三浦 襄

実業家

 

経歴

明治21年 8月10日 宮城県仙台市出身

昭和17年 2月  日 陸軍第48師団今村隊の随員としてバリ島上陸

昭和17年 5月  日 海軍に統治後退、民生部顧問

昭和19年12月  日 病気療養のために日本に帰国していたがバリ島に再上陸

昭和20年 8月15日 終戦

昭和20年 9月 7日 首都デンパサールで自決(享年56才)

 

三浦 襄

 

太平洋戦争勃発以前のインドネシアはオランダの植民地だったが、昭和17年2月9日バリに日本陸軍が

進駐、400年にわたるオランダのインドネシア植民地支配は終りを告げた。

当初は中国大陸から転進してきた陸軍が支配したが5月に海軍に統治を交替、当時の軍政にあたった海軍

陸戦部隊長の堀内豊秋司令は軍律を遜守した厳しい指揮を行い、まもなくバリ島の治安は回復。

堀内豊秋は、現地の在留日本人で戦前から雑貨販売の販路拡張のための支社を設けてバリに居住し、主な

現地人と交流を深め信頼を築いていた三浦 襄に全幅の信頼を置き、海軍民生部は軍用食料・飲料水その

他資材の購入、さらに現地人との折衝や住民統治など民生業務の一切を三浦に依頼した、

三浦は通訳や民政部顧問として、民生業務には日本人を採用せず、陸軍が行った現地徴発を一切禁じ全て

の購買業務をバリの人々に任せ、さらに十人以上のオランダ時代の孤児を養育し、民生安定の為に宗教・

習慣の異なる人々を説得すべく全島をかけ巡った。

昭和19年 5月、三浦は病気療養のために日本に帰国していたが、同年9月にインドネシア独立を容認

する小磯声明が出され、三浦は「原住民と約束した帰国を断然履行せねば日本人の信用に関する。男子の一

言戦局が如何に吾れ非ざりと雖も、死が行手に待ちかまえていても使命は断じて果さねばならぬ」として

同年12月に再びバリ島へ戻った。三浦帰島の知らせは即座に島中に行き渡り「バパ・バリダタン ラギ」

(バリ島の父が再び戻った)。バリは歓呼の声に包まれた。

バリ島のシガラジャで独立に向けた「小スンダ建国同志会」が結成されると、三浦は日本人として唯一こ

の同志会に加わり事務総長に就任した。

昭和20年 8月15日、終戦の詔勅が下り情勢が一変、三浦氏はバリ島内39郡の郡長・村長・行政関

係者等に会い、日本としてオランダからの独立に援助不可能となった事を謝罪し、住民の理解と納得を求

めた。

 

自決の様子

昭和20年 9月 6日、首都デンパサールで親交の深かった知人に別れを告げ、帰宅し書斎に入ると仙

台にいる夫人と懇意の人々に4通の遺書をしたため、沐浴して身を清め真新しい衣類に着替えた。

インドネシアの独立が承認されるはずだった翌7日の午前6時、屋内を汚すことを恐れて中庭の囲いの中

に 端坐し、右のコメカミに拳銃をあて一発のもとに自決。

進駐したオーストラリア・オランダ軍は三浦の葬儀を許可し、三浦の棺は日本人の黙祷に送られて出棺、

三浦が設立に奔走した看護学校・小中学校の生徒に先導される長い葬列となり、その後には郡長・村長・

役 人など数百人と住民数千人が続き、延々と千数百メートルに及ぶ葬列が続く沿道の両側には紅白のイン

ドネシア国旗が初めて掲げられた。

三浦の墓は、「三浦襄はバリ人のために生き、インドネシア独立のために死んだ」という墓碑とともに、

デ ンパサール市の住民墓地で静かな眠りについている。

 

デンパサール市住民墓地

インドネシア共和国 バリ島

三浦 襄墓碑

墓誌

吾々は今まで絶えず諸君に日本精神を、武士道を或いは犠牲的精神を説き、君国の為には喜んで死ぬこと、

インドネシア独立の基礎は諸君の犠牲の血であり肉であらねばならぬことを強調してきた。

更に日本人が断言せる事は、必ず断行すると言う事実を諸君の前に示すことは、この三年有半育成せられた

る 諸君の覚醒せる精神に、更に一段の向上進歩を遂げしむる最期の教訓であることを私は信じるものである。

今私は穢れてしまった肉体をかなぐり捨てて、清く正しい憐憫と感謝に満つる霊魂となりてバリ島に止まり

吾 が敬愛し親交せる一三〇万同胞の繁栄と幸福とを祈り念ぜんとするものである。

諸君よさようなら。

皇紀二六〇五(西暦一九四五)年九月七日午前六時 バリ島一三〇万兄弟諸君 三浦 襄

 

輪王寺墓地

宮城県仙台市青葉区

三浦襄の遺髪を納めた三浦家墓地

 

世紀の自決

更新日:2013/03/03