1805年12月2日
アウステルリッツ





勝利の戦場


「『思うつぼだ』
 ナポレオンは会心の笑みをもらし、望遠鏡から目を離すと、かたわらに控えるスールトに向かって尋ねた。
『君の部隊があの高地を登るのに、どのくらいの時間が必要かね?』
『20分です。陛下』
『よし、あと15分、待つことにしよう』」
森谷利雄「大陸軍その光と影 その8」(タクテクス第9号)p86


 三帝会戦ことアウステルリッツの戦いは、ナポレオンの栄光の頂点を飾る戦いとして知られている。アウステルリッツの太陽(soleil d'Austerlitz)は偉大な勝利を祝すかのようにナポレオンとその大陸軍の頭上に輝いており、(セギュール伯によると)ボロディノの戦いの前にもナポレオンは太陽を見て「アウステルリッツの太陽だ」(Paul Britten Austin "1812: The March on Moscow" p271)と言ったほどだ。
 1805年、イギリスと海峡を挟んで睨みあっていたフランスの背後で、オーストリアとロシアがフランスに対して宣戦布告した。第3次対仏大同盟の成立である。英仏海峡を越えてイギリス侵攻を計画していたナポレオンは、海軍の失敗もあってこの案を諦め、海峡沿いに集結していた軍を内陸へ向けて前進させた。大陸軍(La Grande Armée)と名を変えたこの軍隊は同年10月にバイエルンのウルムでオーストリア軍を破り、ウィーンへ入城した。
 オーストリア軍の残存部隊とクトゥーゾフ率いるロシア軍前衛部隊はモラヴィアのオルミューツへ後退し、この地でロシア軍増援部隊と合流する。これに対しナポレオンは手元にある部隊を率いてブリュンまで前進したが、進撃の過程で広く分散した大陸軍の兵力は連合軍を大きく下回っていた。ナポレオンは急遽他の部隊を呼び寄せると同時に、ハンガリーから北上してくるカール大公のオーストリア軍や参戦準備を整えているプロイセン軍が介入する前に決着をつけるべく動いた。ナポレオンから休戦の申し出を受けた連合軍は勝利を確信し、ブリュンへ向けて前進する。12月2日、ナポレオンの戴冠式一周年の当日、両軍は霧のたちこめるモラヴィアの地で一大会戦を交えた。

 ナポレオンは戦闘の前に、ブリュン東方にあるプラッツェン高地を敢えて放棄する策に出た。戦闘においては高地を占めた方が有利だという常識を無視するような行動を取ったのだ。連合軍はここぞとばかりにこの高地を占領。フランス軍は逃げ腰になっていると判断し、積極的な攻勢作戦に打って出た。特に連合軍が注目したのは、少ない兵力しかいないフランス軍右翼側だった。作戦を立案したのは、オーストリアの将軍ヴァイローテル。彼の作戦については基本的にどの書物も同じ物として紹介している。ここではChandlerの「戦役」から引用する。

「ヴァイローテルの計画はフランス軍の右翼を迂回することを意図したもので、まとまった兵力をもってテルニッツ村とゾコルニッツ村の間でゴールドバッハ川を渡り、そこから北へ旋回してブリュンへと退却するフランス軍を包囲する狙いだった。(中略)同時にナポレオンの左翼に対し、オルミューツ=ブリュン道路に沿って二次的な攻撃を行い、南方で重要な移動が行われている間その地域にいるフランス軍をひきつけることになっていた」
Chandler "Campaigns" p417


 だが、連合軍の意図は実はナポレオンに読まれていた、というのが通説だ。ナポレオンはロシア軍とオーストリア軍の大半が続々とプラッツェン高地から南方(フランス軍の右翼側)へ移動するのを確認しており、ヴァイローテルの作戦の基本的な考えを見通していた。いや、実はナポレオンは敢えて右翼側を弱いままに放置しておいたのだ。連合軍はこの餌に見事に食いついてきた。あとは罠の口を閉じるだけだ。そのためにナポレオンはどのような計画を立てたのか。Chandlerらに代表される一般的な見方から説明しよう。まず「戦役」だ。

「最右翼にいるスールト軍団所属のルグラン師団は、第3軍団が支援に現れるまで、予想されるオーストリア軍主力の攻撃を何としても支える。反対の左翼側にいるランヌはその右隣に位置するミュラの予備騎兵と伴にザントンとその周辺の防衛を担う。(中略)フランス軍の主攻撃はスールト軍団の2個師団によって実行される。朝の7時半にはヴァンダンムとサン=ティレールの兵たちが側面へ動くかのようにゴールドバッハの対岸に陣を敷いたが、合図があり次第プラッツェン高地を襲撃し連合軍の中央を打ち破るのが彼らの任務だった」
Chandler "Campaigns" p421


