1796年12月
マントヴァ包囲陣





デュマ将軍


 「三銃士」や「モンテクリスト伯」の作者として有名なアレクサンドル・デュマ(大デュマ)の父親は、フランスの貴族と、その奴隷だった黒人女性の間に生まれた。彼はフランス革命期に将軍の地位につき、ナポレオンの下でイタリア遠征とエジプト遠征に参加した。最近では彼を題材にした小説まで出版され、知名度も多少は上がっているようだ。
 イタリア遠征においてマントヴァを包囲している時、デュマが城内と連絡を取ろうとしたオーストリア軍のスパイを捕らえたことがあった。彼はこのスパイを問い詰めて彼が運び込もうとした手紙を入手。それを司令官ボナパルトに送っている。将軍としてはどちらかというと脇役的な活動が多かったデュマが目立った場面だけに、彼の伝記"General Alexandre Dumas"を記したJohn G. Gallaherもその経緯を詳細に記し、以下のように述べている。

「この[デュマが手に入れた]2通の手紙に含まれた情報はボナパルトにとって極めて重要であり、後にリヴォリの戦いと最終的なマントヴァ要塞の降伏に至るその後数週間の作戦をボナパルトが立案するに際し彼を大いに助けた」
"General Alexandre Dumas" p76


 中でも「ボナパルトにとって最も大きな価値のある情報」("General Alexandre Dumas" p77)は、オーストリア野戦軍司令官のアルヴィンツィが書いた手紙の追伸部分だった、というのがGallaherの指摘だ。その追伸部をGallaherは以下のように記している。

「おそらく私の[南方への]移動は1月13日か14日まで始まらないだろう。私は3万人の兵力とともにリヴォリの平野を通って前進し、一方でプロヴェラ将軍の1万人は大量の補給部隊とともにアディジェ川のレニャーゴへ前進する。砲声が聞こえた時は、彼の前進を支援するため要塞から出撃してほしい」
"General Alexandre Dumas" p77


 この手紙は「敵の計画を裏づけどの方面から彼らが来るかを示していた。だが何より重要なのは敵のスケジュールが分かったことだった。アルヴィンツィは1月の13日か14日までは動けない。従ってボナパルトは、敵が前進するのを待つ間、疲れきった彼の軍を休ませ、自身の暫定的な計画を立てることができた」("General Alexandre Dumas" p77)。Gallaherはそのように主張し、この手紙の重要性を強調している。デュマの報告を喜んだボナパルトはデュマに感謝の手紙を書く一方で、総裁政府に奪った手紙を送ったという。

 以上の話のうち、デュマがスパイから手紙を手に入れたのは事実だ。1819年に出版された"Correspondance inédite officielle et confidentielle de Napoléon Bonaparte, Italie. Tome Deuxième."のp376-378には1796年12月25日付でデュマがボナパルトに宛てて記した報告書が掲載されている。ボナパルトが12月28日付で記した総裁政府への報告書("Correspondance de Napoléon Ier, Tome Deuxième" p202-204)でも、デュマが手紙を手に入れた経緯が説明されている。
 問題はその奪った手紙の内容だ。Gallaherがソースにあげているのは、デュマ将軍の息子大デュマの記した回想録"Mes Mémoires, Première Série"。大デュマは「以下に、私が父の記した写しから転記した手紙の内容を載せる。原文はボナパルトに送られた」(p75)と断ったうえで手紙の中身をフランス語で載せている。
 その文章はまず冒頭に「トレント、1796年12月15日」とある。続いてアルヴィンツィの記した「今月5日に[神聖ローマ]皇帝陛下から受け取った命令を送る」との文章があり、続いて皇帝の命令文の写しがある。その後に再びアルヴィンツィの書いた文章が掲載され、最後に上にも紹介した「追伸」が載っている。ただ、追伸の内容はGallaherの英語とは微妙に異なっており、日本語に訳すなら以下のようになる。

「おそらく私の移動は1月13日か14日には実行されるだろう。私は3万人の兵力とともにリヴォリの台地を通って前進し、またプロヴェラ将軍の1万人を大量の補給部隊とともにアディジェ川のレニャーゴへ送り出す。砲声が聞こえた時は、彼の前進を支援するため要塞から出撃してほしい」
"Mes Mémoires, Première Série" p76


 細部の違いがあるとはいえ、これがGallaherの主張する「追伸」部の論拠であることは確かだろう。問題は、この追伸部分について異論を述べる歴史家がいることだ。
 一人はMartin Boycott-Brown。彼が書いた"The Road to Rivoli"の中には、アルヴィンツィの言葉として「その時点での状況と軍にとっての必要性のため、3週間から1ヶ月しないと新たな作戦は試みられない」("The Road to Rivoli" p489)と書かれている。この文章は大デュマの回想録にも登場(追伸の前にあるアルヴィンツィの記述)しており、その部分ではBoycott-BrownとGallaherは一致している。だがBoycott-Brownは追伸部に相当する文章は全く無視し、一言たりとも著作に載せていない。
 もう一人、追伸部の記述について慎重な姿勢を見せているのはRamsay Weston Phippsだ。彼は一応、追伸部を「ある記録によると」と紹介してはいるものの、一方で「よりありそうなのは、その手紙には皇帝からの命令が含まれていた」("The Armies of the First French Republic, Volume IV" p124)と指摘。追伸部の信頼度が低いことを示唆している。

