ナポレオンによる元帥評





デルダフィールド著「ナポレオンの元帥たち」

 大陸軍人物録を主催するシェヘラザードさんがデルダフィールド著「ナポレオンの元帥たち」(ネット書店の在庫状況はこちらこちらを参照、電子書籍はこちらこちらで入手できる)を自費出版した。これを記念し、ナポレオンによる元帥評をまとめてみた。あくまでソースが確定できるものに絞って紹介している。



シャルル=ピエール=フランソワ・オージュロー

 デルダフィールド本がネタ元にしているマルボのおかげで「理想の上司」とされた彼だが、ナポレオンも彼が兵士たちから愛されていたことは認めている。

「オージュロー:とても個性的、勇敢、頑強、活力。戦争に慣れており、兵士に慕われており、仕事においては幸運」
"Correspondance de Napoléon Ier, Tome Premier" p549

「オージュローは手際がよく勇敢だった。彼は兵たちに愛されており、その仕事においては幸運だった」

"Derniers momens de Napoléon, Tome I." p278

 一方で皇帝は、晩年のオージュローが全盛期の精力を失っていたことも指摘している。

「オージュローはひねくれた性格の持ち主だった。常に十分に堪能していた勝利のために疲れて落胆しているように見えた。彼の人格、物腰、言葉遣いは自惚れているような雰囲気をまとっていたが、実際の彼はそれとは程遠い人物だった。彼はあらゆる所においてあらゆる手段で手に入れた名誉と富に十分満足していた」
"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Premier" p364

 そして、もっと厳しい批判の声もオージュローに対して投げかけられている。

「元帥はもはや兵士ではない。彼の若い頃の勇気と美徳は彼を群集から抜きん出た存在とした。しかし名誉と高位、そして富が彼を再び庶民の水準まで引き下げた。カスティリオーネの勝者は祖国にとって大切な名前を残せただろうに。しかしフランスはリヨンにおける背信の記憶と、彼のように行動するあらゆる者を、彼らが将来の貢献で過去の過ちを償わない限り、忌み嫌うであろう」
"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Septième" p207

 マルモンらに対して投げかけた「裏切り」(trahir)という言葉よりはマシかもしれないが、背信または脱走とも訳すべきdefectionという表現は、軍人に対して使うものとしてはかなりきつい。デルダフィールドはナポレオンが百日天下の時にオージュローを「許したかもしれない」と書いているが、実際には1815年4月10日付の陸軍大臣への手紙で彼を元帥リストから削除するよう命じている("Correspondance de Napoléon Ier, Tome XXVIII" p99)。晩年の彼の行為を、ナポレオンは腹に据えかねていたのかもしれない。



ジャン=バティスト=ジュール・ベルナドット

 デルダフィールドによればベルナドットは「悪党」で「偽善者」で「日和見主義者」で「裏切り者」ということになるが、彼が浴びせかけた批判のうち、いくつかはナポレオンが元ネタだろう。

「ベルナドットは、真の偉大さと堅実性ではなく、自己愛と敵意に基づいて行動している」
"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Cinquième" p309

「はっきり言うならベルナドットは私の胸中で育った蛇だ。彼は我々から離れるや否や我々の敵の体制にしがみつき、かくして我々は彼を監視し恐れることを余儀なくされた。後に彼は我々に災難をもたらす大きな原因となった。敵に我々の政治システムの鍵を与え、我が軍の戦術について知らせたのは彼だ。我らの聖なる祖国に踏み込む道を敵に示したのが彼なのだ! たとえ、スウェーデンの王位を受け入れた以上その時からスウェーデン人になったのだと言い訳したとしても無駄である。野心的な俗物たちにしか通用しない惨めな言い訳だ。妻を娶ったからといって、人はその母を捨てる訳ではないし、ましてその胸を突き刺し内臓を引き裂く運命になる訳がない」

"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Cinquième" p203

 ところが、デルダフィールドの言った「裏切り者」(traitor)については、ナポレオンはこれを正面から否定している。

「ベルナドットの偉大さを生み出したのは私だったにもかかわらず、彼は私に感謝の念を持たなかった。しかし彼が私を裏切ったということはできない。彼は言わばスウェーデン人になったのであり、その立場で行動するつもりはないと約束したことは決してない。私は彼を恩知らずとして責めることはできるが、裏切り者と非難することはできない」
"Napoleon in Exile, Vol. II." p364

 ベルナドットは恩に仇で報いたかもしれないが、マルモンのように味方を裏切って敵についた訳ではない、というのが陛下の言い分だろう。妙に冷静なコメントである。
 実はナポレオンによる元帥たちの評価の中には、このように突き放した冷静な(冷徹と言ってもいい)視点からなされたものが時々ある。ナポレオン自身と元帥との関係を、まるで第三者の立場から描写しているような発言が、たまに見受けられるのだ。軍人には、部下を死地へ引っ張る情熱と同時に、戦況を見定める冷静な観察力の両方が求められる。ナポレオンの中にはこの二種類の人格が存在し、それが交代しながら元帥評を行っているようにも思える。



ルイ=アレクサンドル・ベルティエ

 小説家は面白い物語を提供するのが仕事であり、彼らはそのための技術を持っている。たとえば「針小棒大」。昔から法螺話というのは人気のあるジャンルであり、その手法は近代の小説家たちにとっても必携のものと言えるだろう。広告なら「大げさ」というのは批判されるが、小説においては一種の褒め言葉である。もちろん、小説家兼脚本家であるデルダフィールドもこの手は知っており、ベルティエを描く際にこの技術を存分に活用していた。
 デルダフィールドによればベルティエは「参謀としては優秀だが実戦では一分隊すら指揮できない」ことになる。でも、この時代に分隊(squad)という概念はおそらくまだ存在していない。peloton(現代フランス語では分隊の上部組織である小隊の意味)という言葉はあったが、ナポレオン戦争時代のpelotonは現代の小隊とは使われ方が全然違う。実際、ナポレオンは似たようなことを言うのに以下のような表現を採用している。

「自然は何人かの男を絶えず従属的な立場にとどまらせる目的で作り上げる。ベルティエがそうだ。世界にこれほどよい参謀長はいない。しかし立場を変えると、彼は500人の部隊を指揮するのにもふさわしくない」
"Napoléon en exile, Tome I" p398-399

 ナポレオンの言う「500人の部隊」はこの時代ではほぼ大隊(bataillon)規模。戦場での最も基本的な戦闘単位である(昔の文献を見れば、各部隊がいくつの大隊から構成されているかを書いている事例が多数ある)。戦術が問われる最小の戦闘単位とも言うべきbataillonですら指揮できない、という表現は、当時の人にとっては分かりやすかっただろう。それをデルダフィールドは20世紀の感覚で大げさに「分隊」と表現したのである。
 (ちなみに軍事用語に詳しくない人のために言っておくと、現代の陸軍における分隊は10人前後の小部隊。小隊は30−50人規模となる)
 デルダフィールドによって前線指揮官としての無能ぶりを過剰に強調されてしまったベルティエだが、基本的にその評価はナポレオンが抱いていたものと同じである。ナポレオンは参謀業務におけるベルティエの優秀さを褒め称える一方、それ以外の分野ではどうしようもなかったと厳しいことを言っている。

「これ[昼夜問わず皇帝の命令を正確に送り出したこと]がベルティエの特殊な長所だ。それは私にとって最も有益なものだった。他のどんな才能であってもこれの欠如を埋め合わせることはできなかっただろう」
"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Premier" p439

「本当のことを言うとベルティエは才能がない訳ではないし、彼の長所や彼に対する私の偏愛を否定するつもりは全くない。しかし彼の才能や長所は特殊で専門的なものだ。限界を超えたところでは彼はどんな精神的強さも持ち合わせていなかったし、そして彼はとても優柔不断だった」

"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Premier" p438

 また、オージュローやベルナドットに対してすら使わなかった言葉も浴びせている。

「私はただのガチョウだったベルティエを鷲の一種に変えたが、その彼に裏切られた」
"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Second" p434

 もっとも、ナポレオンがどういう基準で「裏切り」(trahi)という言葉を使っているのかはよく分からない。フランス軍を率いて連合軍に投降したマルモンや、ナポリ軍を率いてウジェーヌに攻撃をしかけたミュラが「裏切り者」と呼ばれるのは分からないでもないのだが、ベルティエについてはどの行為が「裏切り」にあたるのだろう。
 いずれにせよ、ナポレオンの評価はデルダフィールドと基本線は同じ。でも、それはセント=ヘレナのナポレオンによる評価である。その時より20年前、若きボナパルト将軍による参謀長への評価は随分と異なるものだった。

「ベルティエ:才能、活力、勇気、個性。あらゆるものを持ち合わせている」
"Correspondance de Napoléon Ier, Tome Premier" p549

「中でも忘れてはならないのは大胆なベルティエで、この日の彼は砲兵でありかつ騎兵、擲弾兵でもありました」

"Correspondance de Napoléon Ier, Tome Premier" p261

 若き日のボナパルトにとって、参謀長はまるで後のマルモンとミュラとランヌを合わせたような活躍をする人物だった。なのに、晩年のナポレオンから見たベルティエは参謀業務しかできない専門バカになっている。なぜか。ナポレオンが「裏切り」に対する恨みから敢えて誹謗中傷しているとは思えない。ベルナドットに対してすらあれだけ客観的なことが言えた人物である。となると考えられるのは一つ。つまり、ベルティエ自身が若い頃と変わってしまったのではないだろうか。
 ナポレオンの参謀長としてのベルティエは、参謀業務だけに特化して仕事をこなした。本当は他の軍務をこなせるだけの能力があったのかもしれないが、彼に求められたのは参謀業務だけだったし彼もそれ以外の軍務に携わろうとしなかった。使われない能力は存在しないも同じだし、使わないうちに能力が鈍っていった可能性もある。結果、ベルティエは専門バカになってしまった。元から専門バカだったのではなく、環境に過剰に適応したためにそうなった。
 もしベルティエが1796年にアルプス方面軍の参謀長からイタリア方面軍に転属せず、ボナパルト将軍の麾下に入らなかったら、果たしてどうなっていただろうか。彼はヌシャテル公やヴァグラム公にはなれなかっただろう。一方でフランスは、参謀業務に通じながら同時に他の軍務についても高いレベルでこなすことができる優秀な将軍を一人手に入れていたかもしれない。



