1805年12月2日
アウステルリッツ(その4)





マムルーク騎兵の突撃


「それから数百ヤードも乗り進まないうちに彼は左側に、華麗な白い制服をまとい黒い馬に跨った大勢の騎兵集団が戦場全体に広がり、彼と彼の進路に真っ直ぐ向かって早足で進んで来るのを見た。(中略)彼らは交戦するべくやって来るフランス騎兵を攻撃するために前進していた我らの近衛騎兵隊だった」
Leo Tolstoy
"War and Peace" Book Three, Chapter XVII

 アウステルリッツの戦いの中でクライマックスとしてしばしば紹介されるのが、フランスとロシアの近衛騎兵同士が衝突した場面だ。ロシア近衛騎兵の突撃をフランス親衛騎兵が迎え撃ち、これを撃退することで勝敗が決まった、というのがよく見かける説明。以下のようなものがその代表例であろう。

「高地に出て左を見ると、敵の近衛部隊がヴァンダム師団の占める台地を攻撃していた。敵がヴァンダム師団の一角に突入したので、近衛騎兵に突撃命令が下った。待ってましたとばかりに襲いかかるフランス近衛部隊のまえに、ロシア近衛部隊はひとたまりもなかった。十五分で完全に撃滅されてしまった。
 (中略)ロシア近衛部隊の大敗北がきっかけで、ロシア・オーストリア連合軍は総退却にうつった。ときに十三時すぎであった」
長塚隆二「ナポレオン(下)」p204


 一般にはこのロシア近衛部隊は、当初は予備として連合軍戦線の後方にいたが、フランス軍の攻撃でプラッツェン高地が奪われたのを受けて前進。プラッツェン高地を奪い返すべくスールト第4軍団のヴァンダンム師団に攻撃を仕掛けて一定の成果を上げたが、最後は敗北した、と言われている。

「午後1時。連合軍最後の組織的反攻が、ヴァンダンム師団の側翼に対して行われた。ロシア近衛兵3千の強襲である。鯨波をあげ300ヤードの距離から突撃をかけた近衛兵団は、ヴァンダンム師団にかなりの重圧を加えたが、結局は後退した」
森谷利雄「大陸軍その光と影その8」タクテクス9号 p87

「11時頃クツーゾフは、ロシア皇帝親衛隊にプラッツェン高地の奪回を命じた。そこには、スールト麾下の旅団が孤立していたのだ。ロシア親衛騎兵の突撃により、この旅団は四散した。しかし、この成功も一瞬であった。ナポレオンは、ベルナドットおよびベシェールのフランス皇帝親衛騎兵に反撃を命じた。数度に及ぶ突撃の後、このロシア騎兵は蹂躙されたのだ」
アド・テクノス「アウステルリッツの戦い ヒストリカルノート」p16

「しかし、午後1時にロシア近衛部隊がアウステルリッツから来襲し、疲れきったスールトの兵の一部は敗れて山頂部を放棄した。フランス軍にとって幸運なことにベシエールとラップ麾下の親衛騎兵が突撃して敵を放り出し、その間にベルナドットが自らの判断で1個師団を急ぎスールトの救援に赴かせた」
Chandler "Dictionary of the Napoleonic Wars" p35

「11時頃、クツーゾフは近衛歩兵に中央の高地へ向かうよう命じたが、ここで彼らはヴァンダンムと出会い、クルツェノヴィッツへ追い払われた。しかし、ロシア近衛騎兵がヴァンダンムの孤立した左翼旅団に襲い掛かりそれを四散させた。
 この成功は一時的なものに過ぎなかった。ナポレオンは既にヴァンダンムの左翼を一掃するためベルナドットを送っていた。今や彼はベシエールと帝国親衛騎兵を撃ち破られた旅団の救出に送り出した。何回かの突撃の後で、最後の――ナポレオンの副官の一人であるラップに率いられた――突撃がロシア騎兵を蹂躙し、彼らの指揮官と騎馬砲兵を捕まえた」
Esposito & Elting "Atlas" map56


 もっとも、以上の例はいずれも極めて大雑把にしか説明していない。アウステルリッツの戦いに焦点を当てて書かれた一連の本にはもう少し詳しい経緯が記してある。以下、戦闘の経過を理解しやすくするため、こちらの地図を参照しながら読んでいただきたい。

