、とうとう支え切れずに後退した。ネイは、今度こそこの成功をものにしようと、後方の砲兵隊を前線に呼び寄せて、猛砲撃を命じ、更に、デルロン麾下のアリックス、ドンズロー、マルコンネの諸師団の残兵をかき集め、一気にラ・エイ・サントを占領した。さらに、その余勢をかって、イギリス軍主戦線を突破しようと試みた。
 しかし、そうするには、デルロンの諸師団は余りに消耗しすぎていた。ネイは皇帝の下へ伝令を飛ばす。
『歩兵の増援を下さい。今ひと息で、ウェリントンは崩れます』
『歩兵だと!』
 皇帝は椅子から立ち上がるといまいましげに叫んだ。
『余に、歩兵を作り出せとでもいうのか』」
森谷利雄「大陸軍その光と影 その27」(タクテクス第42号)p81-82

(註:バリングは少将ではなく少佐)

「農場[ラ=エイ=サント]の喪失はウェリントン全軍を大きな不幸に巻き込みそうになった」
David Howarth "Waterloo: A Near Run Thing" p110

「ネイもまた最後の一撃を加える時が来たことを知った。彼は間違いなくラ=エイ=サントと同じくらい敵の戦線近く、おそらくはそれよりも近い場所にいて、そこからなら十字路近辺のウェリントン軍の銃火が衰えていることを見逃す筈はなかった。しかし、彼の手元には一撃を加えるべき部隊が残されていなかった。(中略)ネイは皇帝に小規模な歩兵の増援を要請すべくある大佐を後方へ走らせた。そして皇帝はその要請に不機嫌に応じた。『兵だと?』彼は答えた。『どこから兵を持ってこいというのだ? 私に兵を作り出せとでも?』」
Howarth "Waterloo: A Near Run Thing" p116

「とうとうバリングは兵に対し退却するよう命じた。18時半、全ては終わった。守備隊のうち僅か400メートル後方にある安全な連合軍の戦線まで戻ることができたのはたった45人だった。ラ=エイ=サントは遂にネイの手に落ちたのだ」
Albert A. Nofi "The Waterloo Campaign" p236

「ネイは皇帝に対してさらに兵を送るよう必死に求めた。
 18時半頃、ナポレオンはネイからの増援要請を受け取った。皇帝の返答は『兵だと! どこから兵を持ってこいというのだ! 私に兵を作り出せとでも?』だった」
Nofi "The Waterloo Campaign" p239

「午後6時半頃のネイによるラ=エイ=サント陥落はウェリントンに新たな危機をもたらしたが、農場のすぐ背後にあるイギリス連合軍戦線を撃ち破るのに使うためネイが兵を求めたのを拒否した時、ナポレオンは明らかにその危機につけ込むのに失敗した。ネイがたった300ヤードしか離れていない場所に配置した砲兵隊によってウェリントンの戦線中央が激しく叩かれていたため、いずれは戦線に穴が開くことは十分ありそうに見えた。しかしナポレオンは帝国親衛隊を前進させるのを拒否し、ネイの伝令に対し皮肉たっぷりに言った。『兵だと?! どこから兵を持ってこいというのだ? 私に兵を作り出せとでも?』」
Andrew Roberts "Napoleon and Wellington" p179

「ついにラ=エイ=サントを落としたネイは、間髪入れず300ヤード以内の距離から連合軍の兵に縦射を浴びせられる位置に砲兵隊を配置した。(中略)
 今こそネイにとって、大損害を蒙っているウェリントンの中央を突破するため最後の攻撃を仕掛ける時だった。(中略)親衛隊からの増援が必要だった。彼は皇帝に兵を求めるためエイメ大佐を送った。彼が皇帝の本営にたどり着いた時、ナポレオン自身は右翼の圧力に晒され依然としてプランスノワの問題に没頭していた。親衛隊はロボーを支援するため右側面に沿って展開しており、この無駄遣いの多い元帥に割くことのできる兵は残っていなかった。『兵だと!』ナポレオンは憤激した。『どこから兵を持ってこいというのだ? 私に兵を作り出せとでも?』」
Geoffrey Wooten "Waterloo 1815" p73

