鉄心隊(第五 八紘隊)
資料提供:小林 実様(印旛航空機乗員養成所五期生、同回想集出版委員会代表)
写真提供:毎日新聞社
鉄心隊は、松井中尉(陸士56期)を隊長に総員12名。そのうち将校8名、下士官4名である。
鉄心隊が使用した飛行機は、九九式襲撃機であるが、同機は戦場の肉眼偵察、低空飛行によ
る攻撃、戦場爆撃などが主な用途で、艦船攻撃には不向きだった。脚は固定脚で速度が比較
的遅いので、当時すでに実戦では使用されなくなっていた。
万朶隊、富嶽隊の使用した爆撃機は、事前に体当り用に改装されていたが、八紘隊は比島での
戦況の急激な悪化のために早急に編成されたので、現有機がそのまま特攻攻撃に使用された。
操縦士訓練用に、すでに二千五百時間も飛んだ老朽機に、基準の二倍もの爆弾を抱かせて、ア
メリカの輸送船に体当りさせるのだ。
鉄心隊は、十一月六日の編成後まもなく、十一月八日の午前十時、故国を後に比島に向
け鉾田を発進した。
小西師団長と決別の握手
特攻隊長・松井 浩中尉の訓辞
わが八紘隊はあの青空で全員死ぬのだ。あの美しい雲を見ろ。あの白い雲が俺達パイロットの暖
かい毛布なのだ。今までの血の出るような訓練は、ただ一度だけの実戦のためであった。しかし俺
達には任務が有る。敵艦を撃沈させない限り、絶対死んではならない。
鉾田飛行隊全員の見送りの中を、一機、一機と飛び立って、低空飛行で翼を大きく振り、別離を
惜しんだ。
出撃前の鉄心隊
鉾田−大阪−九州−沖縄−台湾と、単発機の悲しさで、燃料を補給しながら飛んだ。フィリピン
の最終出撃基地への到着時間は、まちまちであったが、松井隊長機以下、西山少尉、長濱伍長
の3機は最も早く、十一月十六日にマニラ郊外のカローカン飛行場に到着した。
整備員の手記
フィリピンに着き、やれやれと翼を広げ休もうとすると、翌日早く出撃せよとの命令。その晩徹夜
して点検、整備したがプロペラの回転ができない。(中略)老朽機のせいで、ピストンリングが磨耗
して、点火栓にオイルが付着して点火しない。整備隊長に報告したが、「致し方なし、出撃させよ」と
のことで、飛ばせることになった。
爆弾は正規の搭載量の二倍搭載して飛ばせるのだから、回転しなかった場合、浮力が無くなり、
海中に墜落してしまう。機関銃も搭載していたが、二倍の爆弾を抱えては、空中戦を挑むわけにも
いかないでしょう。無謀でした。日本の軍隊では、勝つためには、あらゆる犠牲を払いました。その
ために尊い若い操縦士の生命をたくさん奪ってしまいました。
鉾田基地を発進する鉄心隊
十二月五日午後三時過ぎ、鉄心隊の三機が次々にカローカン基地から飛び立った。その日は雲
量ゼロの快晴。マニラから東海岸に出ると、高度四、五十メートルの低空を飛んだ。すでに日没の
迫ったレイテ湾の上空に入ると、機体の両側の下に船が見えた。なかでも左側に見えた一船は、
一番大きく見えた。松井隊長機は、まっすぐにその方向に進んだ。
更新日:2003/01/08