阿南惟幾

陸軍大将、陸軍大臣

 

略歴

明治20年 2月21日 大分県竹田市出身

明治33年 9月  日 広島陸軍幼年学校 卒業

明治38年11月  日 陸軍士官学校 卒業(18期)

明治39年 6月  日 歩兵第一連隊付

大正 7年11月  日 陸軍大学校 卒業(30期)

大正 8年 4月  日 参謀本部付

大正12年 8月  日 サガレン州派遣軍参謀。

大正15年 4月  日 軍令部参謀

昭和 3年 8月10日 歩兵第45連隊留守隊長

昭和 4年 8月 1日 侍従武官

昭和 8年 8月 1日 近衛歩兵第2連隊長

昭和 9年 8月 1日 東京陸軍幼年学校長

昭和11年 8月 1日 陸軍省兵務局長

昭和12年 3月 1日 陸軍省人事局長

昭和13年11月 9日 第109師団長

昭和14年10月14日 陸軍次官

昭和16年 4月10日 第11軍司令官

昭和17年 7月 1日 第2方面軍司令官

昭和19年12月26日 航空総監(兼)軍事参議官

昭和20年 4月 7日 鈴木貫太郎内閣 陸軍大臣

昭和20年 8月14日 自決

昭和20年 8月15日 終戦

 

自決

戦時最後の陸軍大臣を務めた阿南惟幾は、ポツダム宣言の受諾に抗し昭和天皇の聖断が下る最後の瞬間まで

戦争継続を主張し続けたが、昭和天皇の終戦の意志が固いことを知り軍事クーデターをほのめかす部下の軽挙

妄動を戒めながら、最終的に同意。

8月14日夜、陸相官邸で自刃。部下の介錯を拒み翌15日朝絶命。

日本の内閣制度発足後、唯一の現職閣僚の自殺であった。

 

遺書

一死以て大罪を謝し奉る

昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾

神州不滅を確信しつつ

 

辞世

大君の 深き恵に 浴みし身は 言ひ遺こすべき 片言もなし

 

真意

阿南惟幾は終戦を望む天皇の真意を悟り、阿南自身の本心も終戦にあったとの節が有る。

しかし阿南自身が終戦を唱えれば、阿南は陸軍に暗殺され後任の大臣が出ず鈴木内閣は総辞職し、終戦が

実現しない事も予想され、天皇が最も恐れた「陸軍の暴発」と「倒閣」を招く惧れがある。

これを阻止するために、表向きは強硬な言動により主戦論者を装い、戦争継続・本土決戦を主張し続けた。

因みに鈴木貫太郎内閣総理大臣とは、昭和 4年当時に侍従長と侍従武官という関係だった。

 

防衛省

東京都新宿区

写真提供 K-N様

陸軍大臣 陸軍大将 阿南惟幾荼毘の碑(左)

 

靖國神社

東京都千代田区

阿南惟幾陸軍大臣 血染の遺書

 

多磨霊園

東京都府中市

取材協力:小村大樹氏(多磨霊園著名人研究家)

  

阿南惟幾之墓                                  阿南惟幾辞世歌碑

 

広瀬神社

大分県竹田市

陸軍大将阿南惟幾顕彰碑

 

世紀の自決

更新日:2008/01/14