 戦闘開始時点では後方に控えていたロシア近衛部隊だが、実はかなり早い段階で最前線に顔を出している。

「午前の半ばにかけコンスタンティン=パヴロヴィッチ大公は1万人強のロシア帝国近衛隊をブラソヴィッツ[地図のBlaschowitz]南東の高地の方角へと率いてきた」
Christopher Duffy "Austerlitz 1805" p133

「朝の間にコンスタンティン大公はロシア帝国近衛隊をブラソヴィッツ東方へ移動させ、輝かしい彼の部隊を3列に布陣した」
Ian Castle "Austerlitz 1805" p70

「午前9時半を少し過ぎた時、コンスタンティンはブラソヴィッツを占領する必要があることに気づいた」
Scott Bowden "Napoleon and Austerlitz" p365


 コンスタンティンの命令でロシア近衛猟兵大隊はブラソヴィッツを占領するが、やがてフランス軍の反撃に遭いそこから撤収。さらに皇帝アレクサンドル1世からプラッツェン高地の北部にあるスタレ=ヴィノフラディ[地図のStari Winohradi]に増援を送るよう求められる。連合軍戦線中央にあるプラッツェンの状況が厳しくなってきたことに気づいたコンスタンティンは、ラウスニッツ川[地図北東部のSlawikowitzからBirnbaumまで流れている川]の背後まで後退することを決意した。

「さらなる命令はやって来なかったが、オーストリア側の詳細な記録によれば彼[コンスタンティン]は自らの左翼後方へと後退しラウスニッツ川の背後で撃ち破られた第4縦隊[クツーゾフ率いる連合軍中央部隊]との連絡を確立しなければならないと決断した」
Duffy "Austerlitz 1805" p133

「午前11時半、コンスタンティンの後方への移動は実行に移された」
Bowden "Napoleon and Austerlitz" p366


 この「後方への移動」が始まった後になって、ようやく最初に紹介した日本語の本などに書かれているロシア近衛隊とヴァンダンム師団との衝突が起きる。ただし、その経緯は多少複雑だ。通説では以下のような順序を辿って戦闘が生じたとされている。
 まず最初にロシア近衛歩兵とヴァンダンムの歩兵が衝突した、という。スタレ=ヴィノフラディを占領したヴァンダンムがさらに東へ前進を始めたのがそのきっかけだとする説明が多い。

「この機動が始まるや否や、近衛兵は奪い合いの場[プラッツェン高地]の北方斜面に沿って前進してきたシンネル将軍率いるヴァンダンム師団第3旅団の攻撃を受けた。この面倒な事態によって大公は単に戦力を誇示する代わりに全面攻撃を命令せざるを得なくなった」
Chandler "Austerlitz 1805" p69

「さらなる前進準備のため彼[ヴァンダンム]はスタレ=ヴィノフラディ北方斜面にあるぶどう園に腰を据えるよう第4歩兵連隊の2個大隊に前進を命じた。高地から降りてくるフランス軍を妨げる目的でコンスタンティンは再編した部隊と伴にラウスニッツ川を再渡河した」
Castle "Austerlitz 1805" p70-71

「ヴァンダンムの6個大隊がぶどう園に向かって降りてくるのを見たコンスタンティンは、何とかしてフランス軍の動きに対抗する必要があると感じた」
Bowden "Napoleon and Austerlitz" p366


 ヴァンダンムに対抗するため、コンスタンティンはセミョノフスキ連隊とプレオブラジェンスキ連隊のフュージリア大隊に前進を命じた。

「プレオブラジェンスキとセミョノフスキ連隊は堅実に斜面を登り、最後の300ヤードを走った。息切れと銃撃による多くの損害にもかかわらず、ロシア軍は銃剣で[フランス軍]第1列を撃ち破り、激しい砲撃によって第2列の前面でようやく止められた」
Duffy "Austerlitz 1805" p135

「彼らはあまりに断固としてフランス兵と取っ組み合おうとしていたために、規律が失われフランス軍戦線に到る最後の300歩は走ることになった。[フランス]第4歩兵連隊第1大隊からの集中した射撃にもかかわらず、息を切らしぶどう園を通過したために隊列が混乱したロシア近衛兵は銃剣をかざしてフランス軍大隊に突入しその戦列を打ち砕いた。さらに前方へ進むと、[ロシア]近衛猟兵を撃退した[第4歩兵連隊]第2大隊は砲兵隊のあるところまで退却した。いくらか混乱した状態のままロシア兵はこの第2線まで前進を続けたが、破滅的に集中された砲撃と射撃によってそこに到達するのは妨げられた」
Castle "Austerlitz 1805" p74

