1792年―ライン戦線



・連合軍の進撃

 ライン方面に春の段階で配置された軍勢はリュックナー麾下の4−5万人。4月30日にはキュスティーヌ将軍率いる部隊がアルザス南部で攻勢に出てバーゼル司教領(ポラントリュイ地区)を占領する動きがあったが、それを除けばプロイセン軍が参戦するまで戦闘は本格化しなかった。

 7月24日、プロイセンが正式にフランスに宣戦布告。31日にはホーエンローエ=キルヒベルク公の率いるオーストリア軍がシュパイエルでラインを越えはじめた。一方、プロイセンのブラウンシュヴァイク公率いるプロイセン・オーストリア・ドイツ諸邦連合軍10万人は8月上旬からパリへの進撃を開始。8月20日から3万5900人の部隊でもってロンウィを包囲し、23日(24日の説もある)に守備隊2600人を降伏させた。9月2日にはヴェルダンの守備隊4100人が要塞を連合軍に明け渡した。一方的な敗北続きでパリはパニックに陥り、民衆は監獄に収容されていた受刑者の虐殺を始めた。

 フランス軍は連合軍の動きに対応すべく北方軍司令官デュムリエが3万人の兵を率いて8月29日にセダンに到着。リュックナーの後を継いで新たに中央軍指揮官となったケレルマンも9月2日に司令部に合流し、ライン軍などの増援も得ながらデュムリエと協力すべく移動を始めた。連合軍がミューズ河を渡ってシャロン=シュール=マルヌへ前進してくるのを妨げるべくデュムリエはアルゴンヌの森に陣地を敷いた。深い森や川など地形の険しいアルゴンヌは軍隊が通過できる場所が5ヶ所しかなく、デュムリエはこの地を「フランスのテルモピュライ」と呼んで守りきる考えだった。

 だが、デュムリエの部隊配置には穴があった。たった100人の部隊しか置いていなかったクロワ=オ=ボワを、連合軍右翼を率いるオーストリアのクレアファイト将軍がプロイセンのカルクロイト将軍の支援を受けて9月12日に突破した。側面を迂回される危険に晒されたデュムリエは部隊をアルゴンヌ森の南端にあるサン=ムヌールへ移動させ、連合軍がシャロン=シュール=マルヌへ前進したらその側面を脅かそうとした。ブラウンシュヴァイク公はこの機会に乗じることをせず、連合軍の動きは鈍かった。一方のフランス軍は18日にブールノンヴィユ将軍(北方軍の一部部隊を指揮)の1万600人の増援がヴァレンシエンヌから到着。翌19日にはメッツから来たケレルマンの1万6000人も合流した。

・ヴァルミーの戦い(1792年9月20日)

 フランス軍はヴァルミー周辺に三日月型の陣を敷き、その中央をケレルマンが占め、デュムリエが主要道路を押さえた。ケレルマンは右翼をシュテンゲル師団に、左翼をシャボー師団に守られた小さい丘に部隊を配置した。彼自身はより防御に適しているオーヴ川南岸への移動を希望していたが、再配置をする前に連合軍の攻撃が行われた。フランス軍兵力は5万人(5万2000人の説もある)。一方、ブラウンシュヴァイク麾下の3万4000人(3万5000人の説もある)はフランス軍の連絡線を断つように移動し、20日朝に西方から攻勢に出た。予備攻撃の段階でプロイセン軍はフランス軍前哨線となっていたラ=リューヌ村を占領したが、霧のために本格的な攻撃は延期。昼になってプロイセン軍は丘の上にいるフランス軍に対して砲撃を浴びせたが、驚くべきことにフランス軍の戦意は崩れなかった。この時、戦場にいた連盟兵たちはケレルマン将軍とともに「国民万歳! フランス万歳!」と叫んだと言われる。1時間後に行われたプロイセン歩兵による前進も僅か200歩進んだところで停止。フランス側の陣地で弾薬車が爆発して混乱が生じる場面もあったが、戦線は崩れなかった。もっとも激しい攻撃を受けたシュテンゲルの部隊にはデュムリエが4000人の予備部隊を送り込んだ。ブラウンシュヴァイク公は部隊の再編などをしたものの、それ以上の前進は試みず、午後7時には戦いは終了した。フランス軍の損害は600人(300人の説もある)、プロイセン軍は180人(200人の説もある)だった。その夜のうちにフランス軍はケレルマンが希望していたオーヴ川南岸の陣地へと後退した。