「彼[ナポレオン]はネイに対し、ウェリントンの戦線中央の鍵となっているラ=エイ=サントを何としても奪うように命じた。守備側の弾薬が尽きて補給が受けられなくなっていたという事実にも助けられた勇者の中の勇者は、第13軽歩兵連隊の弱体な2個大隊と工兵1個中隊及び僅かの騎兵と伴に彼の命令に応じた。すぐにネイは連合軍の中央を撃ち破るため砲兵隊を繰り出し、皇帝に彼の成功を利用するための増援を送るよう求めた。(中略)
 ネイの副官がナポレオンの下に駆けつけ支援を求めた時、彼が受けた返事は以下のようなものだった。
『兵だと? どこから兵を持ってこいというのだ? 私に兵を作り出せとでも?』」
Michael Glover "Warfare in the Age of Bonaparte" p165

「午後6時頃、皇帝はネイにラ=エイ=サントに対する襲撃をもう一度行うよう命じ、守備隊の弾薬がほとんど尽きていたこともあってこれは成功した。ネイは重騎兵を使い切っていたため、この成功を活用することが事実上不可能だった。しかし何とかしたいと思った彼は、皇帝にさらなる兵を求めた。ラ=エイ=サントに対峙している連合軍の戦線はかなり薄くなり、完全に安定しているとは言えなかった。今や親衛隊の超一流の大隊を投入する時だった。しかし、騎兵が既に虐殺され本営がプロイセン軍の砲弾に晒されている状況にあったナポレオンは、ネイの伝令だったエイメ大佐に対し、『兵だと? どこから兵を持ってこいというのだ? 私に兵を作り出せとでも?』と食ってかかった」
Peter Young "The Bravest of the Brave" Napoleon's Marshals p373

「しかし今やフランス軍はこの稜堡[ラ=エイ=サント]を確保しており、彼らはそれを活用した。ネイは農場周辺に騎馬砲兵隊を引っ張ってきて至近距離からウェリントンの最前線を叩き始めた。ウェリントンの全戦線においてフランス軍の歩兵、騎兵及び砲兵は遂に相互に支援しながら活動するようになった。激しい至近距離からの砲撃は公爵の戦線中央部を圧倒した。(中略)フランス軍もまたウェリントンの兵同様に疲れきっていた。(中略)そこでネイはナポレオンの大切な親衛隊を使うよう求めたが、増しつつあるプロイセン軍によるプランスノワ村への圧力があったため、ナポレオンは拒否した。『兵だと!』彼は元帥の副官であるピエール・エイメ大佐に鋭く言った。『どこから兵を持ってこいというのだ? 私に兵を作り出せとでも?』」
Andrew Uffindell and Michael Corum "On the Fields of Glory" p184-185

「午後6時半、4時間以上前にデルロン軍団の2個師団がジュナップ街道東方の稜線にたどり着いた時に次ぐ二度目の機会がフランス軍の前に訪れた。最後の一押しのためネイはさらなる歩兵を必要としていた。(中略)ネイは彼の副官であるエイメ大佐を送り、皇帝にさらなる兵を求めた。憤慨したナポレオンは鋭く言った。『兵だと! どこから兵を持ってこいというのだ? 私に兵を作り出せとでも?』」
Mark Adkin "The Waterloo Companion" p377

「建物はほぼ廃墟と化し守備隊の弾薬が尽きようとする中、攻撃側はすぐ突入した。互いに捕虜を取ることも捕虜になることもなく、勇ましい守備兵は頑強に戦ったが、遂にバリング少佐と生存者は家から庭へ退却し、そこから主戦線へ個々に後退せざるを得なくなった。(中略)
 ネイ元帥はウェリントンの部隊があちこちで後退する気配を見せているのに気づいたが、フランス軍はあまりに疲れきっていて彼らが得た優勢をうまく利用できなかった。そこでネイは僅かな歩兵の増援を求めた。ウェリントンの兵は力尽きようとしていると思えたのだ。しかし、ブリュッヒャーの部隊が放つ砲弾がシャルルロワ街道まで到達し、さらにフランス騎兵が壊滅した中でナポレオンは応じることができなかったか、もしくはそうする勇気がなかった。ネイの伝令(エイメ大佐)に振り返り、彼は乱暴に答えた。『兵だと! どこから兵を持ってこいというのだ? 私に兵を作り出せとでも?』
Archibald Frank Becke "Napoleon and Waterloo" p215-216


 Esposito & Eltingの「アトラス」やAlan Schomの"One Hundred Days"、Peter Hofschröerの"1815 The Waterloo Campaign: The German Victory"、Stephen Popeの"Dictionary of the Napoleonic Wars"などでは、ナポレオンの返答については書かれていないものの、ネイがラ=エイ=サント陥落後にナポレオンへ増援を要請したことは記されている。基本的にほぼ全員の研究者が、ネイの増援要請はラ=エイ=サント陥落後にあったという認識で一致しているのだ。
 だが、ナポレオンは要請を断った。そして、この決断によって彼は千載一遇のチャンスを逃した。Chandlerをはじめ多くの人はそう指摘している。

