田中静壱

陸軍大将

 

略歴

明治20年10月 1日 兵庫県出身

明治39年11月  日 陸軍士官学校 卒業(19期)

大正 5年11月25日 陸軍大学校 卒業(28期、恩賜)

昭和10年 8月  日 歩兵第5旅団長

昭和12年 8月  日 関軍東憲兵隊司令官

昭和13年 8月  日 憲兵司令官

昭和16年10月  日 東部軍司令官

昭和17年 8月  日 第14軍司令官

昭和19年 8月  日 軍事参議官(兼)陸軍大学校校長

昭和20年 3月  日 第12方面軍司令官(兼)東部軍管区司令官

昭和20年 8月15日 終戦

昭和20年 8月24日 自決

 

宮城事件

終戦当時、第12方面軍司令官兼東部軍管区司令官となり、近衛師団の畑中少佐らが宮中の録音盤奪取を画策し

森師団長を殺害して蜂起した宮城事件では、陸軍幹部将校の叛乱に対して自ら皇居に乗り込み説得による鎮圧に

成功、この功績により8月15日の午後5時15分に昭和天皇の拝謁を賜った。

 

自決

8月24日、予備士官学校の生徒による川口放送局占領事件が発生、これを鎮圧した田中大将は司令官室で拳銃

自決、駆けつけた副官に「万事頼む」と言い遺して事切れた。

 

遺書

御聖断後、軍は良く統制を保ち一路大御心に副ひ奉りあるを認め深く感謝仕候。茲に私は方面軍の任務の大半を

終わりたる機会に於いて、将兵一同に代リ闕下に御詫び申し上げ、皇恩の万分の一に報ずべく候。

閣下並に将兵各位は、厳に自重自愛、断じて軽挙を慎まれ以て皇国の復興に邁進せられん事を。

 

聖恩の忝けなさに吾は行くなり

 

白鷺山

兵庫県龍野市

田中静壱紀功碑 勲功輝悠久

 

世紀の自決

更新日:2007/12/16