筆者:山本 和幸
掲載:『Free Fan』No.30、2000年9月
 
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過剰な大衆化とメディア(続)

 さて本題である。今回の問題で、メディアによるエリア紹介の際に、入山にあたっての注意事項を記載しなかったということが多少問題にされたようだ。確かに、そういう側面はある。だが、そうした注意事項は本来、どこの岩場でも言えることではないか。いわば最低限の常識に属することがらなのではあるまいか。
 糞便の問題にしぼって見よう。立小便は犯罪である。まあ、よほど悪質な現行犯以外はお目こぼしいただけるのであろうが。山の中での立ち小便も、厳密にはなんらかの法規制の対象である可能性は高い。人目につかないところでこっそりやればOKなのか、それともやはり単にお目こぼしをいただけるだけなのか。このあたりはその道の専門家にお聞きしたいところだが、立ち小便が犯罪であるなら、「大」は当然犯罪になる。
 クライミング関係のメディアが、自然の岩場周辺での糞便の始末について言及しなかったのが問題というのなら、こう言いたい。犯罪行為について、事あらためて言及する必要があるのだろうか? 常識を働かせれば、最低限場所を選び、後はちゃんと埋めておく――くらいの発想はできるはずだ。それができないのは常識がないからだ。
 最近は何事につけHow toものやらマニュアルものが出回っているが、こうしたマニュアルの氾濫のなかで困った風潮がある。何かにつけ、マニュアルがない、あるいはマニュアルにないから、そんなことは知らない(できない)と、責任を回避することである。メディアの責任を云々するのはそれと同じ発想で、文字通り自分の尻の拭き方も知らない非常識な輩の、責任回避を認めることではないか。
 終日禁煙の駅のホームで、平気でたばこを吸って吸い殻を投げ捨てる、空き缶を人の家の塀の上にのせていく、所嫌わず唾を吐く、満員電車の中で携帯で無意味なおしゃべりを続ける……。やってはいけないことを平気でやっている輩を私たちは毎日、目にしている。今、岩場のまわりに糞便をまき散らしているのは、結局こういう輩なのだ。
 本来、言われなくてもやって当然のことをやらない輩に、排泄物はこういう風に始末しましょう(ましてや持ち帰りましょう)などと言って聞く耳を持つのだろうか、という暗澹たる思いがする。このような人の心の荒廃をもたらしたものは、クライミングのメディアの責任を云々できるレベルを超えた、別のもっと大きな問題である。

集まったゴミの山 (photo: Matsuoka)

 いずれにせよ、ちゃらんぽらんな輩がちゃらんぽらんなことをやって、真剣にクライミングをしているクライマーが迷惑を被っている現状はなんとかしなければならない。もしメディアに果たすべき役割があるとすれば、それは単に、尻の拭き方を教えるといったことではない。
 それでは何をすればいいのか?
 具体的な提案は難しい。ひとつ逆説的提案をしよう。メディアはクライミングがいかにつまらないものであるかを世間に向けて宣伝するのだ。いかにそれが危険で退屈で体に悪いかを、訴えるのだ。尻の拭き方を知らない輩にはクライミングをやめていただく、あるいはその手の輩が、新たにクライミングを始めようなどとは考えなくなるような、そういう方向性である。
 こういう書き方をすると、エリート主義と誤解されるかもしれないが、エリート主義とは一部の上級者の専有物とすることだ。問題はクライミング能力ではなく、クライミングに対する姿勢……クライミングを“大切なもの”と考えるか否か、それだけのことで、クライミング能力は無関係である。
 20年近く前、Y・シュイナードが、クライミングの世界は民主的になりすぎたと語ったことがある(「民主的」というのは、多分に皮肉を含んだ表現だ)。'70年代のアメリカのクライマーの急激な増加は、クライミングをファッションとしてしかとらえない層の参入の結果であり、それが過剰な大衆化、クライマーのコミュニティの崩壊、モラルの低下といった、さまざまな問題をもたらした。そのことを評しての発言である。
 '90年代の人工壁の普及にともなうクライマーの急激な増加は、'70〜'80年代にアメリカのクライミング界が抱え込んだ状況と近似した問題を、日本のフリー・クライミングにもたらしている。それは普及と表裏をなす問題である。普及は必要だ。だが不用意な普及は、なんらかの問題を引き起こす。
 それは、今回のような問題だけではない。チッピングの横行、ボルトラダーと見まがうばかりのルート開拓もまた、過剰な大衆化のもたらしたものといえるだろう。
 クライミングの世界は明るい健全なものになりすぎた。いや正しくは、そのように見せかけられすぎた。そのことが不用意な普及をもたらした。クライミングの表層だけを垂れ流す段階は終わりにしなければならない。たとえば、くり返し使われてきた「フリー・クライミングは安全だ」と言う呪文。これもまたクライミングをむやみに「お手軽化」した戦犯の代表格だろう。
 『Run Out』誌風にいえば、現在のフリー・クライミングには「思想」が欠落している、と言われても反論できない。今は、数を増やすのではなく、一人一人のクライミングの深化を考える段階にある。浮わついた「みんなで楽しくクライミング」式の記事は、極論すればもはや害悪でしかないだろう。普及の初期には、戦略的にそうしたことも必要だった。だが、その段階はとうにすぎている。
 いたずらな普及を私たちは追いかけすぎた。本当の責任は、あるとすればそこにある。

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