 同じChandlerは"Austerlitz 1805"の中でも以下のように説明している。

「ルグラン(1万2000人に増援されることになっていた)はダヴーの兵6600人と伴に右翼を保持する。(中略)ランヌは彼の第5軍団が持つ兵力1万2700人と砲20門をもって、彼の右側面を守るミュラの強力な5600騎の予備騎兵と伴にザントンとその周辺を如何なるものからも保持する。(中略)その間、スールトの残る2個師団――ヴァンダンムとサン=ティレール麾下(約1万6000人と砲16門)――は霧に隠れて午前7時半にゴールドバッハの東岸に布陣し、ひとたび皇帝の合図があればプントヴィッツからプラッツェン高地を襲撃して敵の中央を占拠するよう準備を整えた」
Chandler "Austerlitz 1805" p49


 右翼はルグランとダヴーが、左翼のザントン付近はランヌとミュラが固めて敵の攻撃を受け止め、中央からヴァンダンムとサン=ティレールがプラッツェン高地を奪って敵の中央を突破する。これがChandlerの説明だ。ヴァイローテルはフランス軍の右翼にまとまった兵力を送る一方でその左翼にも二次的な攻撃をしかけるという作戦を立てたが、中央については全く無頓着だった。ナポレオンの計画はヴァイローテルの作戦が持つその弱点を突いて勝利を得ようとするものだ、というのがChandlerの見方であろう。
 Esposito & Eltingの「アトラス」にも基本的には同じ考えが載っている。

「スールトはルグラン師団をコベルニッツとテルニッツの間に配置する。(中略)スールトは残る2個師団[ヴァンダンムとサン=ティレール]をもってプラッツェンへ進撃し、ベルナドットがそれを支援する。ランヌ(ウディノ師団を除く)はブリュン=オルミューツ道路に沿って二次的な攻撃を行う」
Esposito & Elting "Atlas" map55


 ランヌが防御に止まらず、ブリュン=オルミューツ道路に沿って(東方へ)二次的な攻撃をするという点がChandlerと異なっているが、右翼と左翼で敵を引きつけておいてその間に中央を突破するという基本線に変わりはない。この戦いにおけるランヌは脇役であるとの認識は、ランヌの伝記を書いたMargaret Scott Chrisawnも共有している。

「ランヌに与えられた指示は、ブリュン=オルミューツ道路を保持してバグラチオン[連合軍右翼の指揮官]がオーストリア=ロシア連合軍の中央部を増援するため南下するのを妨げるというものであった」
Chrisawn "The Emperor's Friend" p120


 日本語で紹介されている文献でも基本的には同じ見解が記されていると見ていいだろう。例えばアド・テクノスのゲーム「アウステルリッツの戦い」のヒストリカルノートには以下のようにある。

「コベルニッツ村の後方で待機する予定だったダヴーの軍団は、ゾコルニッツ村一帯の守備を命ぜられた。つまり、連合軍の主攻を一手に引き受けることになったのだ。スールトの軍団主軸は、手薄になったプラッツェン高地を、ベルナドットの支援下のもとに攻撃する。ランヌの軍団は、ブリューン・オルミューツ街道に沿って副次的な攻勢に出る」
アド・テクノス「アウステルリッツの戦い ヒストリカルノート」p15


 こうした見方に対し、少し異なる主張をしているのがScott Bowdenである。

「スールトはルグランの歩兵師団と第4軍団の軽騎兵でもってダヴーが到着するまでゴールドバッハ川の中下流域を保持する。(中略)第4軍団所属の残る2個歩兵師団(サン=ティレールとヴァンダンム)はボゼニッツ川西方の霧が濃い低地に配置され、そこから素早くプラッツェン高地へ前進し敵の部隊に反撃を加えてこれを圧倒できるように攻撃隊形を取った。(中略)ランヌは敵の全部隊が戦闘に加わるのを待ち、それから決定的な攻撃を加えてブリュン=オルミューツ道路を一掃し、敵軍をその拠点であるオルミューツから遮断する」
Bowden "Napoleon and Austerlitz" p321-322


