1799年1月23日
ナポリ





フランス軍ナポリ入城


 1798年12月23日(22日の説もある)。ナポリ王フェルディナンド4世とその家族はネルソン率いる英国艦隊の船に乗り込んだ。危機が迫る首都ナポリを捨ててシチリアのパレルモへと避難するためだった。ナポリ軍はイギリス、オーストリアと同盟し、ほんの1ヶ月前にローマに展開するフランス軍に対して攻撃を仕掛けたばかりだったが、早々にフランス軍の反撃に遭い君主自ら逃げ出す羽目に陥ったのだ。
 第二次対仏大同盟戦争の開幕を告げるこの戦役でフランス軍の指揮を取ったのがジャン=エティエンヌ・シャンピオネだった。フランス軍は翌1799年1月23日にナポリに入城。シャンピオネはブルボン朝によるナポリ王国に代わって26日にパルテノペアン共和国(République Parthénopéenne)の成立を宣言した。
 だが、シャンピオネがナポリにとどまった期間は極めて短かった。彼は2月28日には総裁政府の命に従ってナポリを去る。さらに北部イタリアにロシア・オーストリア連合軍が攻めてきたこともあってフランス軍によるパルテノペアン共和国への支援はあっさり終焉。5月には連合軍による反撃を受け、共和国はその短い生命を終えた。

 ナポリに於けるシャンピオネの動向を見るうえで欠かせない人物が、総裁政府のcommissaire civil de l'armée de Romeだったフェプールである。シャンピオネとフェプールはナポリ侵攻とその後の現地政策を巡って激しく対立し、結果としてまず1799年2月6日にシャンピオネがフェプールを追放。しかし、そのシャンピオネもすぐに総裁政府に帰国を命じられ、フランスで軍法会議にかけられたのである。たった一ヶ月で軍のcommissaire civilと指揮官がそれぞれ職を辞したのだ。明らかに何らかの異常事態が生じていたと見るべきだろう。
 だが、具体的に何があったのかとなると、研究者ごとに書いている話が違う。まずシャンピオネ擁護派の見解を見てみよう。

「さらに彼[シャンピオネ]は正直かつ清廉な人物で、総裁政府による掠奪をせめて遅らせようと努力したが無駄だった。彼は1799年後半に死去したが、あまりに貧乏だったので彼の幕僚が葬儀の資金を払ったほどだった」
Elting "Swords around a Throne" p158

「おそらく彼[シャンピオネ]自身の良識に従って自らの義務に勤勉に取り組み過ぎたため彼は政治的策動の犠牲となり、帰国を命じられて軍法会議にかけられたが、1799年6月に新たな総裁政府が成立するとアルプス方面軍の指揮官に復帰した。(中略)アブランテス公夫人は強欲な政治屋の案に抵抗したことを理由に国家の忠実な僕の一人による栄光を犠牲にした総裁政府の不公正ぶりに言及している」
Philip J. Haythronthwaite "Who was Who in the Napoleonic Wars" p65

「[ロシアのスヴォーロフ元帥がシャンピオネを高潔だが不幸な共和主義者と称した点について]スヴォーロフの判断はこの場合、十分に適切だろう」
Christopher Duffy "Eagles over the Alps" p22

「ナポリが鎮圧されるや否やシャンピオネと総裁政府の代理人たちの間の抗争が山場を迎えた。代理人たちは彼らの搾取、特にナポリの全資産に対し1フランにつき3サンチームを要求したことに伴う人々の叛乱に苛立っており、そして代理人フェプールによる彼に敵対した布告に刺激されたシャンピオネは、2月6日に今いる代理人たちにナポリとローマの領土から出ることを命じ他の者を代理にあてる行動に踏み切った。この行動は人々を喜ばせ、彼らはシャンピオネはナポリ人に違いないとまで言った。だが総裁政府はイタリアを彼らの富の源泉と見ており、加えて長期に渡って支配下に置くのが困難な国の住人の心情などおそらく気にしていなかった。彼らは明らかにシャンピオネの報告を受ける前に彼を指揮官から外し、自ら陸軍大臣に報告をするよう命じた。彼は1799年2月28日にナポリを発った。25日、総裁政府は彼に軍法会議を受けるよう命じた。総裁政府内ではバラスが将軍を擁護しようとしたが、ラ=ルヴリエール=レポーは彼自身が引退したずっと後になってもシャンピオネに関して個人的反感を窺わせる文章を記した。(中略)マクドナルドと彼の敵に回ったデュフレスを除き、全ての将軍たちは彼を支援した。例えばもう一人の清廉な人物であるモローは彼がミラノを通過する際に彼に会いに行き、彼を失うことに対する遺憾と同情の意を記した。ジュベールは総裁政府に対しこの件は十分な注意をもってあたるべきだと述べ、将軍たちを審理した軍法会議の議長は告発者の不利になる記録を持ってパリへ向かった」
Ramsay Weston Phipps "The Armies of the First French Republic" Volume V p247-248