「最前列の近衛フュージリア3個大隊[セミョノフスキ連隊1個、プレオブラジェンスキ連隊2個]はすぐに行動するよう命じられた。2人の将軍に率いられ、目立つ高い帽子を誇示した髭の巨人たちは横隊を組んで斜面を着実に登り、それから最後の300ヤード以上の距離を『ウラー』という叫び声を挙げながら駆け足でぶどう園に向かい突撃を実行した。第4連隊第1大隊は突撃に対して一連の秩序のとれた致命的な一斉射撃で応じ、ロシア軍の隊列を引き裂いた。フランス軍小火器の射撃による損害にも、長い距離を走ったことに伴う疲労にも、そしてぶどう園を素早く通り抜けたことによる隊列の乱れにもかかわらず、近衛フュージリア3個大隊は押しまくり、第4連隊第1大隊の両翼を包囲してフランス軍を銃剣で撃退した。第4連隊の第1大隊が後退したため、同第2大隊は斜面を下ってきた砲兵中隊の保護を得られるよう後退した。敵の接近を聞いた砲兵はすぐに前車を外し発射位置についた。砲撃目標はすぐに姿を現した。第4連隊第1大隊に対する勝利に続いてロシア近衛兵は前進してきたが、彼らの混乱した大隊は第4連隊第2大隊の致命的な射撃とドゥジューム中佐麾下の大砲6門からの散弾によって阻止された。近衛フュージリア3個大隊は再編のためぶどう園の東端まで後退した」
Bowden "Napoleon and Austerlitz" p367


 研究者によっては多少違うことも書いている。例えばFrançois Guy Hourtoulleはロシア歩兵の突撃について低い評価しかしていない。

「コンスタンティンは歩兵を突撃させたが、彼らをあまりに遠くから出発させた。300ヤード以上を走った後で敵と接触した彼らは実に素早く食い止められた」
Hourtoulle "Austerlitz: The Empire at its Zenith" p54


 また、Chandlerによれば突撃したのは擲弾兵になっている。

「午後1時少し後にフェルディナント[おそらくコンスタンティンの間違い]は計3000人の擲弾兵からなるエリート大隊を率いた。不幸なことに前進の統制は緩み、まだ300ヤードは進まなければならないところで擲弾兵は走り出し、結果として目的に到達したところで多くの兵は酷く息切れしていた。にもかかわらず、真鍮製のミトレ帽を被った巨人たちはフランス軍の第1線を破った――フランス砲兵による砲撃の嵐のため、第2線の前で停止させられることになったが」
Chandler "Austerlitz 1805" p69-72


 いずれにせよロシア近衛歩兵の攻撃は失敗に終わった。しかし、その後で行われた近衛騎兵の突撃は大きな成果を上げる。

「こうした機会は大公に気づかれずにはいられなかった。彼はすぐに1000騎の胸甲騎兵に先導された近衛騎兵15個大隊にヴァンダンムを側面から破壊するよう命じ、擲弾兵には正面から攻撃を再開させた。第4歩兵連隊の最前列の大隊はビガレ少佐の命により際どいタイミングで方陣を組んだ。しかしロシア騎兵は側面へ動いて方陣に砲口を向けた騎馬砲兵6門が姿を現し、方陣は致命的な散弾の砲撃を受けた。既に戦闘で負傷していたヴァンダンムは第4連隊救出のため第24軽歩兵連隊を突進させたが、胸甲騎兵が打ちのめされた方陣に強力な衝撃と伴に襲い掛かるのには間に合わなかった。200人以上のフランス歩兵が切り倒され、第4連隊の貴重な軍旗は奪われて後方へと運ばれた」
Chandler "Austerlitz 1805" p72

「フランス軍[第4連隊]の方陣が十分に弱まったと考えた近衛騎兵は突撃の準備をした。先頭に立ったコンスタンティン大公が『神と、皇帝とロシアのために!』と叫んで兵を奮い立たせ、2個騎兵大隊が方陣に接近した。ぶどうの列に沿って前進した最初の大隊はフランス軍のいる場所にほぼ到達したところで強烈な一斉射撃を受け散り散りになった。しかし、この脅威を避けた二番目の大隊は方陣に突入し、左右に打ち倒して剣で相手に切りかかった」
Castle "Austerlitz 1805" p74-75

