伴 勝久
海軍少佐
略歴
大正 7年 9月 2日 愛知県碧海郡高瀬町 出身
昭和15年 8月 日 海軍兵学校 卒業(第68期)
昭和15年 8月 日 軍艦香取 乗り組み
昭和15年10月 日 軍艦神通 乗り組み
昭和17年 6月 1日 特殊潜航艇艇長としてシドニー湾へ突入
散華(享年23歳)
昭和17年 6月 5日 戦果を大本営発表
愛知縣護國神社 桜華会館
愛知県名古屋市中区
伴 勝久海軍少佐 遺影 遺品(故郷への書簡)
観音寺
愛知県高浜市
殉國義士碑 故陸軍大尉伴 正巳 故海軍少佐伴 勝久 之碑
豪シドニー湾で特殊潜航艇 発見
シドニー湾で発見された特殊潜航艇(左:共同通信社、右:豪民放TV チャンネル9)
平成18年12月 2日 共同通信
「運命の日」目前に魂の生還 旧帝国海軍の潜航艇
今月8日は、わが国が先の大戦に突入してから65年にあたる。「運命の日」を1週間後に控えた1日、オーストラリアで
60年以上も行方不明になっていた旧帝国海軍の特殊潜航艇が確認された。もしかしたら、艇内には乗組員の遺体があ
るかもしれない。長い時をへて発見された潜航艇は、われわれに何を語りかけるのだろうか。
潜航艇は、シドニー北部沿岸から約5・6キロ離れた深さ約70メートルの海底から見つかった。今年11月半ばに地元の
アマチュアダイバーが見つけ、オーストラリアの民間テレビが11月26日、その映像を放映し オーストラリア海軍が確認
作業を行っていた。
共同通信によると、オーストラリアのキャンベル環境・自然文化遺産相が1日、この潜航艇について戦争初期のシドニー
湾攻撃に参加した旧日本軍の特殊潜航艇と確認されたことを明らかにした。
この潜航艇は1942(昭和17)年5月31日夜、連合軍艦船を攻撃するためシドニー湾に入った潜航艇3隻のうちの1隻
だ。魚雷を発射、追撃を振り切った後、行方不明となっており、64年ぶりに所在が確認されたことになる。
潜航艇には当時、伴 勝久中尉(23)=愛知県出身=と芦辺 守1等兵曹(24)=和歌山県出身=が乗っていた。
艇内には破壊用の爆弾2発が残っている可能性があり、非常に危険だという。
キャンベル氏は声明で「乗組員の行方はまだ解明されていない。日本政府と協力し、すべての問題が慎重に取り扱われ
るようにしたい」と述べており、オーストラリア政府は潜航艇を引き揚げるかどうかを日本政府と協議していくことになる。
平成18年12月 2日 日豪プレス
特殊潜航艇、正式確認さる/RSL、日本政府の意向を尊重
12月1日、文化遺産担当大臣イアン・キャンベル上院議員は、シドニー郊外ノーザン・ビーチ沖合3海里の
砂地の海底で発見された船体が、豪海軍の検査と海軍史産収集部の説明から、1942年5月のシドニー湾
攻撃以来行方不明になっていた日本海軍特殊潜航艇であることが公式に確認されたと発表した。キャンベル
大臣は、艇の火薬はまだ爆発能力を持っている可能性があり、誰も艇に近づかないよう警告すると同時に艇
から半径500メートルの範囲を保護水域に指定、艇の遺構と遺体を法律で保護すると宣言した。指定後この
水域では無許可で水中に入ることも船舶の停泊や航行も禁止される。また、NSW政府のフランク・サートー計
画大臣は緊急措置として暫定史産指定を発令、遺構を損壊した者は最高110万ドルの罰金または6か月の
禁固刑を受けると警告し、「特殊潜航艇の発見は、豪日両国にとって重要な意義があり、遺構は最大限の敬
意と名誉で扱われる」と発表した。これとは別にRSL(復員軍人同盟)のビル・クリューズ会長は、公式確認を
受けて「艇は日本国の財産であり、日本政府がその処分を決められる。RSLは日本政府の意向を尊重する
が、乗組員2人が艇と運命をともにした可能性が高く海洋墓地として遺構を現況のまま保存することが適切と
考えるし、日本政府もおそらくそうするだろう」と語った。また発見したダイバーのグループが、艇を荒らさず、
秘密のまま海軍に連絡したことを評価し、「遺構を盗難や破壊から守ることは現実には困難だが戦争墓地と
いう事実がイタズラを防ぐことを希望する」とした。
平成18年12月 3日 読売新聞
「兄の墓 ようやく見つかった」 碧南の伴さん 安堵
豪州政府は、シドニー沖の海底で見つかった沈没船について第2次世界大戦中に行方不明になっていた
旧日本軍の特殊潜航艇と確認されたと発表した。潜航艇には当時、愛知県出身の伴勝久中尉ら2人が乗
り組んでおり、64年ぶりの発見に、伴中尉の弟の医師和友さん(74)(愛知県碧南市)は「ようやく兄の墓
が見つかった、という感じだ」と安堵(あんど)の表情を見せた。
見つかった潜航艇には伴中尉と芦辺守1等兵曹の2人が搭乗。1942年5月31日にシドニー港を攻撃後、
行方が分からなくなっていた。
和友さんは2日、自宅で「過去、潜航艇が見つかったという話が出るたびに兄が乗っていた艇ではと期待し
たが、いずれも違っていた。今回は現地の日本大使館や部隊OBの人たちでつくる『特潜会』からも間違い
ないだろうと聞いていた。確認されたということで、安心しました」と心境を語った。
和友さんらは8人きょうだい。2日は、昨年94歳で亡くなった勝久さんの姉、高須芳子さんの一周忌法要が
あった。芳子さんは年が近いこともあり、きょうだいの中でも一番勝久さんと仲が良かったといい、和友さん
はさっそく霊前に報告した。「シドニーを訪ねたいとの思いはあるが、遺骨や遺品の引き揚げは求めない。
そのままそっとしておくのがいいと思う」と和友さん。
今でも、最後の帰省から任地に戻る際の勝久さんの後ろ姿を時々思い出すという。
更新日:2006/12/27