 ここではランヌがより積極的な役割を担っているかのように説明されている。もちろん、重要なプラッツェン高地への攻撃は中央のサン=ティレールとヴァンダンムが行うのだが、ランヌの攻撃も敵をオルミューツから遮断する効果を期待されている。ただ、ランヌの攻撃はオルミューツ、つまり東方を向いており、その点は「二次的な攻撃」という説を唱えているEsposito & Eltingと変わらない。要するにBowdenも、最も重要なプラッツェン高地への攻撃はサン=ティレールとヴァンダンムが担っていたという点は他の著者と同じなのだ。

 連合軍が南へ移動を続けた結果がら空きになったプラッツェン高地へフランス軍が前進するシーンは、アウステルリッツの戦いの中でも最も華々しいシーンだろう。低地に立ちこめた霧の中から隊形を組んだヴァンダンムとサン=ティレールの2個師団が姿を現す場面については、佐藤亜紀氏が小説「1809年」の中でも描写している。ナポレオンが仕掛けた罠が見事に発動した瞬間だろう。
 しかし、実はナポレオンの罠は不十分にしか作動しなかったという説を唱える人もいる。Christopher Duffyがそうだ。彼の"Austerlitz 1805"によると、ナポレオンの計画は実際に戦いが始まる前に何度か修正が行われたという。最初の計画は会戦前日の1日に立てられたもので、連合軍がフランス軍の中央に攻撃を仕掛けてくるものと想定したうえで、ダヴーが南方から、ナポレオンの主力が北方から挟み込むように機動することを考えていた。しかし、1日の日没頃になると連合軍が一段と南下していることが明らかになり、ダヴーによる南方からの機動はほぼ不可能であることが判明した。そこでナポレオンは午後8時頃には第二案を立てた。

「連合軍の部隊がプラッツェン高地から下りるや否や、フランス軍はプロイセン軍のように、右翼が先行する斜線陣形を組んで攻撃を始める。フランス軍は連合軍が放棄した場所を進撃することになるとナポレオンは予想していた。(中略)第二案によると、スールトの第4軍団はプントヴィッツとギルジコヴィッツの間の谷を素早く静かに通過し、今や敵のいなくなったプラッツェン高地をできるだけ多く占領することになっていた。軍の残りは左翼にかけて下がる斜線陣形を構成する。スールトの次に続くのは騎兵集団で、スールトとランヌの両軍団の間でできるだけ占める場所を少なくするため縦隊を組む。ウディノの擲弾兵とベルナドットの第1軍団はランヌのすぐ後方から前進するよう命じられ、親衛隊はナポレオンが司令部を置いたツーラン高地の近くにいて支援に当たることになっていた」
Duffy "Austerlitz 1805" p88-89


 ナポレオンの計画は、プラッツェン高地から南方へ向かって自らの右翼側を晒しながら前進する連合軍に対し、横合いからほぼ全軍でもって襲い掛かるものだった、というのがDuffyの説明だ。旋回の軸となるフランス軍右翼のスールトが、まず小規模な旋回運動を行ってプラッツェン高地を確保する。ミュラの予備騎兵がさらにその左翼側で旋回運動を行い、その左ではランヌの軍団が最も外側を通る大きな迂回行動を実行する。全軍が時計回りに旋回し、連合軍を横から叩くのがこの第二案だったという。
 全軍が時計回りに機動するという計画は、面白いことに連合軍のヴァイローテルの案と基本的には同じである。連合軍と大陸軍は互いに点対称となる行動を予定していたことになる。
 ただし、第二案は最終計画ではなかった。戦闘が始まる直前の2日早朝、ナポレオンは連合軍の動きを見たうえで第二案を少し修正した第三案をまとめた。基本的には第二案と同じもので、連合軍の動向にあわせて全軍を少し南にシフトしたものである。「連合軍は戦場の南部に部隊を集結しているため、ランヌとスールトは事実上無防備な土地を一掃できると思われていた」(Duffy "Austerlitz 1805" p92)。大規模旋回運動により左翼側から連合軍を迂回―包囲する。これがナポレオンの計画だったとDuffyは主張している。
 他の著者たちとの大きな違いは、ランヌの位置付けにある。Chandlerらがランヌの役割を左翼を守ることにあったと説明しているのに対し、Duffyはランヌもまた旋回運動、つまり連合軍に対する主要攻撃に参加するはずだったと述べているのだ。Duffyの見方が正しければ、ランヌの役割は二次的なものではない。むしろ彼の軍団こそが連合軍に対する最も決定的な一撃を与える任務を担っていたとすら言える。
 しかし、ナポレオンのこの計画は想定外の事態によって破綻した。ヴァイローテルが慎重にも主攻軸から外しておいたバグラチオンの部隊が、皇帝の作戦を大きく変更させる要因になったのだ。

