海軍戦跡

川棚海軍工廠

長崎県東彼杵郡川棚町

 

沿革

昭和17年 1月15日 佐世保海軍工廠の川棚分工廠として起工

昭和17年10月15日 分工廠が開庁創業、九一式航空魚雷を製造

           川棚に分工廠が設置されたことに伴い、魚雷発射場の施設がさらに拡張され、

           その際に片島は海峡が埋め立てられて陸続きとなった。

           軍用地の総面積は、川棚町の耕地総面積の三分の一となった。

昭和18年 5月 1日 川棚海軍工廠として独立、航空魚雷工場として日本一の生産能力

昭和19年       工廠施設の疎開移転を開始

昭和20年 8月15日 終戦により閉庁、戦後処理

 

川棚港

長崎県東彼杵郡川棚町

川棚海軍工廠跡

説明版

佐世保海軍工廠は、昭和十七年(一九四二年)初、軍備増産と空爆被害の分散を図るため、百津郷の

海浜約二〇町歩を埋め立てて工場を急造し、川棚分工廠を設置した。

さらに翌十八年には、分工廠から格上げされて川棚海軍工廠が正式に開庁した。

川棚海軍工廠は、当時日本一の水雷工場といわれ、雷撃機に搭載する九一式航空魚雷を生産した。

その後、戦局は激しさを増し、米軍機による爆撃は全国に及んだので、工廠の重要施設は急遽疎開

退避することになり、十九年初め風南山から石木の浦川内一帯に疎開した

平成一八年(二〇〇六年)  川棚町教育委員会

 

川棚川沿いの遺構 ビット

 

川棚川沿いの遺構 監視所

 

川棚川の河口 大村湾

 

城山公園

長崎県東彼杵郡川棚町

歴史と平和の塔

碑文

全国各地から動員された工員たちで町はあふれていた。工員達の青春の一ページが刻まれた「川棚海 軍工廠」−。

現在は過去と未来の接点であり、歴史があり、現在がある。工廠跡地の一望できるこの地 に忘れてはならない歴史

を刻み、未来へと続く平和も祈る。平和を願う時計塔を中央に配し、前後をヒス トリーウォールで囲んだ。側面か

ら見ると工廠のシルエットが浮かび、上空から見ると川棚町章の形に見 える。全体に半地下壕の工場や鋸屋根、煙

突など工廠の町の当時の風景をイメージさせるものにしている。

 

歴史と平和の塔のレリーフ(川棚海軍工廠の風景)

 

城山公園から望む川棚海軍工廠の敷地

 

石木郷

長崎県東彼杵郡川棚町

川棚海軍工廠 石木疎開トンネル工場跡

説明版

昭和十九年(一九四四年)太平洋戦争は激しさを増し、川棚海軍工廠の施設も爆撃目標にさらされた ので、

重要施設は石木郷一帯に急遽疎開退避した。

ここ風南山麓には当時二〇本以上のトンネルが約二〇m間隔で掘られ、工場として稼働した。トンネル 工場

の規模は平均で高さ三m、幅四m、最奥部は横坑で連結され、各坑道の片側に工作機械が並び、 二四時間三

交代制で航空魚雷が生産された。

戦局の悪化に伴なう人手不足のため、中学生や女学生までもが作業要員として動員され、作業に従事した。

平成一八年(二〇〇六年)  川棚町教育委員会

 

トンネル工場の内部

 

川棚海軍工廠 石木疎開トンネル工場跡

 

川棚海軍工廠 石木疎開トンネル工場跡

 

川棚海軍工廠 石木疎開トンネル工場跡

 

川棚海軍工廠 石木疎開トンネル工場跡

 

川棚海軍工廠 石木疎開トンネル工場跡

 

川棚海軍工廠 石木疎開トンネル工場跡

 

海軍工廠

更新日:2014/06/21