伊号第三十三潜水艦

 

戦歴

昭和17年 6月10日 三菱神戸造船所にて竣工

昭和17年 6月10日 第一潜水戦隊第十五潜水隊に編入

昭和17年 8月15日 呉発、ソロモン方面で散会配備

昭和17年 9月25日 トラック入港

昭和17年 9月26日 修理中、事故により沈没

昭和17年12月29日 引揚完了

昭和18年 3月 2日 日豊丸に曳航されトラック発

昭和18年 3月14日 呉入港、修理

昭和19年 4月 1日 呉鎮守府部隊に編入

昭和19年 6月 1日 第十一潜水部隊に編入

昭和19年 6月12日 伊予灘にて訓練中、事故により沈没

昭和19年 8月10日 除籍

昭和28年 7月23日 引揚

昭和28年 8月18日 解体開始

 

事故

昭和19年 6月12日、二度目の急速潜航訓練に入ったときに事故は起こった。

給気筒の弁に木材片がはさまったまま潜航し機関室に浸水、十分足らずの間に60メートル

の海底に着底した。

100余名の乗員は持場で懸命の復旧作業に当ったが、事態は好転しなかった。

和田艦長は九死に一生の脱出手段としてハッチを開けさせた。しかし生還できた乗員は2名

のみで、艦長以下102名の乗員は潜水艦と共に沈んだ。

  

 

引揚

昭和28年の夏、伊33潜は9年振りに引き揚げられた。しかし艦の釣り合いが取れず引揚作業

は難航した。それは前部魚雷発射管室が浸水していないことを物語っていた。

7月21日、前部魚雷発射管室のハッチが開けられた。そこに残されていたのは、肉付き豊かに

眼も髪も黒々と冷凍保存された生前さながらの兵士の遺体だった。

この情景に、生残った2名のうちの一人・O兵曹は「おい総員起しだ」と叫び、9年前と変わらぬ姿

で眠る戦友の冷たい肌を叩くのだった。

  

 

遺書

電動機室から、ゴムテープで手すりに貼りつけられた油紙の包みと氷枕に収められた

遺書が見つかった。

 

訓練にて死するは誠に残念なり。しかし今はあらゆる努力をなしたれども刻々

浸水するのみ。最後までがんばる。

帝國海軍の発展を祈る。我死するとも悔ゆることなし。

 

午後四時四十五分、O分隊士号令の下に皇居遥拝。君が代。万歳三唱。

 

死に直面して何と落ち着いたものだ。冗談も飛ぶ。

もう総員起しは永久になくなったね。

 

興居島

愛媛県松山市

  

伊號第三拾三潜水艦慰霊碑

碑文

昭和十九年六月十三日、本艦は太平洋戦場に出撃の為、呉を出港。伊予灘で急速潜航運動中、不慮の災禍

に会い、由利島南方水深六十一米の海底で悲しみの日を過ごされたが、呉市北星舩舶工業株式会社の犠牲

的努力と地元有志の協力を得て、此地点沖で浮揚作業の効成り、慰霊の祭典を営み、多数遺家族の方々と

無言の対面が出来たことを記念し、其霊を慰める為、此処に記念の碑を貽す。

 

伊予灘/伊33潜の沈没海域

 

東郷神社

東京都渋谷区

  

潜水艦殉国碑 …伊33潜の潜望鏡

 

2003.06.08 伊号第三十三潜水艦六十回忌洋上慰霊祭

 

潜水艦部隊

更新日:2004/10/23