ジャン=バティスト・ベシエール

 デルダフィールドはベシエールを、忠誠心があって人格も優れていたが軍人としての評価には疑問符がつく人物として描き出している。一方、ナポレオンの評価はもう少し高い。まず忠誠心の部分だが、ナポレオンはベシエールを信頼できる人物だとしている。

「危機的状況が断固として信頼できる人物を求めていたため、私はベシエールを[アントワープへ]送った。しかし危機的な時期が終わるや否や、私はベシエールに代わる別の者を送った。というのも私は彼を近くに置いておきたかったからだ」
"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Septième" p71

 では軍事的能力はどうか。ナポレオンは彼を同じ騎兵指揮官であるミュラと比べ、対照的だったこの二人の元帥の特質をうまく説明している。

「彼[ベシエール]は砲火の中でも冷静で平穏な勇気の持ち主だった。彼はとても目が良かった。特に騎兵作戦には手馴れており、予備部隊の指揮に適していた。あらゆる大きな会戦で大いに貢献しているのが見られた。彼とミュラは軍内でトップの騎兵士官だったが、その特質は正反対だった。ミュラは前衛部隊向きの士官で、大胆かつ猛烈だった。ベシエールは予備部隊向きの士官で、活力に溢れていたが注意深く慎重だった」
"Mémoires pour servir à l'histoire de France sous Napoléon, Tome III." p204

「ベシエールは騎兵士官だったが、冷淡なところがあった。ミュラが過剰に持っていたものが、彼には欠落していた」

"Talk Of Napoleon At St. Helena" p236

 そして、以下のようなことも言っている。

「もしベシエールがワーテルローにいたら、我が親衛隊は勝利を決定づけていただろう」
"Talk Of Napoleon At St. Helena" p245

 もっともこの言明についてそのまま受け入れるのはあまりよくない。ワーテルローに関するナポレオンの発言は、あと少しで勝てる筈だったと主張するあまり、とても客観的とはいえないものが多い。現実問題として倍近い敵が待ち構えていた稜線に向かって前進する羽目に陥ったワーテルローの親衛隊に、勝利を獲得する可能性はほとんどなかったと言っていいだろう。もしベシエールが生きていたとしても、あの状況で勝てと言われたらとても困っていたのではなかろうか。
 全体として、早い時期に戦死した将軍たちに対するナポレオンの評価に甘いものが多いことはこちらでも指摘した。ベシエールに対するナポレオンの評価も、そうした点を勘案したうえで見るべきだろう。



ジローム=マリー=アン・ブリュヌ

 ブリュヌは元帥たちの中でもペリニョンに次ぐくらい知名度の低い人物だ。デルダフィールド本でも著名な元帥たちに比べれば登場頻度は少ない。幸い、ナポレオン漫画ではイタリア遠征時に登場の機会を与えてもらったので、以前よりは知られるようになっただろう。
 ブリュヌにとってほとんど唯一最大の軍功は1799年戦役でオランダに上陸した英露連合軍を撃退したことだろう。ベルゲンとカストリクムの戦いで連合軍の進軍を防いだのは、逆境にあった共和国にとって大いにプラスになった。でもデルダフィールド本ではたった3行で説明されているくらいなので、やはりマイナーであることは否定できない。
 ナポレオンはブリュヌをどう見ていたのだろうか。他人を評価するうえで一番頼りになるのは本人の残した実績だろう。そしてナポレオンもオランダでの勝利についてはブリュヌを高く評価している。

「ブリュヌは間違いなくバタヴィア共和国の救世主であることを示した。ローマ人なら彼のために勝利の名誉を宣言していただろう。オランダを救うことにより、彼はフランスを侵略から救った」
"Mémoires pour Servir à l'Histoire de France sous Napoléon, Tome Sixième" p169

 ただし、たった一つの実績だけで本人の能力の全てが分かる訳ではない。そのこともナポレオンはよく承知していた。ナポレオンによる最終的な判断は、むしろ以下の発言に現れている。

「この[1800年冬季]イタリア戦役はブリュヌの才能の限界を示し、第一執政はこれ以上彼に重要な指揮権を決して与えなかった。この将軍は最も輝かしい勇気と、旅団の先頭における偉大な決断力を示したものの、軍の指揮を執るようには作られていないように見えた」
"Mémoires pour Servir à l'Histoire de France sous Napoléon, Tome Deuxième" p82

 ナポレオンが元帥になった後のブリュヌを前線指揮官としてほとんど活用しなかったのは、彼がふさわしい能力を持ち合わせていないと判断したからだ。少なくともナポレオン本人はそう主張している。デルダフィールドはブリュヌがハンブルクで私服を肥やしたことが理由だと匂わせているが、どのような論拠に基づいているのかは不明。
 ただし、ナポレオンはブリュヌが金銭に汚い人物であったことにも言及している。

「マセナ、オージュロー、ブリュヌ、そして他の多くは単なる大胆な略奪者だった」
Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Troisième" p279

 一緒にマセナとオージュローの名前が挙がっているのはご愛嬌。



ルイ=ニコラ・ダヴー

 デルダフィールドの描くダヴーは、よく言えば厳格な規律主義者、実際には厳格というレベルをはるかに超え義務のためならいくらでも血も涙もない冷酷な人間になれる人物として描かれている。こうした認識は当時多くの人々が抱いていたようで、セント=ヘレナで英国人医師O'Mearaもダヴーに対して(おそらくハンブルクにおける彼の苛酷な支配を理由に)批判的な言及をしたことがある。それに対してナポレオンは以下のように答えた。

「私は彼[ダヴー]の行いが悪かったとは思わない。彼は自分自身のために略奪したことは決してない。彼は確かに分担金を徴収した。しかしそれは軍のためだった。軍にとって、特に包囲されている時は、自らを養うことが必要だ」
"Napoléon en exile, Tome II." p73

 一方、デルダフィールドによるダヴーの軍事的能力への評価はそれほど凄いものではない。「見事な戦略的才能を示し」たとか「有能で鳴る」などの表現はあるものの、元帥たちの中で随一といった表現は見当たらないのだ。この点はナポレオン自身の評価と一致している。

「フランスの第一級の将軍であるかどうかについては、彼[ダヴー]は決してそうではなかった。いい将軍ではあったが」
"Napoléon en exile, Tome II." p73

 平均よりは上だがトップクラスではない、という評価だろう。こう書くと、ではアウエルシュタットのあの勝利は評価されていないのかと問う人もいるかもしれない。それについてナポレオンは以下のように述べている。

「ダヴーはイエナによって歴史に名を残すだろう。彼はアイラウでもよくやったが、ヴァグラムではせきたてられたにもかかわらず到着が遅れ、敗北の原因になった(中略)。モスクワ[ボロディノ]でも間違いをやらかした」
"Cahiers de Sainte-Hélène: journal 1818-1819." p115

 ブリュヌの時と同様、ナポレオンは一つの実績だけでは判断しなかった。彼のダヴー評は、複数の戦いの結果を踏まえたものだと考えられる。ただしナポレオンは、上の発言をした少し前に次のようなことも話している。

「マセナはそこにいるべき本物の権利を持つ。彼はチューリヒで指揮を執っていた。オージュローは違う。私はマセナが多くのものを勝ち得たことに気づいている。私の将軍たちの中で最良の3人はダヴー、スールトとベシエールだ。彼らは間違いなく成功した」
"Cahiers de Sainte-Hélène: journal 1818-1819." p115

 皇帝がここで「最良の将軍」として名を上げているのはダヴー、スールト、ベシエールの3人だ。つまりダヴーはトップクラスの将軍だと言っていることになる。ただ、ネット上ではこの文章の極めて少ない部分しか読み取れていないため、どうも文脈が不明なところもある。直前にあるマセナへの言及が何を意味しているのか、そのあたりまできちんと理解しないと、この評価をどう位置づけるべきかのか判断は下せない。
 ただ、こうやって褒めた直後にナポレオンがダヴーのヴァグラムやボロディノでの行為をくさしているのも事実。一体どちらが本音なのか問い質したいところだ。どうもナポレオンの評価というのは話している途中でコロコロ変わるような、かなりいい加減な部分もあった可能性がある。あまり真剣に耳を傾けると却って拙いかもしれない。



ローラン・グーヴィオン=サン=シール

 マルボによれば兵士たちから「梟(hibou)」"Mémoires du général baron de Marbot, III" p126)と呼ばれていた彼もまた、元帥たちの中ではあまり知られていない人物の一人である。この謎めいた「個人主義者」(byデルダフィールド)には、一部に熱狂的なファンがいるようだ。Phippsもある意味そうだし、「彼は決して戦いに負けなかった」と主張しているもある。
 中でも有名なのが防御戦に優れているとの説。ナポレオン自身が以下のように述べたとも言われている。

「彼[サン=シール]は我々の中で防御戦の第一人者である。攻撃に関しては私の方が上だが」
"Vie du maréchal Gouvion Saint-Cyr" p380

