1815年6月16日午後
フラーヌ





リニーの戦い


 リニーとキャトル=ブラの戦いに関連する問題点の中で、これまでもっとも議論されてきたのはデルロン第1軍団の彷徨だろう。ネイが率いる左翼部隊に所属していた第1軍団はこの日の昼過ぎにキャトル=ブラへと前進を始めたが、途中で何らかの理由により方向転換。リニーの戦場近くに現れてヴァンダンムの第3軍団をひとしきり混乱に陥れた後で、再びキャトル=ブラへと引き返した。
 約2万人の兵力があちこちと彷徨った挙げ句、最終的にはどちらの戦場に参加することもなく終わった訳で、第1軍団が遊軍と化したためにリニーとキャトル=ブラの戦いはどちらも中途半端な結果となった。特にリニーにおいてプロイセン軍相手に決定的な勝利を収めそこねたことは問題視する向きが多く、「ある意味でデルロン将軍は、ワーテルロー戦役でのナポレオンの勝利を打ち消した点でグルーシー元帥とほぼ同じくらい決定的に重要な人物だと見なされるべき」(Andrew Roberts "Napoleon and Wellington" p154)との声もあるくらい。
 もっとも、責任がデルロン一人にある訳ではない。むしろ問題の焦点になっているのは、フランス軍全体の意思疎通の失敗と、それをもたらした幕僚たちの不手際にあるとの見方が一般的だろう。もし第1軍団を巡る無用な混乱がなければ16日時点でプロイセン軍は決定的なダメージを受け、もはや戦役に参加できなくなっていた。そうなると18日にウェリントンが足を止めてフランス軍相手に戦うこともなく、ブリュッセルは陥落していた。そう考える人も少なくない。

 ただ、デルロンの第1軍団による2度の方向転換についての詳細な内容になると、実は様々な見方が飛び交っているのが実情。たとえば、第1軍団が北方のキャトル=ブラへ向かうのをやめて東方のリニーへ向かうことになったのは誰の意図かという点についても、ナポレオンの命令だとの説と、ナポレオンの部下が皇帝の意を汲んで勝手に命令したものだとの見方がある。他にも色々な論点があるのだが、ここでは敢えて最も些細な問題を取り上げる。

「15時頃に行軍を開始した彼[デルロン]は、フラーヌの近くで(デルロンの主張によると)ナポレオンに合流するよう書かれた命令を持った幕僚将校(正体ははっきりと確定していない)に追いつかれた」
Esposito & Elting "Atlas" map160


 第1軍団の方向を転換させた張本人がこの将校である。彼はナポレオンの命令と称するものを持ってキャトル=ブラへと急ぐ第1軍団のところへ現れ、彼らをリニーの戦場へと向かわせた。だが、Esposito & Eltingが書いているようにこの将校の正体は今に至るまではっきりとしていない。ナポレオンの伝令と称していた彼は、一体誰だったのだろうか。Chandlerは次のように記している。

「この時、悪意ある宿命がこの場にナポレオンの副官であるラ=ベドワイエール将軍の到着を運命づけ、『戦場の霧』を一段と濃くした。このネイに対するナポレオンの口頭もしくは鉛筆で書かれた伝言を運んでいた熱心な士官は、デルロン軍団がリニーのある東方ではなくキャトル=ブラのある北方へと街道上を移動しているのを発見した。皇帝とグルーシーが直面している危機的な状況を知っており、デルロンの兵たちが迂回行動を始めるまでの時間の損失を避けようと望んだラ=ベドワイエールは、皇帝の名の下に先導師団を止め、彼らを新たな進路へと向かわせた」
Chandler "Campaign" p1051

「ここで起きたのは次のようなことだった。ナポレオンの鉛筆で書かれた伝言を運んでいたナポレオンの副官ラ=ベドワイエール将軍は、ネイ元帥を探す過程で第1軍団の傍を通りがかり、彼自身の権限で先導師団に対して東方に方角を変えるよう命じた」
Chandler "Waterloo: The Hundred Days" p97


 エルバ島から脱出したナポレオンがグルノーブルにたどり着いた時に第7連隊を率いてナポレオンの部隊に合流し、ワーテルロー戦役では皇帝の副官となっていたラ=ベドワイエールが、第1軍団の方向転換を命じた人物だとChandlerは指摘している。同じ見方を取る研究者は多い。

「ネイの司令部へ馬を駆っていたラ=ベドワイエールが、キャトル=ブラへ向かう街道を北上していたデルロンの部隊のところへやって来た。ネイに対するナポレオンの命令の内容を知っていた彼は、賢明にもその命令をデルロン軍団の先導師団指揮官であるピエール・デュリュット将軍に渡した」
Albert A. Nofi "The Waterloo Campaign" p87-88

「すこし前にデルロン軍団は[ナポレオンの]副官であるラ=ベドワイエール将軍にリニーへ向かうよう命じられていた。すぐにもキャトル=ブラへ到着するどころか、実際にはデルロンはすでにリニーへの道をかなり進んでおり、ネイに迫りつつある危機から彼は刻一刻と遠ざかっていた。時間を節約するため、ラ=ベドワイエールはネイと事前に相談することなく皇帝の名の下にリニーへ向かうよう部隊に命じた」
Geoffrey Wooten "Waterloo 1815" p37

