1809年8月12日
スヘルデ河口





ジャン=バティスト=ジュール・ベルナドット元帥(1763-1844)


 1809年、フランスと戦争を始めたオーストリアを支援すべく、英国は欧州大陸への遠征を企図した。イベリア半島とオーストリアに兵力を集中しているフランス軍の隙を突いてスヘルデ河の河口に陸軍を上陸させ、アントワープに集結するフランス海軍に致命的な一撃を与える。英デイリー紙の言う「大遠征」の艦隊が英国を出発したのは、同年7月28日のことだった。
 フランス側の準備は不十分だった。実際の英国軍上陸目標となったオランダの国王でナポレオンの弟だったルイは、海からの危険に対する備えが薄いことに対して絶えず不満を漏らしていた。そして、実際スヘルデ河口のワルヘレン島と南ベヴェラント島に上陸した英軍は両島を席巻し、フランス側の拠点だったフリシンゲン市もあっさりと陥落した。
 だが、英軍はそれ以上の進撃ができなかった。フランス側は英軍の目的地であるアントワープに急遽兵を集め、どうにか対応策を講じることに成功したのだ。島は手に入れたものの大陸に足がかりを得ることができなかった英軍は、やがて疫病の流行に悩まされ、最後は惨めに島を去ることになる。オーストリアはフランスと講和を結び、第五次対仏大同盟はここに崩壊した。

 英軍撃退に際して活躍したフランス側の人物として名が上がるのが、ジョゼフ・フーシェである。当時、ナポレオンはパリから遠く離れたウィーン郊外のシェーンブリュン宮殿におり、スヘルデ河口の事件についてすぐに対応できる状況になかった。だが、独裁者ナポレオンがいない状況下で彼の部下たちの大半はただ右往左往を繰り返していた。
 その際、積極的に動いたのが警察大臣兼内務大臣の地位にあったフーシェだという。特にこの点を強調しているのが、フーシェの伝記を書いたシュテファン・ツヴァイクだ。彼は英軍の上陸を知ったフーシェがどのような対応をしたかについて次のように書いている。

「彼は大胆不敵にもその布告の中で、ナポレオンの存在の必要ならざることを強調しているのだ。『ナポレオンの天才がフランスに光輝を与えるゆえんであるとしても、外敵を敗退させんがためには、ナポレオンの存在必ずしも必要ならざることを、ヨーロッパに見せつけてやろうではないか』と、彼は国内の市長たちあてに書き、そしてこの大胆な独裁的なことばを、実行によって証明したのである。というのは、英軍ワルヘレン島に上陸との報を八月三十一日[ママ]耳にするやいなや、時を移さず警務大臣兼内務大臣(臨時の役)の彼が、革命の日いらい故郷の村にあって、仕立屋として、錠前屋として、薪屋として、また百姓として安穏に働いていた国民軍の召集を要求したからである」
高橋禎二・秋山英夫訳「ジョゼフ・フーシェ」p211-212


 国民軍というのはおそらく国民衛兵(garde nationale)のことだろう。フーシェは内務大臣として、国内の治安維持に重要な役割を果たす国民衛兵の動員を自分の一存で決定し、布告した。治安維持は内務大臣の仕事なので、この行為自体にはさして不思議はない。問題は、ツヴァイクが次に書いている話だ。

「さらに第二の果断な処置がとられた、すなわちフーシェがこの即席の北方国民軍の総司令官に、人もあろうにベルナドットを任じたのである。この男はナポレオンの兄弟には義兄に当るのだが、ナポレオン麾下の将軍のなかでは皇帝から一番嫌われ、譴責のうえ追放されていた男であった。ところがフーシェは、皇帝や大臣連や政敵たちの意に反して、この男を追放から呼びもどしたのである」
高橋・秋山訳「ジョゼフ・フーシェ」p212-213