「これは決定的な瞬間だった。もし皇帝が部下の要望を聞いて帝国親衛隊を(或いはせめてその半分を)前進させていれば、ほぼ確実に戦闘に勝てただろう」
Chandler "Campaigns" p1085

「しかし、ナポレオンが要請された通り午後6時半にネイを支援することができなかったのは[連合軍にとって]極めて幸運だった。この時点におけるエリート兵による断固とした襲撃は間違いなく致命的だった」
Chandler "Waterloo: The Hundred Days" p157

「この時、パリへ勝報を発したと同様の敢断さを以て、皇帝が老親衛隊前進の命を下していたならば、勝敗の行方は、全く異なっていたであろう。
 総崩れとなるイギリス・オランダ連合軍を前にしては、ブリュッヘルも踵を返すほか道はなく、翌日にはフランス軍は、ブリュッセルで華々しい入城行進を行っていた筈である」
森谷利雄「大陸軍その光と影 その28」(タクテクス第43号)p80

「これはナポレオンが逃した究極の機会だった。この時であれば、使われていない親衛隊各連隊の一部による僅かな努力だけでウェリントンの戦線中央部は打ち砕かれ、それを通ってブリュッセルへ至る道が開かれていただろう。その努力はすぐになされなければならなかった――日没までにはたった1時間半しか残されていなかったからだ。彼はただ、イエスと言えばよかった。だが、彼はそうしなかった。彼は何もしなかった」
Howarth "Waterloo: A Near Run Thing" p116

「もし彼がこの[親衛隊の]うち半分――4000人――をネイの支援に投入していれば、彼はウェリントンの衰弱した中央部を撃ち破っただろう。しかし彼はそうしなかった」
Nofi "The Waterloo Campaign" p239

「将軍にとって戦闘が始まった後になすべき最大の決断――いつ、どこに予備部隊を投入するか――が一つしかないとすれば、ナポレオンは決断する能力を失っていたことになる。彼は東方におけるプロイセン軍の脅威に対応することを優先し、結果として大きな――潜在的には戦闘に勝つことすら可能だったとの見方もある――機会が消滅するのを許してしまった。機会は二度と戻らなかった。ナポレオンはかつて言った。『戦争において機会は一度しかない。指揮官の能力の偉大さはそれを掴むことにある』。彼は機会を逃した。もしプロイセン軍が彼の戦線右翼を極めて精力的に縦射していなければ、おそらくそのような行動は取らなかっただろう」
Roberts "Napoleon and Wellington" p179

「ネイの増援はやって来なかった。ウェリントンの最後の予備が到着する前であれば、そのタイミングはおそらく決定的だっただろう」
Wooten "Waterloo 1815" p73

「もしナポレオンがウェリントンの陣を叩くため彼の親衛隊を使うつもりがあったなら、そうした攻撃はおそらく成功し最後の時がやって来ただろう。プロイセン軍の戦力は明らかに増大していたものの、ウェリントンの陣地の鍵となる場所は手に入り、そしてイギリス=オランダ軍の兵たちはナポレオンが予想していた限界ははるかに超えていたもののそれでも彼らの忍耐の限界に到達した兆候を示していた。ラ=エイ=サント陥落直後に親衛隊が密集してウェリントンの戦線中央部に投じられていたなら、その恐るべき衝撃の前に崩れつつあった戦線は屈していた筈だ」
Becke "Napoleon and Waterloo" p216


 ラ=エイ=サント陥落直後こそ、フランス軍が勝利を得る最大のチャンスだった、というのがここに示した研究者たちの共通した見解である。ネイによる増援要求はそれを裏付ける材料の一つであり、ナポレオンがそれを断ったことで機会は失われた。ワーテルロー関連本を読む多くの人もそう思っているだろう。

 だが、実はここに一人、著名なワーテルロー研究者の中で上とは異なる話を伝えている人物がいる。ワーテルロー本の中でもかなり古い時期に出版された本の著者、William Siborneがそうだ。彼はネイの増援要求について次のように記している。

