革命初期―志願制度



 革命当初、政権が頼りにしたのは革命を熱狂的に支持する志願兵たちだった。常備軍、特に貴族中心に成り立つその士官たちが革命に反対する傾向が強かっただけに、第三身分である平民たちで構成する志願兵が革命を進めるうえで必要とされた。

 1791年7月3日、議会は国民志願兵を組織するとの布告を出した。志願兵の数は7月22日に9万7000人、8月には10万1000人に達したという。このうち2万5000人は海軍に充当され、残りの兵で169個の大隊を作る予定だった。だが、実際にはなかなか志願兵が集まらず、年末までに作られた大隊は僅か83にとどまった。

 1792年4月にフランス革命戦争が始まったときにはさらに45個大隊を作るだけの志願兵が募集されたほか、フランス東部ではフリー=コープスという非正規兵部隊を作る動きもあった。だが、実際にはなかなか志願兵は集まらず、集まった者たちも質は高くなかった。Ramsay Weston Phippsは、この時の「志願兵」は現実には徴兵に近いものだったと指摘している。4月に行われたベルギー侵入の際に、オーストリア軍の抵抗に出会った兵たちはまともに戦うことすらなく逃げ出し、その後で「指揮官の裏切りが敗因だ」としてディロン将軍を虐殺した。

 だが、初期の攻勢が失敗に終わり、連合軍の逆襲がフランス領内に迫ることがはっきりしてきた7月になると状況は変わった。7月11日に出た「祖国は危機にあり」の布告は次のように述べている。

「多数の軍勢が、わが国の国境へ進んできている。自由を憎んでいる者どもがすべて、われらの憲法に対して武器を取っている。
 市民諸君、祖国は危機にあり。現在もっているもっとも貴重なものを守るために、最初に進軍する名誉を担う人々こそフランス人であり自由であることが永久に記憶されるように。そして、同僚市民は彼らの家庭の中の人身と所有の安全を維持するように。人民の行政官は注意深く警備にあたるように。すべての者は、真の力の属性たる冷静な勇気をもって、法律の合図を待って行動するように。そうすれば、祖国は救われるだろう」

 議会はさらに42個の志願兵大隊を募集するほか、さらに兵役従事年齢を18歳から16歳に引き下げた。実際にフランスが侵略されると、熱狂的な祖国防衛の動きが広がった。60万人の希望者が集まり、45万人が実際に武装を支給され軍に入った。ヴァルミーの戦いでは彼らがプロイセン軍の砲撃を受けながらも踏ん張り、侵略の動きを止めるのに成功した。

 だが、全般に言ってこの時期の志願兵中心の軍隊は決して質の高いものではなかった。軍隊の中心になっているのはあくまで高度な訓練を受けた旧常備軍であり、志願兵大隊は数こそ揃っても当てになることは少なかった。さらに、志願兵たちの多くは祖国の危機が去ったとたんに前線から故郷へと帰りだした。一時的な危機は革命の熱狂で跳ね返すことができたが、継続する危機に対応するにはこの方法は不十分だった。革命政権はより確実な戦力確保の手段を考えると同時に、兵士の能力向上を図ろうとした。志願でなく徴兵主体の軍隊。旧常備軍と国民軍の融合。1793年にはそれがテーマとなった。



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