 事実ならかなり高い評価ということになるのだが、この本の脚注を見ればこの発言の論拠が実に微妙なところにあることが分かる。この発言は著者のゲイ=ド=ヴェルノンがギゾーから聞いたものであり、ギゾーはダリュー伯から聞いたという。ナポレオン自身の発言が二人の人間を介して著者の下に届いていた訳であり、しかもギゾーがこの話を著者にしたのは1853年4月6日。ナポレオンの死から30年以上も経過している。
 ナポレオンがこういう発言を「しなかった」と証明するのは無理だろう。しかし、このような発言を「した」という論拠もそれほど強いものではない。むしろナポレオンがした発言としては、グールゴーの日記に残されていたものの方が事実である蓋然性が高いだろう。

「サン=シールを用いたのは失敗だった。彼は砲火の下に行こうとせず、兵の持ち場を訪れることもなく、戦友が敗北するに任せていた。彼はヴァンダンムを助けることができただろうに。私はロボー伯の要望で彼を私の軍で用いた。彼[ロボー]はいつも彼[サン=シール]のことを話していた。彼は麾下の兵たちには人気があった。というのも彼は滅多に彼らを戦わせなかったからだ。彼は兵を失わないため大いに注意を払った。ロボーは彼の麾下に置かれた大佐の一人だった。それ以降、彼は意見を変えている。個人的には彼の親友だったモローも、彼を軍から追い出すことを余儀なくされている。彼と一緒では何もできなかったからだ」
"Sainte-Hélène, Tome Second" p71-72

 サン=シールの軍事的才能より、彼の「個人主義」的な行動の方が問題だ。ナポレオンはそう言っているように思える。仲間のために使われることのない才能に意味はないと思っていたのか、一匹狼で言うことを聞かない部下に対する苛立ちから出た言葉なのか。いずれにせよ、ナポレオンがサン=シールに対して批判的であることは確かだ。



エマニュエル・ド=グルーシー

 セント=ヘレナにおけるナポレオンの発言のうちワーテルロー戦役に関するものはあまり信用できないことは既に述べた。他の場合は比較的冷静に話をしている陛下も、なぜかワーテルロー絡みになると自己弁護と嘆き節と「たられば」ばかりが目に付くようになり、しかも何度も同じことを繰り返し述べている。その影響をもろに受けたのがグルーシー。彼に対するナポレオンの発言は、結局ワーテルロー戦役に関する話ばかりになっている。

「私の右翼ではグルーシーの異常な機動が勝利を確実にする代わりに私の破滅を完成させ、フランスをどん底へ陥れた」
"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Septième" p277

「3万4000人の兵と108門の大砲を率いていたグルーシー元帥は、18日にモン=サン=ジャンかワーヴルのどちらかの戦場で戦わずに済むという、普通は見つけられないと想定される秘密を見つけ出した。元帥はこれほど奇妙なやり方で道に迷うことを自ら英国の将軍に誓約でもしたのだろうか? グルーシー元帥の行動は、彼の軍が行軍中に地震に飲み込まれることと同じくらい、予想不可能だった」
"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Sixième" p73-74

「もしグルーシーの愚かさがなければ、私はあの日勝利を得ていた筈だ」

"Napoléon en exile, Tome I." p388

 敗北の原因としてほぼ全面的に責任を押し付けられているグルーシーだが、ここでもナポレオンは最後の一瞬だけ冷静さを取り戻し、マルモンやベルティエに投げかけた「裏切り」(trahir)という言葉の使用だけは避けている。

「違う、[グルーシーは意図的に私を裏切ったのではない。]しかし彼が行動力に欠けていたのは事実だ」
"Napoléon en exile, Tome I." p388

 ナポレオンによる比較的冷静なグルーシー評が見られるのはグールゴーの日記の中だけである。

「私はグルーシーに与えた指揮権をスーシェに授けるべきだった。あの時は将軍としてのグルーシーが持っているよりも多くの活力と敏速さが必要だった。彼が素晴らしい騎兵突撃においてのみ優れていたのに対し、スーシェの方がより熱意を持ち私の戦争のやり方をよく知っていた」
"Talk of Napoleon at St. Helena" p186

 グルーシーの優れた点は騎兵突撃にあり、将軍としての活力と敏速さには欠けている。それがナポレオンによるグルーシー評だ。ただ、この評価も結局ワーテルロー絡みの話の中で言及されているもの。グルーシーと「ワーテルロー」という言葉は、ナポレオンの中で分かちがたく結びついてしまっている。



ジャン=バティスト・ジュールダン

 デルダフィールド本におけるジュールダンの扱いは結構酷い。彼の戦功については「革命戦争のまっただ中で外国の侵入を防いだ」との言及や「フルーリュスの勝者」という枕詞が見られる程度で、それ以外はスペインでの失敗しか描かれていない。デルダフィールド本を読んでも、彼が元行商人であることと、他の多くの元帥たち同様に半島でミスを犯したことしか分からないだろう。
 それだけではない。デルダフィールドはジュールダンをケレルマン、モンスイ、ルフェーブル、セリュリエらと並べて「老年組」と称しているが、これは明らかな間違い。彼はルフェーブルより7歳も若いし、何よりジュールダンよりもベルティエ、マセナ、オージュローらの方が年上だ。なぜデルダフィールドが比較的若いジュールダンを引退した年寄りと同じ範疇に放り込んでしまったのか。その理由はジュールダンの活躍が古い時期に限られていることにあると思われる。
 ジュールダンが各地でフランス軍主力部隊を率いていたのは1793年から99年にかけてのフランス革命戦争期。このことがデルダフィールドの勘違いを引き起こしたうえに、ジュールダンを知名度の低い元帥にしてしまった理由ともなっている。ナポレオンの元帥たちの知名度は、ナポレオンの下でどこまで活躍したかによって決まっているのだ。ナポレオンが皇帝になった後のナポレオン戦争期に活躍した者ほど目立つ一方、ナポレオンがまだ皇帝になる前のフランス革命戦争期に主役を張った将軍たちは後の時代からはほぼ無視されている。ジュールダンはまさに後者の代表例だ。
 もちろんジュールダン自身にも問題はある。デルダフィールドが描き出しているように、ジュールダンの軍人としての能力は決して高くない。セント=ヘレナのナポレオンも「ジュールダン元帥の軍事的才能については低い評価しかしていなかった」"Napoléon en exile, Tome II." p261)。人材不足だった革命戦争期には表舞台に出ていたものの、多くの人材が育った後になると彼らに出番を奪われてしまった。

 能力的にはともかく、彼が「心から革命の理想を信じていた」(デルダフィールド)のは確かなようだ。おそらく不器用だが一途な人物だったのだろう。ジュールダンについてほとんど言及することすらなかったナポレオンも、彼の人格については褒めている。

「彼[ジュールダン]が私からとても酷い扱いを受けたのは確かだ。従って彼が私に対して激しく憤っていると結論づけるのが普通だろう。しかし私の没落以降、彼が大いなる節度を持って振る舞っていると聞くのは喜ばしい。彼は精神の向上が人を際立たせ、その性格を称えさせるという実例を提供している。彼は真の愛国者であり、それが彼について多くのことを説明している」
"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Sixième" p420-421



フランソワ=クリストフ・ケレルマン

 ジュールダンの項で、フランス革命戦争期に活躍した将軍たちはナポレオン戦争期に目立った将軍たちに比べて知名度が低い、という話をした。が、物事には例外がつきものである。ナポレオン戦争期には実質引退状態。革命戦争期はまだ前線指揮官を務めていたが、大した活躍はしていない。それなのになぜが知名度だけは抜群の人物がいる。ケレルマンだ。
 ヴァルミーの丘でプロイセン軍の砲撃に晒された部下たちを鼓舞した。彼が歴史に名を残すためにやったことは、ほぼこれだけに尽きる。同じような、あるいはもっと厳しい局面で兵士たちを再編し戦いを続けさせた将軍は他にも大勢いただろう。そもそもケレルマンの部隊をヴァルミーの丘に配置させたのはデュムリエであり、勝利をお膳立てしたのもケレルマンではなく彼だ。そして、革命戦争期にヴァルミーよりも華々しく明確な勝利を獲得した将軍たちは他にも多数存在した。
 にもかかわらず、歴史に名を残すだけの高い知名度を得たのはケレルマンだった。いくつかの偶然が作用した結果である。デュムリエは後に連合軍へと寝返り、革命戦争の英雄になる機会を失った。他の将軍たちの実績はボナパルトの超人的活躍の陰に隠れてしまった。唯一、革命軍の最初の勝利であるヴァルミーだけは知名度を保ち、それをゲーテが後押しした。かくして歴史の教科書にヴァルミーの名が載るようになり、ケレルマンの名は実績を大きく上回る水準まで高められた。
 ケレルマンが独立した前線部隊を指揮したのは1792年から97年まで。ただし、実質的な期間はもっと短い。92年のヴァルミー戦役の時期はデュムリエの麾下にいたし、93年10月から95年3月までは元貴族という理由で指揮権を奪われていた。そして96年春にピエモンテが単独講和を結んだ後、ケレルマンが率いたアルプス方面軍はもはや前線部隊ではなくなっている。
 数少ない前線部隊の指揮において彼がやったのは、93年のリヨン包囲戦とサヴォイを巡るピエモンテ軍との戦闘、そして95年のイタリア戦線における連合軍との戦闘くらいである。このうち93年の戦闘ではそれなりに成果を上げたが、95年は連合軍の反撃を受けてリヴィエラからの退却を強いられている。以上がケレルマンのほぼ全実績であり、それに対してナポレオンは厳しい見解を述べている。

「この将軍[ケレルマン]は個人的には勇敢だったが、司令官に必要な才能は全く持たず下手な部隊配置ばかりをした」
"Mémoires pour Servir à l'Histoire de France sous Napoléon, Tome I." p48