「ナポレオンはネイに対し、中央への攻撃を再開するよう命じた。しかし、これを効果的に実行するためには元気のある歩兵が必須だった。そして元帥は手元にそれを持っていなかった。そこで彼は筆頭副官のエイメ大佐を送り出し、彼の兵の半数は負傷しており、残る半数は疲労困憊しているうえに弾薬が欠乏しているという状況を皇帝に伝えさせ、そして増援を送るよう求めさせた。しかしながらこの時は、ロボー軍団と若年親衛隊がプロイセン軍の攻撃作戦に対応してフランス軍右側面を守るため必要とされていた。結果として、唯一残された予備歩兵を構成する老親衛隊の各大隊を割くことはできなかった。余力のある兵を求めるネイに対し、ナポレオンは答えた――『どこから兵を持ってこいというのだ? 私に兵を作り出せとでも?』 彼の要請がどのように受け止められたかを知ったネイは、戦闘が勝利とは程遠い状況にあることを明白に見てとった。そしてラ=エイ=サントに対して再開された攻撃を彼自身の存在によって駆り立てるべく飛び出し、さらにその守備隊を救援あるいは支援する試みを妨害するためイギリス連合軍戦線のうち農場のすぐ背後にある部分に対してフランス軍砲兵からの激しい砲撃を浴びせた」
Siborne "History of the Waterloo Campaign" p304


 驚いたことに、Siborneによるとネイが増援を求めたのはラ=エイ=サントが落ちる前である。彼はこの農場を攻撃するために予備兵力が必要だと言ったのだ。他の研究者がラ=エイ=サント陥落後、イギリス連合軍の戦線が窮地に陥ってからとしているのに対し、前後関係が異なっている。
 また、Siborneによればネイがラ=エイ=サント背後の連合軍戦線を砲撃したのは、ラ=エイ=サントに対する支援を妨害するためだとなっている。ラ=エイ=サント陥落の勢いに乗って至近距離から砲撃を浴びせたとしている他の研究者たちとはここの部分でも違いが現れている。

 一体、どちらが正しいのだろう。残念ながら、Siborneも含め研究者の誰一人としてこの挿話をどのような一次史料から引用したのかについて記していない。Chandlerの「戦役」と、Chandler編の"Napoleon's Marshals"でネイの伝記を記したYoungは脚注で引用元を示しているが、そこで紹介されているのはBeckeの本。つまり二次史料から引っ張ってきたことしか分からない。
 ただ、想像はできる。多くの著作でこの挿話を紹介する時、かなりの頻度で登場するのがネイの副官だったエイメ大佐だ。そして彼は簡単な回想録を出している。幸い、この回想録はネイ元帥のサイトで見ることができる。彼が何と書いているのか見てみよう。

「6時になって皇帝は、それまであまり進展していなかった中央への攻撃を再開するよう命じた。しかし、そのためには余力のある歩兵が必要で、元帥は手元に使える兵を持っていなかった。戦闘を始めた時にいた兵の半数は戦死したか負傷した。残る半数は苦労しており、弾薬が切れていた。元帥は筆頭副官を通じて皇帝にこのことを伝え、新たな兵を求めた。
 皇帝は答えた。『どこから兵を持ってこいというのだ? 私に兵を作り出せとでも?』 皇弟ジェロームとドルーオ将軍もこの答えを聞いていた。副官はこの回答を持ち帰った。事態は何も変わらず、元帥は戦闘が勝利からは程遠いことを見てとった。
 しかし、最後の努力によって我々は遂に敵の中央を守る銃眼が設けられた農場[ラ=エイ=サント]を手に入れることができた。我々がそこを確保できた僅かな時間のために支払った犠牲は極めて大きなものだった」
Heymès "Relation de la Campagne de 1815"
ネイ元帥

 Siborneとほとんど同じである。エイメは明白に増援要求がラ=エイ=サント攻撃前に行われたと記している。ナポレオンが「どこから兵を持ってこいというのだ? 私に兵を作り出せとでも?」と言って拒否したのは、ラ=エイ=サントを落とすことを目的とした増援の要請だったのだ。