「配置計画のコピーを受け取った後で、彼[バグラチオン]は彼に与えられた受動的な役割に対して反対した。『なぜ私は何もせずに待機し、敵がその左翼から右翼に対して増援を送るのを見ていなければならないのか、理解に苦しむ』。戦闘の中で彼が[ランヌの]第5軍団による一撃を阻止する場所にいて、そこで決定的な役割を果たすことになるのを、バグラチオンは知るよしもなかった」
Duffy "Austerlitz 1805" p98


 バグラチオンが率いた連合軍右翼部隊が、大旋回を行う筈だったランヌ軍団の前方に立ちはだかった。ランヌ軍団の前進は止められ、その「一撃」は空振りすることになった。残されたのはより小規模な旋回運動を予定していたスールトの第4軍団だけ。「より幅広い旋回運動の一要素として計画されたに過ぎない第4軍団のプラッツェンへの前進が、結果的に勝利の主な手段になった」(Duffy "Austerlitz 1805" p165)のだ。

 Chandlerらの通説が正しいのか、それともDuffyの方が現実に近かったのか、判断は難しい。通説を唱える著者たちはどのような一次史料を根拠に記しているのかについて説明していない。Duffyの方は「ナポレオンの戦闘計画が、戦場の最北翼[つまりフランス軍左翼]においてほとんど無抵抗で前進することを必要していた」(Duffy "Austerlitz 1805" p131)のを明らかにした人物としてMichel de Lombarèsの名をあげているのだが、彼が何を根拠としてこの説を唱えたかまでは説明していないのだ。どちらがより妥当なのかを判断するには材料不足といえる。
 ただ個人的には、通説のナポレオンがほとんど神の如き智謀の持ち主となっていることに違和感を禁じえない。彼は確かに天才だっただろうが、決して人間を超えた存在ではあるまい。左翼側の前進をバグラチオンによって妨害されることまで事前に完璧に読みきっていたとしたら、それはもう人間業とは思えない。むしろDuffyの描き出したように、予定通りにはいかなくても勝利を掴めるだけの計画を立てて実行したと考える方が納得できる気がする。
 クラウゼヴィッツの言う通り、戦争に予想外の事態はつきものだ。「現実の戦争と机上の戦争とを区別する」最も重要なものが、この予想外の事態というヤツだろう。そして、ナポレオンは机上の戦術家ではなく現実の戦場で戦ってきた将軍だったのだ。事前の計画が破綻してもなお勝利を掴んだという事実にこそ、ナポレオンの面目躍如たるものがあると考える。



 蛇足:ザッチェン湖の氷

 アウステルリッツの戦いを巡る有名な「伝説」として、ザッチェン湖の話がある。フランス軍の手で追い詰められた連合軍が、戦場の南部にある氷の張ったザッチェン湖の上を渡って逃げ出そうとした。フランス軍は湖に砲撃を加えて氷を割り、その結果多くの連合軍兵士が溺れて死んだ、という話だ。長塚隆二の「ナポレオン」には以下のようにある。

「いちばん哀れをとどめたのは、最左翼のドーフトロフ部隊である。テルニッツ方面でダヴー軍団を相手に孤軍奮闘していたが、近衛部隊の猛砲撃を支えきれなくなった。
『背後の凍った池を渡って退却せよ!』
 ドーフトロフの命令で、ロシア兵たちはあつい氷の張った池面を渡りはじめた。ちょうど十四時にアウゲストの北の台地まで馬をすすめたナポレオンはドーフトロフ部隊の退却を見るなり、砲兵のところに伝令をはしらせた。
『ぐずぐずしちゃいかん! 敵兵の集団めがけて砲弾を撃ちこめ! 砲弾で氷を割れ』
 砲兵は砲撃を開始したが、砲弾が池面をすべって氷は割れない。やむなく空に向けて発射し、弾丸を垂直に落下させて氷を割った」
長塚「ナポレオン(下)」p205


 この話の元ネタとなったのは、ナポレオンが12月3日付で出させた大陸軍公報第30号であろう。

「包囲され高地から追い払われた敵部隊は、湖の近くにある平地にいた。皇帝陛下は20門の大砲を率いてそこへ行った。この部隊はあちこちと逃げ惑い、そしてアブキールで見られたような恐ろしい光景が現出した。2万の兵が水の中に入り、湖で溺れたのだ」
"30e Bulletin de la Grande Armée" Histoire du Consulat et de l'Empire