 直前のヴァグラムの戦い後に皇帝の不興を買い、第9軍団指揮官の地位を剥奪されパリへ送り返されたベルナドット。フーシェは彼を英軍を防ぐ立場に改めて任命した、というのがツヴァイクの説明だ。この「任命」という言葉をツヴァイク自身が使っていることは、他の翻訳でも同じ文言が使われていることからも窺える。

「ついで、第二の処置が断行され、フーシェは、臨時北部方面軍の総指揮官に、よりによってベルナドット(市民出身の将軍、一八一〇年、スウェーデンの王位継承者に選ばれた。現王家の祖)を任命した」
吉田正己・小野寺和夫・飯塚信雄訳「ジョゼフ・フーシェ」p173


 フーシェはベルナドットを「即席の北方国民軍」あるいは「臨時北部方面軍」の指揮官に任命した。いや、そもそもこの軍隊自体、ツヴァイクによればフーシェが作り上げたものになる。

「ナポレオンみずからその書翰の中で難攻不落と言っていたフリシンゲン市は、フーシェの予言どおり、数日にして英軍の手に落ちた。が、フーシェが皇帝の許可を待たないで新たに編成した軍隊は、その間にアントワープを復旧する時を得たのであって、こうしてこの英軍の侵入は多くの犠牲を払い、完全な敗北をもって終わったのである」
高橋・秋山訳「ジョゼフ・フーシェ」p213


 だが、この話は普通に考えればおかしい。この時フーシェは警察大臣兼内務大臣だったのであり、陸軍大臣であった訳ではない。陸軍の編成や人事といった仕事は彼の担当ではないのだ。なのにツヴァイクによれば彼が軍を「新たに編成」し、その指揮官を自ら「任命」したことになっている。一体フーシェはどんな権限に基づいてそのような行動を取ったのか。これはどうみてもただの越権行為であり、そもそも部下である軍人たちが彼に従わなければならない理由などない。フーシェが何を言おうと無視されて終わり、となるのが普通だろう。軍を編成し、指揮官を任命する権限を持つ人間がいるとすれば、それは陸軍大臣クラークであり、フランス全軍の総指揮官であるナポレオンである。
 そして、実際にベルナドットの任命はまさにナポレオンとクラークの手によって成されたことを示す一次史料があるのだ。Gordon C. Bondは"The Grand Expedition"の中で、Correspondance: Armées du Nord, Cartons C2 102, Clarke to Sainte-Suzanne, 13 August 1809からの引用として以下の話を紹介している。

「ルイ[オランダ国王]がこの落胆した手紙を書いていた[1809年8月]12日に、クラーク将軍はパリでスヘルデに関するナポレオンの最初の命令を受け取っていた。ナポレオンの命令に対する即座の対応としてクラークは、引き続きサント=シュザンヌ将軍の指揮下に残るブローニュとカドサンド間(ブローニュ野営地を含む)の沿岸地域を除いたスヘルデ周辺の全フランス軍の指揮官に、ポンテ=コルヴォ公ジャン=バティスト・ベルナドット元帥を任命した」
Bond "The Grand Expedition" p79


 Bondはベルナドットを指揮官に任命したのが陸軍大臣クラークであり、クラーク自身は皇帝の命令に従ったのだと明確に述べている。この任命を受けてベルナドットがアントワープにある北方軍司令部に到着したのは8月15日。任命された彼が急ぎアントワープへ向かったと考えれば、時間的にも矛盾しない。
 ではフーシェは何をしたのか。ツヴァイクの言い分よりもフーシェ自身の言葉に耳を傾けてみよう。

「しかしこのアントワープの城壁下に集結する補助的な国民軍には指揮官が必要だった。誰を選ぶべきか分からなかった時、突然ベルナドットがヴァグラムから到着した。彼の帰還を知ったまさにその日、私は陸軍大臣のフェルトル公[クラーク]に対しすぐ彼を指揮官に任命するよう提案した」
Gallica "Mémoires de Joseph Fouché" Première partie, p393