 シャンピオネは清廉な人物であり、強欲な総裁政府の代理人(その代表者がフェプール)の行動を抑制しようとした。これがシャンピオネ擁護派の見解だ。
 だが、実はフェプールは、シャンピオネの方こそ強欲に行動したと非難を浴びせている。シャンピオネが軍法会議にかけられたのも、それが理由である。

「彼[シャンピオネ]はナポリ戦役でフランス軍を率いて成功を収め、1799年1月にナポリを占領して短命に終わったパルテノペアン共和国を組織した。彼の総裁政府に対する非難は2月の帰国命令につながった。フランスへの途上で逮捕された彼は汚職と命令への不服従で告発されたが、無罪になり北部イタリアのフランス軍指揮官として戻ってきた」
Stephen Pope "Dictionary of the Napoleonic Wars" p135

「少し後になって総裁政府代理人の一人であるフェプールが彼[シャンピオネ]を横領と権力の乱用を理由に告発したため、彼は解任されて軍法会議にかけられた」
Gallica "Biographie universelle ancienne et moderne" Tome Septième p461


 そして、フェプールの告発を支持する研究者もいる。

「同時にナポリ方面軍指揮官であるシャンピオネとコミッショナーのフェプールはパルテノペアン共和国の戦利品を巡って恐ろしい争いを行っていた。事態についてひとたび適切な情報を得た総裁政府はシャンピオネを解雇した。ナポリ方面軍内での広範な不正行為、掠奪、不服従の証拠が次々と出てきたため、総裁政府はシャンピオネとその部下の将軍であるボナミ、デュフレス、デュエーム、レイ、ラブルーシエールを軍法会議にかけることを命じた」
Howard G. Brown "War, Revolution, and the Bureaucratic State" p251


 Brownはさらに同書の脚注で公式記録に言及し、以下のように述べている。

「シャンピオネは彼の部下の士官たちに階級に応じて非公式な贈り物を寄付として集めた資金から支払っていたが、それを軍の報告書に記録していなかった」
Brown "War, Revolution, and the Bureaucratic State" p251


 要するに掠奪品を巡る奪い合いの過程では、シャンピオネはとても「清廉」などと呼べる人物ではなかったという訳だ。
 そしてさらに、別の理由からシャンピオネを批判する向きもある。

「ナポリが戦争を始めた時、シャンピオネはナポリ軍を撃ち破り、ナポリ領に侵攻してナポリ市を奪い、政府の命令とは反対に共和国の成立を宣言した。この不服従のために彼は指揮権を奪われ軍法会議のためフランスに戻された」
Steven T. Ross "Historical Dictionary of the Wars of the French Revolution" p38

「フランス総裁政府はナポリ王国の征服を予想せず、軍のコミッショナーや将軍にそうなった際の命令を与えていなかった。新たな対仏大同盟が形成される公算があった当時の情況を考慮するなら、新たな民主主義的共和国をイタリアに成立させて旧体制諸国を刺激しない方が賢明だった。しかし、シャンピオネ将軍はボナパルトが北部イタリアで獲得した栄光に対して嫉妬していた。彼はボナパルトを真似し、それに並ぼうとすら望んだ。(中略)この状況下で彼は軍にナポリ入りを命じ、そして軍コミッショナーであるフェプールの警告に反して1799年1月26日にナポリ共和国の成立を宣言した(中略)。
 パリでは総裁政府がこの独断専行に激怒した。政府はフェプールを支持し、シャンピオネを解任してマクドナルド将軍に替えた」
Ed. Samuel F. Scott and Barry Rothaus "Historical Dictionary of the French Revolution" p750


 ナポリでの掠奪よりも政府の命令に反してパルテノペアン共和国成立を宣言したことの方が問題視されている。総裁政府がシャンピオネを召還し軍法会議にかけたのは、彼の犯罪行為もさることながら、彼が政府の命令を無視したことに対する処罰の意味合いが強かったことになる。
 実際、シャンピオネの処置を巡っては政治的思惑が終始働いていた。総裁政府のメンバーが入れ替わり、陸軍大臣がシャンピオネと親しいベルナドットになると、彼に対する軍法会議はすぐに終わりシャンピオネは無罪になる。本当に犯罪行為を行ったのが誰だったのか、そもそもどのような犯罪行為があったのか、詳細は不明のまま政治的決着がつけられたのだ。

 シャンピオネが清廉だったのか、それとも掠奪財産を私物化するような人間だったのか、結局のところよく分からない。ただ、どちらにしても最も酷い目に遭ったのがナポリの住人であることは間違いないだろう。



ジャン=エティエンヌ・シャンピオネ将軍(1762-1800)

――大陸軍 その虚像と実像――