 むしろケレルマンの最大の功績は、その息子が極めて有能な騎兵指揮官になったことかもしれない。彼の名声には「子の七光り」の部分もありそうだ。



ジャン・ランヌ

 長谷川哲也氏の漫画でも大人気のランヌ。彼はデルダフィールドの言う「八歳の子どもにも等しい醜態をさらした」代表例でもあった。アスペルン=エスリンクにおけるベシエールとの諍いは、これまたマルボが紹介している("Mémoires du général baron de Marbot, II" p186-192)ものだが、確かに部下の前で上官同士がやらかすにはかなりみっともないものであった。
 ランヌが他人の耳目を気にして自重できるような性格の持ち主でなかったことは、ナポレオンも認めている。

「時に私の前ですら彼の言い回しは乱暴かつ軽率だったが、彼は私を熱心に慕っていた。怒りの最中でも彼は自分の親友を傷つけるような発言はしなかった。そのような訳で、彼が怒っている時に彼に話しかけるのは危険だった。というのも彼はよく激怒しながら私のところを訪れ、誰某は信頼に値しないといったものだ」
"Napoléon en exile, Tome I." p259-260

「矛盾することだが、にもかかわらずランヌは私を崇拝していた。彼は確かに、私が暗に最も信頼していた人物の一人だ。気質の激しさのため彼が時々私に対するいくらかの軽はずみな語句を口にしたのは間違いなく事実だが、おそらく彼はそれを聞く機会があった誰であってもその頭を叩き壊していただろう」

"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Quatrième" p423-424

 その気性の荒さ故にトラブルは起こしたかもしれないが、軍人としての能力について皇帝は何の不満も抱いていなかったようだ。彼がランヌについて触れる時、しばしば述べるのが彼が時と伴に成長したという点である。

「彼[ランヌ]は長い間、単なる戦士だったが、後に第一級の才能を持った士官になった」
"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Second" p181-182

「ランヌは最初、勇気が判断力より勝っていた。しかし時間とともに後者が優勢になり、均衡へと近づいていった。彼が死んだ時、彼はとても有能な指揮官になっていた」
"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Second" p49

「私[ナポレオン]が見つけた時、彼は小人だったが、失った時の彼は巨人だった」
"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Second" p49

「ミュラとランヌより勇敢になるのはとても困難、むしろ不可能である。しかしミュラは勇敢なだけにとどまり、それ以上にはならなかった。一方ランヌの心は彼の勇気と同じ水準まで向上した。彼は巨人になった」
"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Quatrième" p426

「私が最初にランヌを引き上げた時、彼は無教養な人物だった。彼の教育はなおざりにされていた。しかし彼はそれから大いに上達し、その驚くべき進歩から判断するに、いずれ第一級の将軍になると思われた。彼は戦争について多大なる経験を持っていた。彼は54回の会戦に参加し、300回もの異なる種類の戦闘に加わった。彼は素晴らしい勇気の持ち主で、砲火の最中でも冷静であり、明確な洞察力を保持し、姿を現すあらゆる機会を捉えて優位を得る心構えができていた」

Napoléon en exile, Tome I." p259

 そして、部下の将軍たちの中でもかなり高い評価を与えている。

「将軍としては彼はモローあるいはスールトよりはるかに勝っていた」
Napoléon en exile, Tome I." p260

「ドゼーが私の最良の将軍だ。クレベールがその次で、思うにランヌは三番手だ」

Talk Of Napoleon At St. Helena" p226

 もしランヌが生き延びていたら? この問いにもナポレオンは答えている。

「(ランヌが生き延びたとしたら)私は彼が義務と名誉の道から外れる可能性を想像することができない。加えて、彼が生き延びることを想像するのも難しい。その勇気ゆえに、彼は疑いなく最後の戦いのいずれかにおいて戦死していたか、少なくとも事件の中心的影響から外れるだけの怪我を負っていただろう。もし彼が活動可能な状態にとどまっていたのならば、彼自身の重要性と影響力で事態を完全に変えるだけの力を持っていただろう」
"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Second" p182

 ナポレオンからこれだけ褒められる部下もそんなに多くはない。皇帝の目から見たランヌが第一級の将軍だったのは間違いないだろう。



フランソワ=ジョゼフ・ルフェーブル

 ルフェーブル元帥は本人より夫人の方が有名かもしれない。ソフィア・ローレン主役で映画にもなっているが、妻はともかく夫の方はデルダフィールドの手によって純朴ながら少し間の抜けた人物として描かれている。
 ルフェーブルは元帥たちの中では6番目の高齢者だったが、その割にナポレオン戦争期になってももよく戦場へ担ぎ出されていた。ロシア遠征まで付き合わされた元帥たちの中で、彼より年寄りだったのはベルティエだけだ。彼があくまで現場で活躍するタイプの人材であったことについては、ナポレオンも認識していた。

「そなたにはとても愚かに見えているルフェーブルがダンツィヒ包囲の司令部にいた時、何の危険もない時期には繰り返し馬鹿げたことを書いて寄越した。しかし敵が上陸するや否や、彼は完全に明瞭な報告を送るようになり、その作戦は素晴らしいものだった」
"Sainte-Hélène, Tome Second" p187

 そして、そうしたタイプの軍人が持つ危険性も指摘している。

「フルーリュスの勝利はルフェーブルのおかげだ。彼はとても勇敢な男で、右翼や左翼側で行われている移動には注意を払わなかった。彼が考えていたのは真正面でいかに戦うかだけだった。彼は死ぬことを恐れていなかった。それはいいことだが、時にそうした人物は危険な状況に入り込み、敵に包囲される。そして降伏し、その後は永遠に勇気を失ってしまうのだ」
"Talk of Napoleon at St. Helena" p229

 デルダフィールドがルフェーブルを、あやしげな会社を立ち上げる際にパンフレットの上段に印刷する「社会的に信用されている人物」に譬えたのは上手い表現かもしれない。実際、ナポレオンは以下のようなことを言っている。

「[貴族制を復活したことについて]ナポレオンが最初の称号を、かつての兵士でパリの誰もがフランス衛兵隊の軍曹として記憶しているルフェーブル元帥に与えたのは、[旧制度下の貴族と革命のリーダーの融合を図るという]意図のためだった」
"Mémoires pour servir à l'histoire de France sous Napoléon, Mélanges Historiques. Tome Deuxième" p247-248

 ナポレオンにとってルフェーブルは、政治的に利用しやすく、加えて戦場でもそこそこ役立つ人物だったようだ。



ジャック=エティエンヌ=ジョゼフ=アレクサンドル・マクドナルド

 デルダフィールドの筆は多くの元帥たちの性格をビビッドに描き出しているが、スコットランド亡命者の息子マクドナルドに関しては今一つはっきりとした印象がない。「色の道で名を挙げ」たかと思うと「名誉を重んじる男」だと褒められたりするあたり、どうにも散漫である。
 焦点がぼけた性格のせいでもないだろうが、ナポレオンのマクドナルドに対する発言も一定していない。というか、はっきり言って矛盾している。マクドナルドは1814年にナポレオンが退位した際に最後まで彼に従ったことから、一般的に忠誠心に篤い人物だと思われているし、皇帝もそうした内容の発言をしていることがある。

「マクドナルドは断固とした忠誠心で際立っていた」
"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Troisième" p280

「疑いなく私は、貴族であれエミグレであれ、古い敵を容易に用いすぎるとの非難に晒されていた。もしマクドナルドやヴァレンス、モンテスキューが私を裏切ったのであればそうだろう。しかし彼らは誠実だった」

"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Second" p434

 ところが一方で陛下はグールゴーに対して次のようなことも言っている。

「マクドナルドが苦悩していたことは見て取れるだろう。私を裏切った者はその事実に耐えられなかった」
"Sainte-Hélène, Tome Second" p105

 皇帝に忠実だったのかそれとも彼を裏切ったのか、どちらかはっきりさせていただきたい、と問い詰めたい気分だ。ナポレオンがここまで矛盾した発言をしているのは(ワーテルロー関連を除けば)珍しい。人間は矛盾だらけの生き物である。明晰な頭脳の持ち主であったナポレオンも、やはり人間だったということか。
 一方、皇帝は自らの専門分野である戦争におけるマクドナルドの能力については、明確で一定した見解を持っている。

「1813年8月27日に皇帝が3人の君主に指揮された軍に対してドレスデンで得た素晴らしい勝利の後には、すぐマクドナルドが連携に欠けた機動を通じて自らに招いたシュレジエンの惨事と、ボヘミアにおけるヴァンダンム部隊の破滅が続いた」
"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Sixième" p459

「マクドナルドは[1813年戦役で]酷く下手な機動をした」

"Talk of Napoleon at St. Helena" p72

 マクドナルドが元帥杖を手に入れたヴァグラムの戦いについても、ナポレオンは決して彼を手放しで称賛してはいない。

「[ヴァグラム]会戦当日、彼[マクドナルド]は巧みに機動しナポレオンから受けるにふさわしい称賛を得た。しかし勝利を決めたのは戦線正面の変更、ウジェーヌ副王の命令で実行された左翼の後方への移動、ナポレオンの副官ローリストン将軍に指揮された親衛砲兵隊の大砲100門による砲撃、そして敵の左翼全体を迂回したダヴー元帥の軍団の移動である」
"Mémoires pour servir à l'histoire de France sous Napoléon, Mélanges Historiques. Tome Deuxième" p268

 ナポレオンが部下の忠誠心や「裏切り」についてどう考えていたかは、どうやら時と場所に応じて変化していたようだ。ただ、部下の軍人としての才能については、大体一貫した見方を保持している。