「皇帝の将軍副官の一人である将軍ラ=ベドワイエール伯は、行軍縦隊がフラーヌに近づいたところでその先頭にたどり着いた。デルロンは第1軍団が到着する前に戦場を偵察すべく前方へ出かけていた。そして、軍団長が不在のまま、縦隊の先頭を通り過ぎる際にラ=ベドワイエールは第1軍団にすぐ東方へ向かうよう命じた」
Archibald Frank Becke "Napoleon and Waterloo" p82


 彼らだけではない。Charles Chesneyによると、19世紀のフランスの歴史家だったThiersやCharrasも、伝令については同じ味方を示しているという。

「[皇帝が第1軍団の方向転換を命じたという]説はThiers氏のもので、彼はデルロンの行軍は皇帝による深謀遠慮の結果であり、ラベドワイエールによって運ばれ後にネイにも示された特別の手紙によって命じられたものであると世界に信じさせるために多大な骨折りをした」
Chesney "Waterloo Lectures" p125

「Charrasはネイの息子によって出版された"Documents inédits"も使ってデルロン問題を詳細に調べ、その証拠に基づき、既に述べた3時15分のナポレオンの命令の本文もしくは写しを運んでいたある副官の行き過ぎた熱意によって軍団が方向転換したという事実を証明した。実際に行われた斜めの移動に関する新たな命令はネイの下には全く届いていない。デルロンがラベドワイエールの示した方角に従うべきかどうか疑ったことも、また右翼へ分遣隊を送り出す前にまずキャトル=ブラを落とす必要があることを命令書によって明らかに示されている[ネイ]元帥が憤慨して兵を呼び戻したことも、全く不思議ではない」
Chesney "Waterloo Lectures" p126


 だが、世の中にはラ=ベドワイエールではなく別の人物が第1軍団の進路を変えたと主張する向きもある。

「その間、キャトル=ブラで熱心に待たれていたデルロン伯の第1軍団は、ネイの知らない間に帝国司令部から来たフォルバン=ジャンソン大佐によってゴッサリーから北方への行軍途中につかまり、大佐はデルロンに対して彼の軍団をワグネレに方向転換するよう命じていた!」
Alan Schom "One Hundred Days" p269


 Schomの説はワーテルローの戦いに関する有名なフランス人研究家のHenry Houssayeが唱えたものをそのまま引き写したに過ぎない。

「彼[ナポレオン]はデルロン伯に直接、彼の軍団をプロイセン軍の右翼後方へ行軍させるよう命令を送った。この命令を彼に運ぶよう言われたフォルバン=ジャンソン大佐は、またネイにこの件について連絡するよう命じられた」
Houssaye "Napoleon and the Campaign of 1815" p93


 さらに別の名前もある。やはりワーテルローに関する研究で知られるWilliam Siborneが紹介しているのは、ラ=ベドワイエールでもフォルバン=ジャンソンでもない「第三の男」だ。

「デルロンがゴッサリー前面に予備として止め置かれているとの情報を得て、またおそらくこの状況からネイは手元にある兵力以外の支援なしでキャトル=ブラの陣地を持ちこたえるのに十分な強さを持っていると推論したナポレオンは、この軍団をプロイセン軍の右側面に投入することを決断した。しかしその間にネイからの命令に従ったデルロンはキャトル=ブラへの行軍を続けていた。前進を続けてフラーヌに到着したところで、ローラン大佐が彼を見つけ、彼の軍団をサン=タマンへ向けよとの皇帝の命令を伝えた。さらにこの縦隊の先頭のところへやって来た時に自分でその行軍方向をサン=タマンへ変えたことについても付け加えた」
Siborne "History of the Waterloo Campaign" p135


 研究者によってラ=ベドワイエールになったりフォルバン=ジャンソンになったり或いはローランになったりするのは、それぞれ一次史料が存在するためである。まずラ=ベドワイエールが第1軍団の進路を変えたという説だが、これは軍団長のデルロン自身が「命令を運んだのはラベドワイエール将軍だと言っている」(John Codman Ropes "The Campaign of Waterloo" p196)のが論拠だ。

「フラーヌの向こうで私[デルロン]は数人の親衛隊将軍と足をとめたが、そこで私はラ=ベドワイエール将軍と合流した。彼はネイ元帥に持っていくところであった鉛筆書きの文書を示した。それは私の軍団をリニーに振り向けるよう命じたものであった。ラ=ベドワイエール将軍は、既に私の縦隊の進軍方向を変えることでこの命令は実行済みだと伝え、私がどこに行けばその縦隊と合流できるか示した」
Andrew Uffindell "The Eagle's Last Triumph" p249

