大西瀧治郎

海軍中将

 

略歴

明治24年 6月 2日 兵庫県氷上郡芦田村出身

明治45年 7月17日 海軍兵学校卒業(40期)

明治45年 7月17日 「宗谷」乗り組み

大正 2年 5月 1日 「筑波」乗り組み

大正 3年 5月27日 「河内」乗り組み

大正 3年12月 1日 海軍砲術学校普通科学生

大正 4年 5月26日 海軍水雷学校普通科学生

大正 4年12月 1日 「若宮」乗り組み

大正 5年 4月 1日 横須賀海軍航空隊付き

大正 7年11月 1日 横須賀鎮守府付き(英仏へ出張)

大正10年 8月 6日 横須賀海軍航空隊付き

大正10年 9月14日 海軍砲術教官、海軍水雷学校教官

大正11年11月 1日 横須賀、霞ヶ浦海軍航空隊教官

大正12年11月 1日 海軍省教育局員心得

大正14年 1月 7日 霞ヶ浦海軍航空隊教官

大正15年 2月 1日 佐世保海軍航空隊飛行隊長

昭和 2年12月 1日 第一艦隊司令部付き、連合艦隊参謀

昭和 3年 2月21日 結婚

昭和 3年11月16日 「鳳翔」飛行長

昭和 4年11月 1日 航空本部教育部員

昭和 7年 2月 1日 第三艦隊参謀

昭和 7年11月15日 「加賀」副長

昭和 8年10月20日 佐世保海軍航空隊司令

昭和 9年11月15日 横須賀海軍航空隊副長

昭和11年 4月 1日 海軍航空本部教育部長

昭和14年10月19日 第二連合航空隊司令

昭和15年 5月12日 重慶作戦

昭和16年 1月15日 第十一航空艦隊参謀長

昭和16年12月 8日 ハワイ真珠湾攻撃

昭和17年 3月20日 海軍航空本部総務部長

昭和18年11月 1日 軍需省航空兵器総局総務局長

昭和19年10月19日 神風特別攻撃隊を編成/比島

昭和19年10月20日 第一航空艦隊司令長官

昭和20年 1月10日 第一航空艦隊移転(比島→台湾)

昭和20年 5月19日 軍令部次長 

昭和20年 8月15日 大東亜戦争終戦

昭和20年 8月16日 渋谷・南平台の官舎にて割腹自決(享年55歳)

 

 

特攻の系譜

 

大海指四三一号発令 特殊奇襲兵器

 

神風特別攻撃隊の編成/昭和19年10月19日 二〇一空

マリアナ沖海戦に惨敗しサイパンも陥落して、日本の絶対国防圏は崩壊の寸前だった。大本営は戦勢の

挽回を図るべく捷一号作戦を発動し、栗田艦隊のレイテ湾突入を支援するため、陸・海・空が三位一体と

なった攻撃計画が策定された。

しかし第一航空艦隊の実動機数は30機余りの状況だった。

戦局は皆承知のとおりで、もし今度の捷一号作戦に失敗すれば、それこそ由々しき大事を招くことになる。

それには敵空母の甲板をつぶして飛行機の発着を不可能にする必要がある。少なくとも1週間、空母の甲板

が使えなければ良いことだ。そのためには零戦に250キロ爆弾を抱かせて体当りさせるほかない。これ以

上に確実な方法は無いと思うが。

 

大西中将の訓示/昭和19年10月20日 敷島隊員への挨拶

日本はまさに危機である。しかもこの危機を救いうるものは、重臣でも大臣でも軍令部総長でもない。むろん

自分のような長官でもない。それは諸氏の如き純真にして気力に満ちた若い人々のみである。従って自分は

一億国民に代わって皆にお願いする。皆の成功を祈る。皆は既に神であるから、世俗的な欲望は無いだろう

が、もし有るとすれば、それは自分の体当りが成功したかどうかであろう。皆は永い眠りにつくのであるから、

それを知 ることは出来ないであろう。我々もその結果を皆に知らせることは出来ない。自分は皆の 努力を

後まで見届けて、上聞に達するようにしよう。この点については皆安心してくれ。 しっかり頼む。

 

門司副官の回想/大西中将の敷島隊員への挨拶を聞いて

チグハグな感じが無く純一な雰囲気だったのは、長官が自分は生き残って、特攻隊員だけを死なせる気持ち

が無かったからに違いない。はっきりした言葉には出さなかったが、それは私にも判ったし、搭乗員にはもっと

敏感に伝わったようである。

命ずる方と、命じられる方に、気持ちのズレが無かった。

 

宇垣 纏中将「戦藻録」/昭和19年10月21日

第一航空艦隊は現戦局に鑑み、二〇一空艦戦二十六機をもって神風特別攻撃隊を編成。これを四隊に区分

し、敵空母比島東方海面出現の場合これが必殺を期し、攻撃の成果を水上部隊突入前にこれを期待すと。

ああ、尊きかな、この精神。

百万の敵、千隻の空母なほ恐るるに足らず。全軍斉しくその心一なればなり。

 

 

 大西海軍中将の心情

 

死生感

 決死不如不思死生

 決死は死生を思わざるに如かず

 

 独白

 わが声価は棺を覆うて定まらず。

 百年の後、また知己なからんとす

 

遺書

特攻隊の英霊に日す 善く戦ひたり深謝す 最後の勝利を信じつつ肉弾として

散華せり

然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに到れり 吾死を以て旧部下の英霊と其の

遺族に謝せんとす

次に一般青少年に告ぐ 我が死にして軽挙は利敵行為なるを思ひ 聖旨に副ひ

奉り自重忍苦するの誡ともならば幸なり 隠忍するとも日本人たるの矜持を失

ふ勿れ 諸子は国の宝なり 平時に処し猶克く特攻精神を堅持し日本民族の福

祉と世界人類の為 最善を尽くせよ

 

辞世

これでよし 百万年の 仮寝かな

すがすがし 戦のあとの 月清し

 

 

靖國神社

東京都千代田区

大西瀧治郎海軍中将 遺品

 

西芦田共同墓地

兵庫県氷上郡青垣町

大西瀧治郎海軍中将 墓碑

辞世

すがすがし 戦のあとの 月清し

 

総持寺

神奈川県横浜市鶴見区

大西瀧治郎海軍中将 墓碑(分骨墓)

 

海鷲観音

由来

大西瀧治郎海軍中将の未亡人・淑恵さんが、夫の命令により若くして散華した特攻隊員たちを慰霊するために

建立を念願し、七回忌から一年遅れの昭和27年に建立されれたものです。

 

大西瀧治郎君之碑

 

遺書 の碑

 

果断の提督    神風特攻隊    世紀の自決

更新日:2010/08/24