オーギュスト=フレデリック=ルイ・ヴィエス・ド=マルモン

 デルダフィールド本の最終章における主人公となっているのがマルモンだ。デルダフィールドはマルモンの最期を情緒感たっぷりに描きあげているが、ナポレオンはそれほどマルモンに対して同情的ではない。いやむしろ全く逆。グルーシーについて触れるのがいつもワーテルロー戦役に関連する場合だったのと同様、マルモンに言及する際にナポレオンはしばしば彼の「裏切り」を批判する。

「少年の頃から育ててきたと言ってもいいマルモンは、私を裏切った」
"Sainte-Hélène, Tome Second" p83

「そして彼は私を裏切った! 彼は私より不幸になるだろう!」
"Sainte-Hélène, Tome Second" p338

「私はマルモン[原文はM.....と伏字になっている]に裏切られた。我が息子とも、子孫とも、私自身の作品とでも呼ぶべき彼にだ。私は彼がその裏切りと私の破滅のための最後の一手を打とうとしたまさにその時に彼をパリに送ることによって、彼に私の運命を委ねた」
"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Second" p434

「マルモンは後世にとって恐怖の対象になるであろう。フランスが存在する限り、マルモンの名が震えと伴に語られないことはない。彼もそれを感じており、そして現時点で彼はおそらく存在する最も惨めな人物だ。彼は自分自身を赦せないだろうし、その人生をユダのように終わらせるだろう」
"Napoleon in Exile, Vol. II." p101

「神よ、私が好意と親切心を示してきたベルティエとマルモンが、私に対してどのような行動を採ったことか! 誰であれ再び私を騙そうとするものは許さない」

"Talk of Napoleon at St. Helena" p248

 よほど腹に据えかねていたのだろう、挙句の果てにはマルモンの父親まで持ち出して彼を批判している。

「若い砲兵中尉だった頃、私はマルモンの父親の家に泊ったことがある。彼は素晴らしい人物だった。彼の息子が私を裏切った時に彼がまだ生きていれば、彼は悲嘆のあまり死んだだろう」
"Talk of Napoleon at St. Helena" p250

 ただ、そのマルモンに対しても全面的非難だけでは終わらないのがナポレオンらしいところ。ベルナドットに対してすら冷静な分析ができた皇帝は、マルモンについても「良かったところ」探しをやっている。

「虚栄心がマルモンを破滅させた。将来の世代は彼の人生を色あせたものにするだろう。しかし、彼の心はその記憶よりは価値あるものだった」
"Journal de la vie privée et des conversations de l'empereur Napoléon, Tome I. Première Partie" p355-356

「これほど致命的な背信も、これほど決定的に認められたものもない。このことはモニトゥール紙に、彼自身の手で記録された。それは我々の破滅の直接の原因であり、我々の権力の死に場所であり、我々の栄光を曇らせるものである。にもかかわらず、彼の心情は彼の評判よりはいいものだと私は確信している。彼の心は彼の行為より勝っている。そのことは彼自身が意識しているようだ。新聞によると、ラヴァレットの恩赦を虚しく懇願した際に、彼は国王が強いる障害に対して、陛下、私はあなたに命以上のものを差し上げませんでしたか、と心から叫んだ」

"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Septième" p281

 裏切り行為自体は徹底的に非難しながら、その心情までが腐りきっていた訳ではないとフォローを入れている。もしかしたら、セント=ヘレナにおいてなお古い友情がナポレオンの中に残っていたのかもしれない。

 ついでにマルモンのために一つ弁護を(というかデルダフィールドの誤りを指摘)しておこう。1814年4月にネイとマクドナルドが連合軍との交渉に出向いた時、マルモンは同行する筈だったのに「一緒に行けないと言い出し」、そしてネイらがナポレオンの息子を即位させるよう連合軍と交渉している最中に「マルモンの部隊は侵略軍の戦列を抜け、ヴェルサイユに向けて行進していた」というのがデルダフィールドの描く裏切りの場面だ。だが、これは史実に反する。
 連合軍の司令部に所属していた英国のBurghershが残した"Memoir of the Operations of the Allied Armies"によれば、4月3日の時点でマルモンがシュヴァルツェンベルクとの間でナポレオンの指揮から離れることを約束していた(p296-297)のは事実。しかし、その後でネイらが連合軍司令部に向かった時、デルダフィールドが書いている話とは異なりマルモンは彼らに同行した。マルモンは部下のスーアンに「自分が留守の間は部隊を動かさないように」(p298)と命じ、シュヴァルツェンベルクにも約束の実行が遅れると伝えている。
 連合軍との交渉において、ナポレオンの希望を強く主張するネイとコレンクールをマルモンは「支持した」(p299)。論争は決着がつかず、5日の午前6時でいったん打ち切られた。だがその直後になってマルモンの軍団(スーアン麾下)が連合軍に合流したとの連絡が届いた。「マルモン元帥もほとんど予想していなかった」(p300)この情報によって交渉は大きな影響を受け、息子を帝位につけるというナポレオンの望みは散った。
 マルモン自身が想定していなかった部隊の移動が行われたのは、マルモンとシュヴァルツェンベルクの合意を知っていたスーアンらが自らの判断でその合意の実行に踏み切ったためだ。彼らは4日の夜にフォンテーヌブローへ来るようナポレオンから命じられたのだが、自分たちが疑われているために呼び出されたのではないかと不安を抱き、急遽連合軍側に寝返ることを決断。マルモンに連絡することなく、5日朝には部隊をまとめてヴェルサイユへと行軍した(p301-302)。マルモン軍団の裏切りに仰天した人物の中には、ネイやマクドナルドだけではなくマルモン自身も含まれていたようだ。



アンドレ・マセナ

 マセナは「ナポレオンに次ぐ能力を持った第一級の元帥」「戦場では完璧だった」とデルダフィールドから絶賛されている。実際、ナポレオンの元帥たちを並べた時に、実績という面で彼は他から大きく抜きん出ている。若い頃のボナパルトも彼について「マセナ:活動的、不屈、大胆さと戦況を見る力と決断の敏速さを持ち合わせている」"Correspondance de Napoléon Ier, Tome Premier" p549)とべた褒めしている。
 ただ、長い年月を経た後のセント=ヘレナでは、ナポレオンはマセナを評価する際に必ず前置きをするようになった。

「マセナは並外れた勇気と堅固さを授けられており、特に過度の危機の際にそれが増すようだった。敗北した時、彼はいつでも、あたかも勝者であるかのように再び戦う用意ができていた」
"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Premier" p363-364

「マセナはとても優れた人物であり、そして、その性格の奇妙な特質のため、彼は必要な落ち着きを戦いの真っ最中にのみ得ることができた。その性格は危険の最中から生み出された」
"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Second" p20

「マセナは優れた人物だった。しかし彼は大抵、戦闘の前に拙い配置を行った。そして死が彼に降りかかり始めるまで、もっと前の段階から示すべきだった正確な判断に基づいた行動を始めることはなかった。死にかけた者と死んだ者たちの真ん中で、砲弾が彼を取り囲む者を吹き飛ばしている中で、マセナは彼自身となった。偉大な冷静さと判断力を示しながら、命令を下し部隊を配置した。これが彼の高貴さだった。マセナは戦闘が彼にとって逆境になるまで決して正しい判断に基づいて行動しようとしなかった、と言われているのは真実だ」

"Napoléon en exile, Tome I." p260

 マセナは確かに優秀だったが、その有能さが発揮されるのは窮地に陥った場面だけ。それがナポレオンの評価である。
 マセナの晩年の衰えについてもナポレオンは認識していた。グールゴーを前にポルトガル戦役におけるマセナの行動を批判した際に、皇帝は「マセナは戦場では勇敢だが、将軍としてはお粗末だ」"Sainte-Hélène, Tome Second" p258)とまで言っている。デルダフィールドはポルトガルのマセナについて「年のせいで覇気がなくなった」と説明しているが、ナポレオンがあげた理由は以下のようなものである。

「マセナはかつてフランスでもトップの将軍だった。(中略)彼は胸に病気をもっており、そのため以前とはすっかり変わってしまった」
"Napoléon en exile, Tome II." p73

「マセナはポルトガル戦役で自らを見失っていたが、それは馬上にいることも、もしくは何が起きているか自ら確認することもできないほど悪かった彼の健康状態に起因していると考える。他人の目で物事を見る将軍は、決して本来あるべき形で指揮を執ることはできない。マセナはあまりに体調が悪かったので他者の報告を信じることを余儀なくされ、結果としていくつかの仕事をしくじった」

Napoleon in Exile, Vol. II." p217

 最後に衰えたとはいえ軍人としての才能は優れていたマセナだが、他の面で大きな問題を抱えていたことは良く知られている。デルダフィールド曰く、マセナは「現金こそが重大事」と思い「財布に執着」する人物だった。このことはナポレオンも指摘している。

「マセナは極めて浅ましい貪欲さで知られていた」
"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Troisième" p279

「しかし、彼はまた泥棒でもあった。彼は契約商人や軍の兵站担当者と儲けを折半した。私はしばしば、もし横領を止めるなら80万から100万フランを贈呈しようと彼に伝えた。しかし彼にとってそれは習慣となっており、金に手をつけずにいられることができなかった。このような訳で彼は兵たちには憎まれており、彼らは3、4回、彼に対して反乱を起こした。しかし、当時の状況を考えるなら、彼は貴重な人物だった。そしてもし彼の輝かしい部分が貪欲という悪徳によって汚されていなければ、彼は偉大な人物になったであろう」

"Napoléon en exile, Tome I." p260

 デルダフィールドはマセナが「称号ではなく、称号にくっついてくる収入」に関心を持っていたと記している。それを裏付けるような挿話がGuillaume Honoré Rocques de MontgaillardのHistoire de France, depuis la fin du règne de Louis XVI jusqu'à l'année 1825に載っている。