 フーシェは任命したのではなく、任命するようクラークに「提案」したのである。警察大臣兼内務大臣の彼が、任命権を持つ同僚の大臣に対して助言を成した。これなら越権行為にも当たらないし、政治家として優れた判断をしたと自慢することもできるだろう。さらにフーシェはベルナドットの説得にも当たったと述べている(Gallica "Mémoires de Joseph Fouché" Première partie, p395)が、フーシェ自身がベルナドットを指揮官に任命したなどとは一言も言っていない。
 ベルナドットの伝記作者によると少し話は異なってくる。だが、彼もツヴァイクのような主張はしていない。

「ベルナドットは間を置かずに戦闘準備をして陸軍大臣の前に姿を見せ、さらに議会に対し自ら貢献したいと申し出た。彼は『もし帝国防衛のため古参兵1個中隊のみを提示されたとしても、私はその部隊の指揮を取ることを躊躇しないだろう』と宣言した。
 陸軍大臣と議会はナポレオンの譴責を蒙ったばかりの元帥を雇うことを拒否した。一方、内務大臣兼警察大臣だったフーシェは、緊急時に帝国防衛に当たる人物としてポンテ=コルヴォ公ほど相応しい人物はいないと宣言した。陸軍大臣と議会は、彼らの不作為を責めポンテ=コルヴォ公ベルナドット元帥を北方軍あるいはアントワープ軍と呼ばれた軍の指揮官に任命することを承認した皇帝の命令を受け取り、驚愕した」
Dunbar Plunket Barton "The Amazing Career of Bernadotte" p224


 ここではフーシェはベルナドットを任命すべきだと「宣言」している。また、ベルナドットは積極的にアントワープ防衛の任務に当たろうと申し出ている。フーシェ自身の回想録とは少し内容が違うが、それでも一致している点はある。それは、ベルナドットを北方軍指揮官に任命したのがフーシェではないという点だ。任命を最終的に承認したのは皇帝ナポレオンである。念の為、ナポレオン自身の発言も確認しておこう。

「シェーンブリュン。1809年8月10日
 クラークへ
 4日の報告を受け取った。そなたがパリで何をしているのか理解できない。そなたは英軍がそなたの寝室にやって来るまで待つつもりに違いない! 2万5000人の英軍が我が拠点を攻め我が領地を脅かしている時に、大臣ともあろう者が何もせずにいるのだ! 6万人の国民衛兵を動員するのにどんな不都合がある? 誰もいないところで指揮を取らせるためポンテ=コルヴォ公を派遣するのに何の問題がある! アントワープ、オステンド、リールといった我が拠点を攻城戦に備えさせることがなぜいけない? 理解不能だ。私の見るところフーシェ氏だけが何もせずにいることの不都合さと危険と不名誉とを感じて、できることをしているようだ。危険というのは、フランスが何もせず世論の方向性も示さないのを見て、イギリスが何も恐れず我らの領土を去るような圧力を受けないことにある。不名誉というのは、それが恐れを露わにし、2万5000人の英軍に我が拠点を無防備のまま焼かせていることにある。この状況下でフランスが受けているのは不断の不名誉だ。状況は刻々と変化している。15日後でなければ到着しない命令をいちいち私が下すのは不可能だ。大臣たちは議会を持ち決定を下せる故に私と同じ能力を持っている。ポンテ=コルヴォ公を雇え、モンスイ元帥を採用しろ」

La Correspondance de Napoléon Ier

 ここでもフーシェがベルナドットを指揮官に任命したという話は全く登場しない。ナポレオンはクラークを非難する一方でフーシェを誉めているが、それは彼が国民衛兵の動員に踏み切ったことを評価したものだと考えるのが妥当だろう。ベルナドットやモンスイの人事について、ナポレオンが命令を下している相手はフーシェではなくクラークだ。クラークこそが軍の人事に関わる権限を持つ陸軍大臣の職にあるからだ。