「おそらく第4連隊の経験[砲撃で損害を蒙ったこと]に学ぶことを期待した僚友の第24軽歩兵連隊は、横隊を組んだ。しかしこの長く伸びた隊形は、今回は真っ直ぐ押し込んできた近衛騎兵の大群に晒され、蹂躙された」
Duffy "Austerlitz 1805" p136

「第24軽歩兵連隊の青い軍服を着た兵たちがぶどう園に入るや否や、残る近衛騎兵3個大隊が彼らに向かって解き放たれた。ロシア騎兵が凄い勢いで来たのに対しフランス軽歩兵は効果的な一斉射撃を浴びせたがロシア軍の突撃を止めるのには失敗した。銃弾の中をやって来た大きな馬に乗った白い軍服の騎兵たちは、すぐに3列横隊の青く薄い戦線を切り裂いた。フランス軍の士官と兵はまとめて数十人も倒された。戦闘に参加した第24軽歩兵連隊の士官60人のうち、クーン中佐と中隊長18人のうちの11人、その他の士官17人が負傷した」
Bowden "Napoleon and Austerlitz" p368

「この突撃は第4連隊と第24軽歩兵連隊を壊走させ、彼らはずっと退却を続けた」
Hourtoulle "Austerlitz: The Empire at its Zenith" p54


 スタレ=ヴィノフラディに司令部を移していたナポレオンは、歩兵の壊走を見て親衛騎兵を投入する。それに対抗してロシア軍も残った近衛騎兵を送り出し、ここに両軍近衛騎兵の衝突が生じた。

「ロシア軍は近衛コサック騎兵に支援されたLife Guards[おそらくChevalier Gardesの誤り]を突撃させた。未だ戦闘の結果が明らかになる前に、皇帝は事態を打開するためにラップを送り出した。解き放たれたナポレオンの副官[ラップ]は、予め隊列を組んでいたマムルーク騎兵の先頭に立って出発した」
Hourtoulle "Austerlitz: The Empire at its Zenith" p55

「混乱した白兵戦が続き、双方ともぶどう園の中で大きな損害を蒙った。しかしそこでコンスタンティンが残る騎兵――Chevalier Gardes(ロシアで最も高貴な一族からのみ集められた)と近衛コサック騎兵――を送り出した」
Chandler "Austerlitz 1805" p73

「このような混乱は彼の好むところではなかったため、ナポレオンは皇帝副官の一人であるジャン・ラップ准将の方を向いて、『将軍、あの混乱を治めてこい』と言った」
Bowden "Napoleon and Austerlitz" p372

「ナポレオンの副官の一人であるラップ将軍に指揮され、残る親衛猟騎兵2個大隊と親衛マムルーク騎兵半個大隊は渦巻く白兵戦の中へ切り込んだが、彼らの勢いは人と馬の数の多さによって衰えた。ナポレオンは親衛擲弾騎兵の最後の大隊に殺し合いに加わるよう命じ、彼らがそうするとコンスタンティンは以前第4歩兵連隊に対する突撃を成功させた近衛騎兵2個大隊を送った」
Castle "Austerlitz 1805" p76

「ロシア近衛歩兵は味方の騎兵にあたるのを恐れて射撃をすることができず、激しい白兵戦の中で遂に騎兵はリッタヴァ峡谷へと押されていった。特にChevalier Gardeの敗北は恐ろしいものだった」
Duffy "Austerlitz 1805" p138


 かくしてロシア近衛騎兵は敗北し、近衛隊はクルツェノヴィッツ[地図のKrzenowitz]を経由してラウスニッツ川の背後へと退却していった。
 以上が通説で紹介されるロシア近衛隊の戦闘だが、こうした一連の戦闘が行われた場所についても研究者によって微妙な差がある。Hourtoulleの著作では戦闘中のロシア軍の位置について、朝方ロシア近衛隊が位置していたのとほぼ同じスタレ=ヴィノフラディの北東、ブラソヴィッツの南東としている(Hourtoulle "Austerlitz: The Empire at its Zenith" p53-54)。他にBowdenもHourtoulleとほぼ同じ場所にロシア近衛隊がいたと見ている(Bowden "Napoleon and Austerlitz" p367-369, 371, 375)
 それに対し、ロシア近衛隊のいた場所はむしろプラッツェン高地の東斜面、スタレ=ヴィノフラディとクルツェノヴィッツの間と見ているのがChandler(Chandler "Austerlitz 1805" p70-71)。Duffy(Duffy "Austerlitz 1805" p134)とCastle(Castle "Austerlitz 1805" p64-65)もほぼ同じだが、よりスタレ=ヴィノフラディに近い場所を地図で示している。
 とは言え、具体的な場所こそ違うものの、一連の戦闘がほぼ途切れることなく一定の地域で行われたという点では各研究者は一致している。まずロシア歩兵がヴァンダンムの歩兵を攻撃し、ほぼ同じ場所でロシア騎兵がヴァンダンムの歩兵を壊走させ、さらにまたほぼ同じ場所でフランスとロシアの近衛騎兵同士が衝突した。それが従来の通説だ。