 この話をそのまま引用した本もある。例えば柘植久慶氏の「ナポレオンの戦場」がそうだ。

「ブックスヘウデンの部隊は、ダヴー軍と交戦しているうちに、背後からスルト軍の一部に攻撃された。二万の将兵が退路を凍結したテルニッツ湖に得たところ、ナポレオンの命令で砲兵隊が湖面を砲撃した。これによって氷が割れ、かなりのロシア軍将兵が溺死したと言われる」
柘植「ナポレオンの戦場」p121

(注:「テルニッツ湖」は「ザッチェン湖」の間違いと思われる)

 公報以外にもフランス側の目撃者で似たような話を残している者がいるのだが、その中身は色々と問題を抱えている。Bowdenの"Napoleon and Austerlitz"から幾つか引用しよう。まずルジューヌの証言だ。

「多くの兵が池の真ん中にたどり着いた時、その重みで氷がひび割れ始めた。彼らは足を止め、一方で背後から来る兵たちは前へ押し進んだためにすぐに動揺する滑りやすい氷の上に6000人が密集することになった。しばし動きが止まった後、たった数分の間にその集団全てが武器や物資とともに割れた氷の下に姿を消してしまった。逃げるどころか、水面に再び顔を出す者すら一人もいなかった」
Bowden "Napoleon and Austerlitz" p383


 さらにある親衛隊の兵士は以下のように述べている。

「この行動は極めて危険なものだった。氷の上を全力で逃げる1万2000人から1万5000人の兵全員が、突然水に落ち込む場面を想像してもらいたい!」
p383


 見ての通り、フランス側の目撃証言における被害数はバラバラ。氷が割れて溺死した兵士がどの程度いたのかは、実はよく分からないのだ。研究者の中にも話がかなり誇張されて伝わっている可能性を指摘する人が多い。その理由について、Chandlerは"Austerlitz 1805"の中で以下のように説明している。

「まず第一に、この時湖の近くにいた連合軍の兵士は5000人に過ぎなかった。次に、戦闘後に浅い湖から引き上げられたのは大砲38門と馬匹の死体130体しかなかったことが知られている」
Chandler "Austerlitz 1805" p82


 長塚氏も以下のように指摘している。

「『ザッチャン池から引き上げられたのはロシア兵の死体二体と、馬の死骸百三十三頭につづいて二十七頭の計百六十頭と、馬もろともどろのなかにめりこんだ砲二十八門、おそらく三十門および相当数の砲弾であった』
 と、この地方の判官の文書には記されているのである」
長塚「ナポレオン(下)」p205


 結局、Chandlerは「多くて2000人が死んだのだろう。しかし、中にはわずか200人しか溺死していないと見る信頼すべき研究者もいる」(Chandler "Austerlitz 1805" p82)という数字を挙げている。Ian Castleは次のように述べている。

「ロシア軍にとって幸運なことに水はさして深くなく、多くの者がよろめきながら対岸の安全地帯へと移動した。おそらく約200人が池で死亡し、彼らの死体は戦友とヴァンダンムの兵によって水から引き上げられた」
Castle "Austerlitz 1805" p82


 Duffyになるとさらに話は控えめだ。彼はオーストリア側の史料から次の文章を引用している。

「幸運なことに湖面は硬く凍りついており、多くの兵たちの重さが載っても割れることなく持ちこたえた。僅かに兵2人と何頭かの馬が氷の下に落ちた。彼らの死体は後になって池が干上がった際に発見された」
Duffy "Austerlitz 1805" p148


 オーストリア軍が渡ったのはザッチェン湖でなくメーニッツ湖だったため、この話とフランス軍側の目撃談とを同列に論じることは難しい。だが、フランス側でもコモー伯のように「多くのロシア兵は実際には湖の縁に集まっていたし、『たとえいくつかの小隊が水の中でもがいていたとしても、湖は彼らを溺れさせるほど深くはなかった』」(Duffy "Austerlitz 1805" p149)と証言している人もいる。
 凍りついた湖面の伝説は、実態をかなり大げさに伝えたものなのであろう。実際に湖で溺死した兵士たちがどの程度いたかとなると、明確な数字を知ることはかなり難しそうだ。

――大陸軍 その虚像と実像――