 要するにツヴァイクの書いた「フーシェがベルナドットを指揮官に任命した」という話は、おそらく史実に反する。それは各大臣の権限を考えれば当然の論理的帰結であるし、フーシェの回想録やナポレオンの書簡集をきちんと読んでいれば分かることである。なのにツヴァイクはこんな基本的な間違いをした。なぜか。
 クラークの出した手紙までは調べきれなかった可能性がある。しかし、フーシェの回想録やナポレオンの書簡集に目を通していなかったとは思えない。考えられるとすればいい加減に読み飛ばしていたのか、あるいは一応まじめに読んだのだがフーシェの伝記を書いている際に筆が滑ったのか、そのどちらかだろう。実際、ツヴァイクの書く文章は歴史上の人物を描く伝記としてはかなり不適切と思える部分が多い。伝記というものに対する彼の姿勢の問題点は、フーシェが国王裁判で死刑に投票した際の描写にも見られる。

「この瞬間にしかしながら、ジョゼフ・フーシェの性格にあって、もう一つ別の、きわめて顕著な特徴がはじめてその全貌をあらわした、鉄面皮がこれである。彼がある党を裏切って去る場合、それは決して緩慢に慎重におこなわれるのではない。こそこそと列から抜け出るのではない。白日のもとに冷たい微笑をうかべながら、見る者をして唖然たらしめ、嘗めているように当たり前の話だというような顔をして、まっすぐにこれまでの反対者のもとに走り、反対派の合言葉と議論とをそっくりそのまま頂戴するのである。これまでの同志が自分のことをなんと考えようとなんと言おうと、大衆が、世間がなんと考えようと、そんなことは彼にはまったく冷然たるものだ。彼にとって重要なことは、いつでも一つあるきりだ。つねに勝利者のもとにあること、断じて敗北者とともに天を戴かないことである」
高橋・秋山訳「ジョゼフ・フーシェ」p34-35


 まるで読心術の持ち主であるかのようにフーシェの性格を分析してみせているが、一体どんな論拠があってツヴァイクはこのような主張をしているのだろうか。具体的な一次史料に基づかなければ、この指摘が本当にフーシェの心情を描き出したものか、それとも単にツヴァイクの妄想に過ぎないのか判断することができない。だが、ツヴァイクはフーシェの回想録という一次史料について「彼自身と同様まったく当てにならぬしろもの」(高橋・秋山訳『ジョゼフ・フーシェ』p352)と切って捨てている。確かに回想録を全面的に信用するのは拙い。だが、回想録を無視して自分の主張のみを並べられても、それは単なる砂上の楼閣だ。こうした裏付けの怪しい話を平気で書いてしまうその無神経さが、ベルナドットの任命を巡る基本的な誤りにつながったのではないだろうか。
 同じフーシェの死刑投票について、真っ当な歴史家は次のように述べている。

「だいいち、かのジョゼフ・フーシェのように、ただ一言『死刑』とだけ述べた議員については、その理由や思惑を推測することはできない」
遅塚忠躬「フランス革命における国王処刑の意味」フランス革命とヨーロッパ近代、p128

「要するに、投票(言説)を解釈する場合に、投票者の『心の奥底』だの所属党派だのを持ち込むことは、いたずらに混乱を招くだけであり、われわれは、投票=言説というテクスト=事実のみを解釈すべき」
遅塚「王政復古期の『国王弑逆者』」フランス革命とナポレオン、p124


 お調子者のツヴァイクと比べた時、どちらがより真摯に歴史に向き合っているかは一目瞭然だろう。



 以上、散々ツヴァイクを批判してみたのだが、よくよく考えれば彼が書いた「ジョゼフ・フーシェ」は歴史書ではなく小説である。少なくとも岩波文庫はこの本を「ドイツ文学」として紹介している。表紙の色も、同文庫が歴史書で使っている「青」ではなく、外国文学を示す「赤」だ。
 フィクションであれば、そこに書かれている話が歴史的に見ておかしなものであっても何の問題もない。面白いかつまらないかだけが重要。むしろ彼の本は、小説と歴史書の区別をつけられるかどうかという、読み手のリテラシーを問うものと見なすべきかもしれない。

――大陸軍 その虚像と実像――