 だが、最近になって異説が現れた。Robert Goetzの"1805: Austerlitz"がそれだ。Goetzはまず、最初のロシア近衛歩兵による攻撃について通説に異論を提示する。

「フランス歩兵(リヴォー)がブラツィオヴィッツ[ブラソヴィッツ]南方へ前進してきたのに伴い、午前11時半頃にコンスタンティンは前進してきた歩兵に対抗するため彼の部隊(歩兵6個大隊と騎兵10個大隊)を約750メートル西方へ前進させた」
Goetz "1805: Austerlitz" p190


 Goetzによればロシア近衛歩兵が最初に攻撃を仕掛けた相手は、ヴァンダンムの第4歩兵連隊ではなくベルナドット第1軍団のリヴォー師団ということになる。この点について彼は脚注で次のように指摘している。

「近衛隊のブラツィオヴィッツへの前進は、一般にはプラッツェン高地への前進と解釈されている。しかし、この近衛歩兵が第4歩兵連隊に突撃したという解釈は、フランス側のあらゆる記録や文書に第4歩兵連隊がロシア近衛歩兵の攻撃に晒されたことを示す証拠がないために支持できない。高地の部隊を支援するための西方への前進とそれに続くブラツィオヴィッツへ向けた東南への後退を示すロシア側の記録は、ビガレ[第4歩兵連隊少佐]の記録とエストラボーのLivre d'Or du 8e Régimentと調和している。ビガレの記録は近衛歩兵による第4歩兵連隊への攻撃を認めていないうえ、Livre d'Orは第8歩兵連隊[第1軍団リヴォー師団所属]がこの攻撃の目標になったことを示している。この前進はプレオブラジェンスキ、セミョノフスキ、そしてイズマイロフスキ連隊の5個近衛大隊(イズマイロフスキ連隊第1大隊は分遣されていた)と近衛猟兵隊及び近衛騎兵を含んでいた」
Goetz "1805: Austerlitz" p190


 攻撃のタイミングについても、通説がラウスニッツへの後退を始めた後としているのに対しGoetzはその前と異なる解釈していることが分かる。そして、この前進の後でロシア近衛隊は東南方向へと後退を始めた。最初の戦闘が行われたのはブラソヴィッツ周辺。そして次の戦闘は、通説の言うような最初の戦闘と「ほぼ同じ場所」ではなく、異なる場所で展開される。

「ビガレ少佐と第4歩兵連隊はスタレ=ヴィノフラディ東方でクレノヴィッツ[クルツェノヴィッツ]の方角を向いており、第24軽歩兵連隊はその少し南方でツビショフ[地図のZbeischow]の方を向いていた。高所にいたフランス軍部隊は高地へ向かうロシア近衛隊の動きをすぐに知ることができず、彼らは最初にスタレ=ヴィノフラディの頂にいたナポレオンの幕僚によって発見されたように思われる」
Goetz "1805: Austerlitz" p220


 東南方向へ移動する正体不明の部隊を見つけたフランス軍は、近くにいた第4連隊にその正体を確認するべく前進を命じる。さらに接近するのが敵であると気づいたフランス側は第24軽歩兵連隊も投入。だが、既にその他のヴァンダンムの部隊は連合軍左翼を包囲するべく南方へ向かっていたため、ロシア近衛隊に対応できる手近な部隊はこれだけだった。

「第4歩兵連隊第1大隊は前進してロシア軍部隊の西方に布陣した。孤立したフランス軍大隊を見たコンスタンティンは部隊後方にいたヤンコヴィッチ少将と近衛騎兵5個大隊に攻撃を命じた」
Goetz "1805: Austerlitz" p221