「[ナポレオンがマセナにエスリンク公の称号を与えるとウジェーヌから聞いた時]マセナは大して満足した様子は見せず、『なぜ私を公にしたのかね? 公になれば何か利益があるのか? もしそうでないなら、公の称号などどうでもいい!』 称号に40万から50万フランの扶持が付いてくると聞いた彼は『素晴らしい! ただし私はこれからもマセナとサインするつもりだ! これこそ私にとって最高の称号だからだ。もしナポレオンが他の元帥たち同様、大貴族らしい外見をするよう命じるのなら、それに従うつもりはない』」
"Histoire de France, depuis la fin du règne de Louis XVI jusqu'à l'année 1825" p428

 もっともナポレオンは少し違うことを言っている。

「マセナは私が決して同水準のものを見たことがない大胆な自信と素早い思考の持ち主だった。しかし彼は栄光に対して貪欲であり、自らに値すると考える称賛はいくらでも欲した」
"Derniers momens de Napoléon, Tome I." p278

 マセナにとって大切だったのは金(と女)だけだったのか。それとも称号や称賛もまた重要だったのか。正確なところはよく分からない。



ボン=アドリアン・ジャノー・ド=モンスイ

 モンスイは全元帥中、地味さではトップクラスである。彼が活躍した戦場の名を上げよと言われて、即答できる人はほとんどいるまい。もちろん彼もこの時代の他の元帥たち同様、戦の現場において成り上がり、遂には元帥杖まで手に入れた人物ではある。だが、デルダフィールドはモンスイの戦功について「失態に終わった数度の戦い」と冷たく言い放っている。
 モンスイはどこで戦ったのか。革命戦争初期には西部ピレネー軍で戦った。1800年戦役の際には第一執政率いる予備軍の最左翼に展開したが、場所が遠すぎたためマレンゴの戦場にはいなかった。半島戦争にも参加したが、サラゴサを目前に手をこまねいていたことはデルダフィールドの記した通りだ。そして1814年戦役では、モンマルトルの丘でパリに迫った連合軍を相手に最後の戦いを行った。残念ながら、華々しい成功と言えるのは最初の西部ピレネー軍での戦歴だけだ。
 ナポレオンは1800年戦役のモンスイについて以下のように述べている。

「モンスイ将軍率いる1万5000人はゆっくりとやって来た。彼らは連隊ごとにしか行軍しなかった。この遅れは有害だった」
"Mémoires pour servir à l'histoire de France sous Napoléon, Tome Premier" p275

 皇帝もモンスイの軍事能力には不満を抱いていたようだが、他にも軍事面では微妙に冴えなかった元帥は大勢いるので、別にモンスイだけが特異な訳ではない。
 そんなモンスイだが、デルダフィールドは彼がネイの助命を嘆願した点に焦点を当てることでこの人物を描き出そうとしている。モンスイの最大の特徴はその能力ではなく人格にある。そして、彼の人格についてはナポレオンも太鼓判を押している。

「モンスイは誠実な人物だ」
"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Troisième" p280



エドゥアール=アドルフ=カシミール・モルティエ

 デルダフィールド曰く「大柄で陽気」「誰からも好意を持たれていた」「ほとんど敵がいなかった」モルティエ元帥は、かなり背の高い人物だった。ティエボーによれば彼の身長は6ピエ(革命前の1ピエは0.324839385メートルに相当する)、つまり195センチくらいあったそうで、これは現代の基準からしてもかなりでかい。
 フランス語でmortierというと迫撃砲の意味になる。そのため、ティエボーなどはモルティエについて「巨大な迫撃砲、でも射程は短い」"Mémoires du général Bon Thiébault, III" p156)と評している。その身長で目立っていたが、仕事の能力は限定的だったという訳だ。
 実際、モルティエの人格的な面については特に言及していないナポレオンだが、軍事能力に関してはかなり辛辣なことを言っている。

「モルティエは最もレベルの低い将軍だ」
"Cahiers de Sainte-Hélène: journal 1818-1819." p115

 また、ナポレオンにとってほとんどトラウマと化しているワーテルロー戦役に関連して、モルティエを批判するようなことも言っている。

「親衛隊司令官であったモルティエ元帥は15日、ちょうど戦闘行為が始まろうとする瞬間にボーモンで指揮を断念した。そして彼の代理には誰も任命されず、それがいくつかの不都合な結果をもたらした」
"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Cinquième" p439-440

「モルティエは親衛隊の指揮をボーモンに[ボーモンで]譲ったところで、私に甚大な損害を与えた。私はロボーを彼の代わりにするべきだった」

Talk of Napoleon at St. Helena" p186

 何度もモルティエを親衛隊の指揮官に任命したナポレオンだが、その評価を見る限り軍事面ではあまり彼を信用していなかったようだ。



ジョアシャン・ミュラ

 「十四世紀の恋愛詩から飛びだしてきた人物」ミュラは、デルダフィールドによれば「漆黒の髪を風になびかせながら暴れ馬を駆る」「世界軍事史上屈指の颯爽とした騎兵」であり、「社交的で陽気」な性格の持ち主だった。同時に「あきれるほどに装飾過剰」「見栄っ張り」で「ごてごてと飾り立てた利己主義者」でもある。とにかく派手な人物だけに、彼を描き出すデルダフィールドの筆も絶好調だ。
 突撃の先頭に立っている時のミュラについてはナポレオンも高く評価している。

「騎兵のミュラ、砲兵のドルーオに匹敵する士官は世界に二人といないと信じている。ミュラは唯一の存在だ。(中略)私と伴にいる時、彼は私の右腕だった。あの方角にいる4000から5000人の敵を攻撃して粉砕せよとミュラに命じれば、彼はすぐさまやってのけた。(中略)戦場なら彼は世界で最も勇敢だっただろう。彼の沸騰する勇気は彼を敵の真ん中へ送り込み、鐘楼まで舞い上がる羽を与え、黄金の輝きを放った。(中略)彼は戦場の騎士、いや、ドン=キホーテだった」
"Napoléon en exile, Tome II." p171

「私は彼[ミュラ]をワーテルローへ連れて行くべきだったろう。(中略)それでも彼は我々に勝利を得ることを可能にさせてくれたに違いない。戦闘の特定の瞬間において、彼がどれだけ役に立ったと思う? 彼は3つか4つの英国の方陣を打ち破っただろう。そうした仕事においてミュラは天晴れなものだった。彼はまさにそのための男だった。騎兵部隊の先頭にいる時に、彼ほど肚が据わり、勇敢で、卓越した者は存在しなかった」

"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Second" p276

 ただし、勇気と突撃以外の軍事的側面にまで視線を向けた時、皇帝の評価はもう少し厳しいものになる。

「ミュラは並外れた勇気と、僅かな知性のみを持ち合わせていた。この二つの資質の間にある巨大すぎる不均衡が、この人物について完全に説明してくれる」
"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Quatrième" p426

「肉体的な勇気に関して言えば、ミュラとネイが勇敢でないということは不可能だ。しかし、彼らより劣る判断力の持ち主もいない。特に前者はそうだ」
"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Second" p47

「ミュラは敗北時には無能で臆病な人間だった。彼は砲撃下においてのみ優れていた」
"Talk of Napoleon at St. Helena" p161

「ミュラは戦役においてどう行動すべきかについてネイよりはよく知っていたが、結局のところ彼はとてもお粗末な将軍だった。彼はいつも地図の助けなしに戦争を行った。(中略)かわいい女性がいると知っている城館に司令部を置くため以外にミュラがやらかした失敗が、果たしてどれほどあっただろうか! 彼は毎日、女性を近くに置かなければ気が済まず、そのため私は将軍たちが恥ずべき女性を連れて歩く習慣を容認しなければならなかった」

"Talk of Napoleon at St. Helena" p221

 戦場に愛人を連れて行った人物としてはマセナが有名なのだが、ナポレオンの指摘を見る限り本来その悪癖を始めたのはミュラのようだ。マセナだけが批判されるのは不公平だと言えよう。
 さらに皇帝は、戦場を離れたミュラに対してはっきりと否定的見解を述べている。

「ミュラは、ネイのように、戦場では敵はいなかったが、それ以外の全ての時には愚行しかしなかった」
"Talk of Napoleon at St. Helena" p191

「しかし彼を執務室に入れると、判断力も決断力もない臆病者になった」

"Napoléon en exile, Tome II." p171-172

 そして、ミュラを引き立てすぎたことは失敗だったと悔やんでいる。

「私は彼[ミュラ]を元帥のままにとどめておき、決してベルク大公に、ましてやナポリ王にするべきではなかった」
"Talk of Napoleon at St. Helena" p221

「彼は我々がここ[セント=ヘレナ]にいる主な理由の一つだ。しかしそもそもは私の過失である。私は何人かの者について、彼らの知性の範囲を超えるところまで引き立て、大物にさせすぎた」

"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Quatrième" p424

 それでも皇帝は義理の弟を決して嫌ってはいなかったようだ。理由の一つは彼の「社交的で陽気」な性格にあるのだろう。

「ミュラとネイは私がかつて見た中で最も勇敢な人間だった。しかしながらミュラの方がネイより高貴な性格の持ち主だった。ミュラは寛大で率直だった。ネイは悪党の性格を帯びていた」
"Napoléon en exile, Tome II." p172

 ナポレオンのミュラに対する態度は、以下の言葉に端的に表れている。

「私はその輝かしい勇気ゆえにミュラを好んだ。多くの愚かしい行為を許したのはそれが理由だ」
"Talk of Napoleon at St. Helena" p236



ミシェル・ネイ

 ネイはデルダフィールド本で事実上の主役を張っている。「元帥中誰よりも有名になった男」「ナポレオン伝説の権化」とデルダフィールドに描写されたこの人物に対し、ナポレオンは彼の最大の特徴を何度も指摘している。