「この指示を届けた副官は、命令が皇帝自身から直接来たものであることをデルロンの師団長たちに納得させ、ただちに全軍団はヴィレール=ペルワンへ進路を変えた。伝令はついでフラーヌ近くにいたデルロン自身のところへ駆けつけ、彼に追いついたところで命令書を見せ彼の軍団はリニーへ移動していると知らせた。デルロン自身によると、伝言を伝えたのはナポレオンのお気に入りの副官の一人であるラベドワイエールだという。デルロンには皇帝の幕僚を見分けることができたであろう」
Graham J. Morris
Battlefield Anomalies

 デルロンは1829年にネイの息子に宛てた手紙の中でこのような主張をしている。ただ、1844年に出版した本の中では、単に「幕僚将校」とだけ記して人名は載せていない。
 一方のフォルバン=ジャンソンだが、こちらはナポレオン自身が言及している人物らしい。ナポレオンは16日午後3時15分の時点でネイに宛てて命令書を出しており、「Gourgaudのp57によると、この命令を運んだのはフォルバン=ジャンソン大佐だった」(Ropes "The Campaign of Waterloo" p195)。フォルバン=ジャンソンとは、ナポレオンがセント=ヘレナで述べたことをまとめたGaspard Gourgaudの"Campagne de dix-huit cent quinze"に出てくる名前なのだ。
 ただ奇妙なことに、Houssayeの文章を読む限り、ナポレオンがフォルバン=ジャンソン大佐を送り出したのはスールトがこの3時15分の命令を出した後としか思えない。Houssayeによると、命令を発した後になって「彼[ナポレオン]は、重要な結果が得られることを期待して、以前はネイに委ねていた機動を実行する責任を、デルロンに任せることを決断した」(Houssaye "Napoleon and the Campaign of 1815" p93)。Gourgaudの本が手元にないため正確なことは言えないが、どうも両者の発言は矛盾しているような気がする。

 そして最後のローラン大佐だが、これはネイの副官だったエイメ大佐の証言に基づく説である。

「ネイの副官だったエイメ大佐によると(Duc d'Elchingen "Documents inédits sur la campagne de 1815" p9-10)、ケレルマンの胸甲騎兵が壊走した時にローラン大佐が到着し、デルロンに対してサン=タマンへの主要街道へ進路を変えるよう彼が命じたとネイ元帥に話した」
Ropes "The Campaign of Waterloo" p195

「この時、帝国司令部の伝令であるローラン大佐が、デルロン将軍に伝えた皇帝の命令により第1軍団がブリュッセル街道を進むのではなくそれを渡ってサン=タマンの方角へ向かったと元帥に知らせた。すぐ後に第1軍団の参謀長だったエルカンブル将軍が現れ、その機動が実行されたことを告げた」
Pierre-Agathe Heymès "Relation de la Campagne de 1815"
ネイ元帥

 デルロン、ナポレオン、そしてエイメ。当事者3人の発言がそれぞれ異なり、その結果としてThierやCharras、Siborne、Houssayeといった後の研究者たちの意見が分かれることになったのが実態のようだ。そして、現在ではおそらくデルロンの発言に基づく「ラ=ベドワイエールが張本人」説がかなり一般に広まっている。ただ、Esposito & Eltingが述べているように、これをもって定説と言い切るほど話は簡単ではなさそうだ。

 Ropesが「こうした些細な矛盾について調和を図ろうとするのは無駄である。これは重要な問題ではない」(Ropes "The Campaign of Waterloo" p196)と指摘している通り、第1軍団の進路を変えた副官の名を探ること自体には何の意味もない。なぜ副官が進路を変えることができたのか、その背後にナポレオンの意思が存在したのか、そしてなぜネイは再び第1軍団の進路を元に戻すよう命じたのか。戦役の結果に及ぼす意味としては、そうした問題を追及することの方が大切だろう。
 ただ、この問題は一次史料の間に矛盾が存在するのは珍しくないという事実を知るうえで、いい具体例にもなる。歴史というのは実際には歴史書に書かれているほど簡単に再現できるものではない。多くの歴史家が様々な議論を繰り広げた末に、とりあえず蓋然性の高そうな仮説として提示されたもの。我々が触れる「歴史」の実態は、実はそんなものなのである。

・参考 帝国司令部から1815年6月16日午後3時15分にネイ元帥宛てに出された命令

"Monsieur le Maréchal, je vous ai écrit, il y a une heure, que l'empereur ferait attaquer l'ennemi à deux heures et demie dans la position qu'il a prise entre le village de Saint-Amand et de Bry: en ce moment l'engagement est très prononce; Sa Majesté me charge de vous dire que vous devez manoeuvrer sur-le-champ de manière à envelopper la droite de l'ennemi et tomber à bras raccourcis sur ses derrières; cette armée est perdue si vous agissez vigoureusement; le sort de la France est entre vos mains. Ainsi n'hésitez pas un instant pour faire le mouvement que l'empereur vous ordonne, et dirigez vous sur les hauteurs de Bry et de Saint-Amand, pour concourir à une victoire peut-être décisive. L'ennemi est pris en flagrant délit au moment où il cherche à se réunir aux Anglais."
Ropes "The Campaign of Waterloo" p384


――大陸軍 その虚像と実像――