 エイメの記述に素直に従うならば、Siborneのように記すのが妥当だろう。なのに、大半の研究者は一次史料であるエイメが書いていない話を、その著作の中で紹介している。なぜこのようなことが起きたのか。
 一つ考えられるのは、エイメ以外にもこの挿話を紹介している当事者がいる可能性だ。エイメ自身が記しているように、ナポレオンが増援を拒否した現場にはジェロームやドルーオがいた。彼らがもしワーテルローの戦いに関する記録を残し、そこで「増援要請はラ=エイ=サント陥落後にあった」と記しているのなら、研究者たちの記述も論拠を持つことになる(本当にそんな記録があるかどうかは不明)。エイメとは矛盾する記述だが、一次史料同士が互いに矛盾していることは珍しくない。その場合、各研究者(除くSiborne)はエイメとは異なる一次史料に立脚した話を書いたことになる。
 しかし、その可能性は少ないと見ていいだろう。なぜなら、研究者たちの誰一人として、この挿話の登場人物としてジェロームやドルーオの名を記していないからだ。出てくるのはネイとナポレオンとエイメだけ。だとしたら、エイメが残した回想録こそがこの挿話の出所だと考えるのが妥当だ。いや、引用元を記していない研究者が大半である点を踏まえるなら、実際には多くの研究者がエイメの著作にあたることなく他の二次史料からこの話を引き写した可能性の方が高い。マーチン・ヴァン・クレヴェルトは「補給戦」の中で「原典に少しも考慮を払うことなく、お互いに他人の言葉を写し合う多くの歴史家」を批判していたが、ワーテルロー研究者にもこの批判が当てはまりそうだ。

 一次史料の裏付けに欠ける話がここまでもてはやされた理由としては、これが「筋の通る」挿話だったということも関係していそうだ。特にラ=エイ=サント陥落後こそ連合軍にとってもっとも危機的な瞬間だったという話は、イギリス側の戦闘参加当事者が記した以下の話とも辻褄が合う。

「危機が迫っていた。そして結果として見れば戦闘の最中でこの時ほど危険な時はなかった。幸運なことにナポレオンは、予備部隊を前進させこの時点で彼の兵が獲得した優勢を支援しようとはしなかった。自ら指揮監督し作戦の進展を調和させるべきだったのにそうしなかったことは、彼が活動力や個人的な気力を奮わなかったことを証明する」
James Shaw Kennedy "Notes on the Battle of Waterloo" p127


 Shaw Kennedyの指摘は、あくまで彼個人の見方に過ぎない。だが、彼の著作はワーテルロー関連本の中でも有名なものであり、彼自身の見解も広く知られている。ラ=エイ=サント陥落後、連合軍戦線中央が薄くなった時こそ、ウェリントンが最も窮地に陥った時である。だが、ナポレオンはその危機に乗じなかった。連合軍の危機は、ナポレオンの怠惰によって救われた。それがShaw Kennedyの見方である。
 多くの研究者が書いているネイの増援要求に関する話は、このShaw Kennedyの見解と実によく符合している。実際に符合させている一例が、19世紀フランスのナポレオン研究家として有名なHenry Houssaye。彼は「もし、この瞬間に彼[ナポレオン]が[親衛隊の]半数でもネイ元帥に送っていれば、英国の歴史家の中でも最も優れた知識を持ち最も公平な大家が述べているように、この増援は敵の中央を突破したと信じてもいいだろう」(Houssaye "Napoleon and the Campaign of 1815" p218)と述べたうえで、脚注でまさしくKennedyの書物のp127をあげている。
 そしてまた、この増援要求の「時間のずれ」は、話をより劇的にする効果も持っている。イギリス側が危機に陥ったと思った時(ラ=エイ=サント陥落後)に、ネイもまた最大の機会が訪れたと判断した。しかし、ナポレオンは予備部隊を投入しようとせず、機会は失われた。「どこから兵を持ってこいというのだ? 私に兵を作り出せとでも?」と派手に見得を切った結果、彼は敗北した。ドラマであれば盛り上がる場面だ。
 だが、歴史はドラマではない。そこにいたのはシナリオを演じる俳優ではなく、生身の人間だ。ドラマなら最初から最後まで綺麗に辻褄が合い、筋が通っているのは当然だろう。だが、現実はそれほど整合性が取れるものではなく、しばしば非合理的ですらある。また、ドラマなら劇的な場面も必要だが、現実に起きることはほとんどつまらないことばかりだ。歴史が過去の事実を探求するものである以上、筋が通るとかより劇的であるという理由だけで話を構成するのは拙い。まして一次史料と明らかに矛盾することを記すのは、歴史書としては致命的ですらある。

 私は歴史書を読む時、いつも以下の2つの点に留意している。

1)話が面白すぎるほど、その話が史実でない可能性が高まる
2)筋が通っていてとても分かりやすい話は、実は怪しい

 ネイの増援要求に関する挿話は、見事にこの2つの条件を満たしている。従って、Siborneを除く多くのワーテルロー本に書かれているこの話は、個人的には史実でない可能性が高いと思う。

――大陸軍 その虚像と実像――