「ネイは滅多にない勇気の持ち主だった」
"Talk of Napoleon at St. Helena" p236

「ネイは人々の中で最も勇敢だ。そしてそれ以外の能力は、全て彼の勇気に従属している」

"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Second" p32

 ネイといえばその勇敢さが最大の特徴。勇者の中の勇者と呼ばれた人物なのだから、当然そこは褒めるべきところだろう。ナポレオンはロシア遠征時にネイが示した勇気に感心し、しばしば「私の金庫には2億フランが入っている。それを全てネイにやってもいい」"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Septième" p307)と発言していたほどだ。
 しかし、勇敢さ以外の部分になるといきなり問題が噴出する。皇帝がネイの勇気以外の部分に触れる時、その口調はとたんに厳しくなる。

「彼は勇敢な男だった。彼より勇敢な人物はいなかった。しかし彼は狂人だった。彼は人間に対する尊敬の念を持たないまま死んだ」
"Napoléon en exile, Tome I." p74

「ネイは何の才能も持たず、精神的な勇気も備えていなかった。彼は戦場で兵士たちを鼓舞する点では優れていたが、私は決して彼をフランス元帥にすべきではなかった。カファレリが言ったように、彼は単にユサール騎兵の誠実さと勇気を持っていたに過ぎない。私は彼をただの将軍のままにしておくべきだった」

"Talk of Napoleon at St. Helena" p224

 デルダフィールド曰く、ナポレオンはネイについて「自主的な行動が必要となる場合にはほとんど使えないが、軍団長としてならまずまず、師団長としてはトップクラス」だと判断していた。これは事実だと言っていいだろう。ナポレオンは以下のようなことも言っている。

「人間というのはコンサートにおける音楽家たちのようなものだ。誰しも演奏すべきパートを受け持っている。ネイは1万人の兵を率いる時は素晴らしい指揮官だったが、それ以外のすべての局面においては単なる愚か者だった」
"Talk of Napoleon at St. Helena" p223

 ネイが最も輝いたのがモスクワからの退却戦だとしたら、彼が最も悲劇的に振舞ってしまったのは百日天下とワーテルロー戦役だろう。ナポレオンは当時のネイの行動について次のように分析している。

「彼[ネイ]は祖国の繁栄を約束すると予想した衝動に導かれて行動した。彼はそれに熟考することなく、そして何らかの裏切りの考えを持つこともなく従った」
"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Second" p31

 そして、自らの行動を振り返って以下のように述べている。

「ネイを[ワーテルロー戦役時に]雇ったのは大いなる失敗だった。彼は動転していた。過去の行動に対する負い目が彼のエネルギーを損なっていた」
"Talk of Napoleon at St. Helena" p185

 デルダフィールドが言うようにこの時期のネイが「戦争神経症」や「シェルショック」であったと断言するのは早計だろう。しかし、ナポレオンの目にも当時のネイが心理的要因によってかつてのネイではなくなっているように見えたのは確かなようだ。



ニコラ=シャルル=マリー・ウディノ

 デルダフィールドによれば、ウディノは「三十四か所の傷跡」を持つ歴戦の勇者だ。ちなみに彼の怪我についてPaul Britten Austinは「23回の機会に36回怪我をした」(ed. David Chandler "Napoleon's Marshals" p395)と記している。どちらの紹介した数が正しいのかは不明。
 勇敢だったのは間違いないが軍人として有能だったかというとデルダフィールドもそうは書いていない。連合軍に転じたベルナドットと比較して「ベルナドットは悪党だったが、ウーディノよりははるかに用兵術に通じていた」と指摘しているほど。ナポレオンの評価も手厳しい。

「[ウディノは]勇敢な男だが、脳みそが足りない」
"Napoléon en exile, Tome I." p242

 そんなウディノだが、彼の見せ場は百日天下の時にやって来た、とされている。部下にブルボン王家への忠誠を求めた彼は、その試みに失敗すると田舎へ引きこもり百日天下の間は一切の行動を慎んだ。かくして彼は「誰よりも名誉あるやり方で板ばさみのジレンマを抜け出すことに成功した」、というのが通説だ。
 ウディノが部下の造反を引き止めることができなかったことはナポレオンも指摘している。

「ウディノが兵に、彼らの忠節を当てにしていいかと訊ねたのに対し、彼らは満場一致で答えた。『我々はナポレオンとは戦わない』。彼は兵たちばかりか、農民たちが私に合流することすら妨げることができなかった」
"Napoléon en exile, Tome I." p389

 問題はその後、彼がブルボン王家への忠誠を保持したという点だ。Henry Houssayeがこの説に対して批判を繰り広げていることは「ウディノ元帥と百日天下」で紹介済み。Houssayeによればウディノはナポレオンの下で仕官できるよう色々と運動を行ったが、その無能さ故にナポレオンから忌避され、結果として百日天下の間に「一切の行動」ができなかっただけ、ということになる。
 そしてナポレオンもHoussayeの指摘を裏付けるようなことを言っている。

「後に彼[ウディノ]は、古い家系の出身でその虚栄心と偏見を受け継いだ若い妻に影響されるようになった。しかし彼は私がエルバから帰還した際に奉職を申し出、私への忠誠を誓った。彼は誠実だったに違いない。私が成功していれば、彼はきっと誠実に仕えただろう」
"Napoléon en exile, Tome I." p242

 「エルバから帰還した際に奉職を申し出」たことを、ナポレオン自身も指摘している。だが、後に「古い家系の出身でその虚栄心と偏見を受け継いだ若い妻」がそれとは異なる話を回想録としてまとめ、世に出した。その回想録のおかげで、本来なら「勇敢だがその無能ぶりが嫌われた」人物が「勇敢かつ名誉ある」元帥になりおおせた訳だ。



ユーゼフ=アントニ・ポニアトウスキ

 ポーランド王族の生まれであるポニアトウスキは、元帥たちの中で生まれた時点の身分が最も高かった。デルダフィールドの描き出すポニアトウスキは、「女衒まがいの役目」を果たすべく「言葉をつくして可憐なワレウスカ伯爵夫人を説きふせた」ことと、ライプツィヒで戦死するくらいのことしかやっていない。もちろん、現実のポニアトウスキはもう少し色々なことをしている。
 1806−07年のポーランド戦役でナポレオンの麾下に参じたポニアトウスキは、ワルシャワ大公国軍の司令官に就任。1809年には侵攻してきたオーストリア軍と戦い、ワルシャワは奪われたもののその後でガリシアに対する逆侵攻を試みている。1812年のロシア戦役にももちろん参加し、第5軍団を率いてボロディノでも戦ったしモスクワにも入城した。1813年も秋季戦役には加わったが、そこで元帥に任命された数日後に溺死した。

 ポーランドは元々国王に比べて貴族たちの力が強い国で、ポニアトウスキも王族だったからと言って国民や軍から圧倒的な信頼を得ていた訳ではないようだ。軍内だけ見ても彼の他に、現在のポーランド国歌にその名を残すドンブロフスキや、ザヨンチェクといった頭目たちが存在し、ある意味群雄割拠していた。彼らの仲の悪さも有名で、ドンブロフスキの師団は敢えてポニアトウスキ軍団とは別の軍団に所属していたほどである。
 それでもポーランド国内では極めて有力な人物であったことは間違いない。そのためか、ナポレオンは以下のようなことを言っている。

「ポニアトウスキは真のポーランド王だった。彼はその高位に必要なあらゆる特質を備えていた」
"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Septième" p287

「ポニアトウスキは高貴な性格で、名誉と勇気に溢れていた。もしロシアで成功していれば、彼をポーランド王にするのが私の意図だった」

"Napoléon en exile, Tome I." p217

 所詮、全てが終わった後の台詞なので、皇帝がどこまで本気だったのかは分からない。それでもナポレオンがポニアトウスキを(軍人としてではなさそうだか)褒めているのは確かだ。



ジャン=マテュー=フィリベール・セリュリエ

 セリュリエもまた元帥の中では目立たない方の人物だ。そもそも1799年戦役より後には最前線に出ていないので仕方ない面もある。それでもイタリア戦役においてボナパルトの下で戦っただけマシだろう。同じく1799年より後に前線勤務のないペリニョンは、ナポレオン麾下にいたこともないため完全に謎の人物と化している。
 デルダフィールドはセリュリエを「伯爵家出身」としているがこれは嘘。David D. Rooneyによるとセリュリエの父親は「王室牧場のモグラ取り」が仕事だったという(ed. David Chandler "Napoleon's Marshals" p442)。一応小貴族の一員とは思われていたため士官候補生として軍に加わることができたのだが、革命までの34年もの軍歴でようやく少佐にしかなれなかったところを見れば、彼が大貴族でないのは明白。そもそもセリュリエが伯爵位を手に入れたのは第一帝政下の1808年だ。
 同じデルダフィールドの指摘でも「堅物のセリュリエ」というフレーズの方はまだ説得力があるだろう。ボナパルト将軍がイタリア方面軍の将軍たちについて書き残した記述には、以下のように書かれている。

「セリュリエ:兵士のように戦う。自分自身を信用していない。頑固。兵たちに十分な信頼を置いていない。病人」
"Correspondance de Napoléon Ier, Tome Premier" p549

 セント=ヘレナのナポレオンもセリュリエの厳格さとか規律を評価している。またその誠実さも褒めているが、軍人としての評価は今一つだ。

「古参の歩兵少佐としての物腰と厳格さを保ち続けたセリュリエは、誠実で信頼に値する人物だった。ただしダメな将軍でもあった」
"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Premier" p364