 戦いといえるほどの戦いではなかったが、欧州最強を謳われていたプロイセン軍相手の勝利は後に両陣営に多大な影響を及ぼした。激しい雨のため即時攻撃再開ができなかったプロイセン軍は、補給上の困難が増してきたため退却を決意した。ブラウンシュヴァイク公は9月30日からアルゴンヌへの退却を開始。フランス軍はこれを追い、10月14日にはヴェルダンを、19日にはロンウィを取り返した。連合軍は10月第3週には後退を止め、新たな戦線を敷いた。

・フランス軍の攻勢

 ヴァルミーの勝利を受け、フランスの逆襲が始まった。ライン方面では指揮官のビロンがストラスブール防衛にこだわっていたのに対し、部下のキュスティーヌ将軍が北方への攻撃を計画。彼は自身が率いるヴォージュ軍1万4300人(2万4000人の説もある)を率いて9月29日にランダウを出発した。30日には守備隊3600人が守るシュパイエルを落とし、10月5日にはフィリップスブルクとヴォルムスに入城。10月16日から1万3000人から1万9000人(諸説ある)の部隊でマインツの守備隊5400人を包囲し、21日に降伏させた。さらに22日には民兵の守っていたフランクフルト=アム=マインもフランス軍の手に落ちた。一連の成功によりキュスティーヌは11月7日にビロンに代わって全ライン軍の指揮権を手に入れた。

 だが、この段階でキュスティーヌの部隊は他の部隊から大きく突出する形になっていた。彼は左翼にいるケレルマンのモーゼル軍の前進が遅いと文句をつけたが、ブラウンシュヴァイク公の軍を単独で追跡する事態に追い込まれていたケレルマンにはキュスティーヌと歩調を合わせて前進する余力はなかった。政府はケレルマンの鈍い動きに業を煮やし、彼をアルプス方面軍に移して後任にブールノンヴィユ将軍を選んだ。

 一方、無事にライン河まで退却したブラウンシュヴァイク公率いる5万人のプロイセン軍は、年末にかけてキュスティーヌに対して反撃を開始。12月2日にはヴァン=ヘルデン将軍守るフランクフルト守備隊1800人を1万1000人の連合軍が強襲してこれを奪回した。ヘルデンの救援要請は無視され、守備隊のうち1150人は降伏した。キュスティーヌ将軍は3万人のフランス軍を率いてライン河西岸へ引き上げ、マインツ近辺で冬営に入った。

 ケレルマンの後任であるブールノンヴィユ将軍は、モーゼル軍2万人を率いてケレルマンが落とせなかったルクセンブルクとトリールを攻撃した。ホーエンローエ=キルヒベルク将軍率いる1万人の連合軍に対し、12月4日にまず前衛部隊がルーヴェル川へ前進。アンベール将軍はタヴェルンとフェレリッヒでオーストリア軍と戦闘した。6日にはアンベールがタヴェルンを、ラグランジュ将軍とドトゥルヌル将軍率いる1700人がペリンゲンを、ブールノンヴィル自身がトリール南西の丘を攻撃したが全て失敗。ホーエンローエ=キルヒベルクはルクセンブルクから1個連隊をグレーフェンマッヘルンへ送り出した。ブールノンヴィルは7日にトリール東方のグリューネベルクを、10日にはペリンゲンを攻撃したがまたもや失敗した。連合軍は10日にボーリューの増援がトリールに到着。フランス軍は15日に一時的にタヴェルンを占領したが、食糧不足に苦しんだ末に17日には全面後退に移った。


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