 彼らはなぜ、大デュマの本に載っている追伸部について疑惑の目を向けているのか。理由は簡単。件の「追伸」を記している史料が、デュマ回想録以外に存在しないからだ。他の史料にはこの「追伸」なるものが全く載っていない。
 例えば上で紹介した"Correspondance inédite officielle et confidentielle de Napoléon Bonaparte, Italie. Tome Deuxième."。同書のp374-375にはデュマが奪った手紙が掲載されているのだが、「追伸」以下の文章は全く存在しない。
 1831年出版の"Mémoires tirés des papiers d'un homme d'état, Tome Quatrième."のp138-140、1834年出版の"Histoire de Napoléon, Tome I."のp174-175にもこの手紙の文章が掲載されているが、やはり追伸部は存在しない。これらの本はいずれもデュマ回想録の出版(1852−1855年)より前に市場に出回っている。要するにデュマ回想録が世に出るより以前には、この「追伸」なる文章はそもそもこの世に存在しなかった可能性があるのだ。
 そう考えてこの追伸を改めて読むと、そこに載っている話があまりに後の歴史通りの動きを紹介していることに違和感を覚える。オーストリア軍に追われたジュベールがラ=コロナからリヴォリへ退却したのは1月13日であり、ボナパルトの増援が到着してリヴォリで激しい会戦が行われたのは14日。もし追伸が本当にアルヴィンツィの書いたものなら、彼は一ヶ月も前からボナパルトの動きを見抜き、戦闘が行われる日程と場所を完璧に予想していたことになる。
 その後も異様だ。アルヴィンツィが送り出した別働隊としては「追伸」に出てくるプロヴェラ以外にヴェローナに向かったバヤリッチの部隊もいた筈なのだが、そちらについては言及なし。自らの主力部隊やバヤリッチでなくプロヴェラの名を上げて「マントヴァに接近したら支援しろ」と述べているのは、結局プロヴェラの部隊のみがマントヴァ近くにたどり着けたことを知っている後の時代の人間が書き添えたものだからだと考えた方が納得がいく。
 デュマの「追伸」が疑わしい理由は他にもある。オーストリアの軍事雑誌"Streffleurs militärische Zeitschrift, 1832, Dritten Band."に載っているSchelsのDie Begebenheiten in und um Mantua vom 26. September 1796 bis 4. Februar 1797; nebst der Schlacht von Rivoli.(p115-144)によれば「男爵アルヴィンツィ中将は[1797年]1月4日、バッサノで開いた会議に全将軍と縦隊指揮官を集め、彼らに計画を明らかにした」(p136)という。リヴォリ戦役の作戦計画が決められたのは1797年1月。それ以前の96年12月にマントヴァへ送られた手紙に計画を載せるのは不可能だ。

 要するにこの「追伸」部分は大デュマの創作だと考えた方がいいだろう。大デュマが「追伸」をでっち上げた動機としては、自分の父親の役割を大きく見せるため。ボナパルト将軍のリヴォリでの勝利は、父であるデュマ将軍が得た情報のおかげだったのだ。そう言って自慢するために、存在しなかった「追伸」を勝手に作り上げて付け加えたのだろう。
 大デュマによる父親自慢は、後にボナパルトがデュマ将軍へ送ったという「感謝の手紙」からも様子を窺うことができる。デュマの回想録によればこの手紙は「雪月7日(12月28日、日曜日)」("Mes Mémoires, Première Série" p79)付のものだが、この手紙を掲載している史料がこれまたデュマの回想録しかないのである。1819年出版の"Correspondance inédite officielle et confidentielle de Napoléon Bonaparte, Italie. Tome Deuxième."にも、後に第二帝政下でまとめられた公式書簡集である"Correspondance de Napoléon Ier, Tome Deuxième"にも、こんな手紙は載っていない。そもそもこの年の雪月7日は12月28日ではなく27日である。
 もちろん、大デュマが父親の遺品から見つけ出した手紙をそのままなぞった可能性はゼロではない。だが、そうだとしたら彼の回想録以外に見当たらない文章(追伸部やボナパルトの感謝状)が次々と出てくるのはあまりに変だ。普通に考えれば、デュマの回想録に書かれているものは小説家がその想像力を羽ばたかせてでっち上げた文章だと判断する方が妥当だろう。小説家の文章は楽しむために存在するのであり、史実を裏付けるのに使うべきではない。

――大陸軍 その虚像と実像――