「彼[セリュリエ]は少佐としてのあらゆる几帳面さと厳密性を保持しており、規律という点では極めて厳しかった。(中略)彼は勇敢な人物で、個人的には恐れ知らずだったが、幸運ではなかった。彼は他の二人[マセナとオージュロー]ほど精力的ではなかったが、その性格の徳性と、政治的見解の健全性、そしてあらゆる交流において彼が示した厳格な誠実さにおいては勝っていた」

"Mémoires pour Servir à l'Histoire de France sous Napoléon, Tome Troisième" p230

 ナポレオン漫画で「旧体制の美」と称えられたセリュリエ。しかし現実の皇帝は、「彼のその堅物ぶりは本当は少佐くらいの階級向きだったんだよ」と言いたそうである。



ニコラ=ジャン=ド=デュー・スールト

 スールトはフランスの歴史上でも6人しかいないMaréchal généralまで成り上がった男である。デルダフィールドは彼をスーシェと並べて「スペインで名声を手に入れた」数少ない元帥の一人に位置づけているが、実際には「戦略家としてスールトが名を挙げた」のは南仏での戦いだったと説明しているので、「スペイン」で名声を手に入れたというのはいささか微妙なところ。
 敵である英国人からやたらと高く評価されたためか、英国人O'Mearaとナポレオンの会話にもよくスールトの名が登場してくる。中でも他の将軍たちを評価する際の「基準値」としてスールトが使われるのが目立つ。

「将軍としては、モローはドゼー、あるいはクレベール、あるいはスールトと比較してすら、非常に劣っていた」
"Napoléon en exile, Tome I." p258

「将軍として彼[ランヌ]はモローや、あるいはスールトより大幅に優れていた」
"Napoléon en exile, Tome I." p260

「[スーシェ、クローゼル、ジェラールが現存する将軍の中で最も優秀だと述べたのに関連し]ナポレオンはスールトについても称賛の表現で言及した」

"Napoléon en exile, Tome II." p74

 英国人デルダフィールドがスールトについて「周到かつ目の利く略奪者」と述べた点についても、同意するような発言をしている。

「もしスールトにもっと才能があれば、彼はカディスを奪っていただろう。また彼はかの地で財産を増やしたようだが、それは大きな損傷をもたらした」
"Cahiers de Sainte-Hélène: journal 1816-1817" p149

 もっともデルダフィールドの「参謀部向きの人材ではなかった」との評価に対しては、むしろ逆の見解を示している。

「彼[スールト]は戦時の大臣として、あるいは軍の参謀長として卓越していた。彼は司令官として活動することよりも、軍隊の配置の仕方の方をよく知っていた」
"Napoléon en exile, Tome I." p142-143

「スールトは司令官の下に仕える以外に何の役にも立たなかった」

"Talk of Napoleon at St. Helena" p201

 もちろん、ワーテルローのスールトについては「ベルティエの方がいい仕事をしてくれたに違いない」"Talk of Napoleon at St. Helena" p187)と批判しているが、一方で「スールトはいい幕僚を抱えていなかった。私の当直将校は若すぎた」"Talk of Napoleon at St. Helena" p189)と庇うような発言もしている。皇帝はスールトを「参謀部向きではない」とは考えていなかったようだ。

 面白いのはスールト夫人に関する話。ナポレオンの言を信じるのなら、実はスールトは女房の尻に敷かれていたことになる。

「スールトもまた欠点と長所を持っていた。南フランスにおける彼の全戦役は立派に実行された。その振る舞いや態度が高慢な性格を示していたこの人物が、実は恐妻家であった点が信じられることはほとんどないだろう。(中略)彼は私が望んでいること[スペインへの派遣]を実行する準備はできているが、おそらく妻から非難されるから、私から妻に話してほしいと懇願した」
"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Troisième" p280

「スールトは極めて野心家であり、そして彼の妻がそれを主導していた」

"Sainte-Hélène, Tome Second" p85

 結局のところ、ナポレオンのスールトに対する評価はセント=ヘレナで彼を取り囲んでいた英国人たちより低かったと考えていいだろう。ナポレオンによる最も痛烈なスールト評は「彼は決して偉大なことを成し遂げなかった。彼の助言は信頼に値したが、実行においてはお粗末だった」Sainte-Hélène, Tome Second" p424)というものだ。言うは易く行うは難し。何よりも実践の天才であったナポレオンはそのことをよく理解していたし、実行できない部下に対する評価が厳しくなるのは当然だろう。
 スールトが実行面に課題を抱えていた口先男だったのではないか、という点はPaddy Griffithも指摘している。Griffithによれば、ジェノヴァで重傷を負った1800年より後、スールトは決して最前線に出ようとしなくなったという。アウステルリッツでスールトの第4軍団が前進を始めた時、「スールトの姿はどこにも見られなかった」(ed. David Chandler "Napoleon's Marshals" p466)。ポーランドやスペインで彼の軍団が戦場で中途半端な活動に終始したのも、司令官が自ら最前線で指揮を執らなかったためではないかとGriffithは述べている。
 もし彼の指摘が事実なら、デルダフィールドの書いた「誰のことを指すにしても、絶対に使われてこなかった言葉」が、実はスールトには当てはまるかもしれない。「臆病者」という言葉が。



ルイ=ガブリエル・スーシェ

 元帥たちの中でも能力面では上位に入るといわれるスーシェは、一方で下から数えた方が早い知名度の持ち主でもあった。デルダフィールド本でも登場頻度はグーヴィオン=サンーシールやセリュリエといったあたりと似たり寄ったり。能力的には下であっても目立つ機会の多かったミュラやネイの方が圧倒的にたくさん取り上げられている。
 ここでもまた「ナポレオン麾下か否か」の法則が発動したと考えるべきだろう。スーシェがナポレオン直率下で戦ったのは、彼が師団長だった時。元帥杖を手に入れたのはパリのナポレオンから遠く離れた東部スペインだったし、その後も彼はナポレオンのすぐ傍で戦うことはなかった。デルダフィールドが記した「丁寧で控えめな男」という指摘が事実かどうかは分からないが、後の時代から見れば彼が控えめに見えてしまうのは確かだ。
 「傑出した才能」「第一級の行政能力」「最も腕の立つ部下」といったデルダフィールドの見解はナポレオン自身の見方と軌を一にしている。1817年時点でフランスの最も優れた将軍は誰かと問われた皇帝は、以下のように述べた。

「しかしながら私はスーシェがおそらく一番だと考える」
"Napoléon en exile, Tome II." p73

「私の見解ではスーシェ、クローゼル、そしてジェラールがフランスの将軍たちの中で第一級だ。将軍としての才能を判断するのに必要である司令官として指揮を執る場面が多くなかったため、彼らのうち誰が優れていたかは何とも言えない」

"Napoléon en exile, Tome II." p73-74

 そしてまたランヌについて述べたのと似たようなことも言っている。

「スーシェはその勇気と判断力が驚くほど向上した者の一人だ」
"Mémorial de Sainte-Hélène, Tome Second" p49

 デルダフィールドには「華々しい活躍を見せたわけではない」とあっさり切り捨てられたスーシェだが、彼がスペインで活躍し、それが皇帝の目にとまっていたのは間違いない。単に後世の人間からは見えにくいだけである。



クロード=ヴィクトール・ペラン

 デルダフィールドが描く「おしゃべりなペラン軍曹」ことヴィクトールに関する記述には、のっけから疑問がある、ということはシェヘラザードさんが指摘している。バスティーユ襲撃の数週間後にヴィクトールがダヴーと伴にパリに向かったという話だが、Georges Sixによれば彼は1789年10月16日に「軍に再入隊」したとなっており、7月のバスティーユ時点で軍にいたのかどうか不明だ。
 デルダフィールドの描く「大口たたきの道化者」は、「絶望的な仕事をすすんで引き受けるような男ではなかった」し、「前衛にいるときは勇敢だったが、退却するのも迅速だった」。「俗物根性しかなかった」ヴィクトールに対し、デルダフィールドは「その地位[元帥]に値しない男」とかなり厳しい評価をしている。ヴィクトールが批判される大きな要因は王政復古後に彼が「魔女狩りの先頭」に立って「手当たり次第にボナパルティストを狩りだしては当局に引き渡した」のが理由だろう。裏切り者は嫌われるものだ。
 ヴィクトールが熱心な王党派になったのは事実のようだが、James R. Arnoldによれば「それは個人的な利益をもたらさなかった」(ed. David Chandler "Napoleon's Marshals" p519)。確かに復古王政下で高い地位を確保していたものの、途中で降格や批判を食らうなど決して優遇されたとまでは言えないようだ。それでも彼はブルボン家に忠誠を誓い続け、7月革命後は重要なポストを提示されながらもそれを断り公職から退いている。どうもデルダフィールドの描き出すような単純な裏切り者ではなかったらしい。

 ナポレオンがセント=ヘレナでヴィクトールに言及したのは一回だけ。一応、ヴィクトールを褒めている。

「ヴィクトールは人々が考えているよりもいい将軍だ。ベレジナ渡河の際に彼は自らの軍団のほとんど全てを渡河させるのに成功した。スモレンスクで私がヴィクトールへの命令を伝えた時、彼の義理の息子であるシャトーは私に向かって言った。『彼には絶対できません。陛下はナポリ王を送るべきでしょう』。その命令は私が行くより前にベレジナに到着せよというものだった」
"Talk of Napoleon at St. Helena" p227

 見ての通り、ヴィクトールについて話していた筈が途中から別の人物に関する挿話に横滑りしている。セント=ヘレナの記録には、このように話題が横にずれていく例が多数見受けられる。生の会話においてはこのように話があちこちに飛ぶことはそれほど珍しくない。ラス=カーズやグールゴーといった人々が、ナポレオンの言葉をひたすら真面目に書き写していた様子が窺える文章だ。


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