 ロシア騎兵の攻撃で第4及び第24軽歩兵連隊は壊走。これに対応してベシエールは親衛猟騎兵、マムルーク騎兵などを送り出す。この一連の戦闘が行われたのはプラッツェン高地東側斜面、スタレ=ヴィノフラディとクルツェノヴィッツの中間付近(Goetz "1805: Austerlitz" p222, 225)だが、通説で言われているようにロシア軍がスタレ=ヴィノフラディ奪回を目指した結果、生じた戦闘ではない。後退中のロシア近衛隊がヴァンダンム師団の一部とたまたま接触して行われた戦闘だった。
 フランス親衛騎兵の攻撃に悩まされながらロシア軍はラウスニッツ川の背後へ後退するべくクルツェノヴィッツへ向かう。一方、ロシア近衛隊のうち遅れて戦場に向かっていたマリウティン中将の第2近衛縦隊がちょうどこのタイミングでクルツェノヴィッツへ到着。「マリウティンは即座に彼の騎兵に対し、対岸に残っている部隊の退却を助けるよう命じた」(Goetz "1805: Austerlitz" p230)。

「続くロシアCavalier Guard[Chevalier Garde]とフランス帝国親衛騎兵の衝突は伝説的なものとなった。その重要性は過剰に持ち上げられたうえに場所もプラッツェン高地の鍵となるスタレ=ヴィノフラディにまで移され、アウステルリッツの戦いのクライマックスに仕立て上げられた。これは確かにメロドラマの思い出深い一こまを創出しているが、実際には衝突が帝国司令部のあるスタレ=ヴィノフラディ付近で起きたことを示すものはなく、むしろそれは遠くクレノヴィッツ付近の高地東端で生じた。さらに、突撃は高地を奪回するためロシア側が試みた最後の絶望的な攻撃を構成するものではなく、むしろロシア近衛歩兵と砲兵がクレノヴィッツへと降りラウスニッツ川を渡って退路を確保できるだけの時間を稼ぐために、フランス騎兵及び散兵と交戦することを意図していた」
Goetz "1805: Austerlitz" p230


 トルストイが華々しく描き出したロシア近衛騎兵の突撃は、実は味方の退却を助けるための後衛戦闘の一種に過ぎなかった。それがGoetzの主張だ。場所もGoetzが言うようにクルツェノヴィッツ付近(Goetz "1805: Austerlitz" p231)。会戦の鍵となったスタレ=ヴィノフラディではない。両軍の近衛騎兵同士がぶつかったという点は目立つものの、それを除けばこの衝突は会戦のクライマックスでも何でもなかった、ということになる。
 ロシア近衛隊の一連の戦闘も、通説のように相次いで行われたものではない。近衛歩兵のリヴォー師団への攻撃は午前11時半、近衛騎兵がヴァンダンムの歩兵を壊走させたのは午後1時、そしてChevalier Gardeの突撃は午後2時。Goetzによれば時間を経て、場所も変えながら五月雨式に行われたいくつかの戦闘が、なぜか通説では一つにまとめられてしまっているのだ。

 Goetzの主張がどこまで正しいのかは、彼が活用したロシア側やオーストリア側の一次史料を確認する必要があるだろう。ただ、Goetzと同様、2005年に新しいアウステルリッツ本を出したCastleは、以前の本とは異なりGoetzと歩調を合わせた文章を載せている。

「しかし、今やオーストリア騎兵が後退したため、ベルナドットは彼の軍団を注意深く前進させた。リヴォーは高地と左前方にあるブラソヴィッツの間をゆっくり前に進み、一方ドルーエはヴァンダンムを支援するため高地の低い斜面に向かった。
 この前方への移動に気づいたコンスタンティンは近衛隊を止めてこの新たな脅威に対峙するため彼らと向き合った。彼の背後ではラウスニッツ川を渡る唯一の橋が極めて危険なボトルネックとなっていた。渡河の時間を稼ぐため、コンスタンティンは彼らの前進を止めるのを試みるべく進撃するフランス軍に一撃を加えることを決意した」
Castle "Austerlitz: Napoleon and the Eagles of Europe" p184

「しかし今やラップの部隊は混乱し、コンスタンティンは機会を捕らえて敵の攻撃を撃ち破り苦戦している彼の歩兵を解放するためロシアChevalier Gardeの先導3個大隊を送り出した」
Castle "Austerlitz: Napoleon and the Eagles of Europe" p186


 2002年出版の"Austerlitz 1805"でヴァンダンムの歩兵に対してロシア近衛歩兵が攻撃したと記していたCastleは、この本ではベルナドット軍団の動きに対応して「一撃を加えることを決意した」としている。また、Chevalier Gardeの突撃も「歩兵を解放するため」としている。いずれも基本的にGoetzと同じ主張である。

――大陸軍 その虚像と実像――