山口 多聞

海軍中将

略歴

明治25年 8月17日 東京市出身

明治45年 7月  日 海軍兵学校卒業(40期)

大正 5年12月  日 第三潜水艦隊

大正 7年 8月  日 第二特殊艦隊、駆逐艦「樫」航海長

大正10年 3月  日 アメリカ駐在武官、プリンストン大学入学

大正12年  月  日 海軍潜水学校教官兼分隊長

大正13年  月  日 海軍大学校甲種学生

昭和 3年 2月  日 軍令部参謀兼艦政本部技術会議議員

昭和 4年 9月  日 ロンドン軍縮会議全権委員随員

昭和 5年11月  日 軍令部参謀兼第一艦隊参謀、戦艦「長門」に着任

昭和 7年  月  日 海軍大学校戦略教官

昭和 9年 8月  日 アメリカ大使館付武官(ワシントン赴任)

昭和11年12月  日 巡洋艦「五十鈴」艦長

昭和12年12月  日 戦艦「伊勢」艦長

昭和13年11月  日 第五艦隊参謀長

昭和15年 1月15日 第一連合航空隊司令官、航空母艦「飛龍」に着任

昭和16年12月 8日 ハワイ真珠湾攻撃

昭和17年 6月 5日 ミッドエイ海戦、戦死(享年50歳)

「飛龍」第二次攻撃隊の雷撃を受ける米空母「ヨークタウン」

 

炎上する「飛龍」

 

宇垣 纏「戦藻録」

級友山口多聞少将を失う。痛恨限りなし。余の級友中、もっとも優秀な人傑を失うものなり。航空艦隊

唯一の空母として奮戦、敵空母を仕留めたるも自らも矢折れ刀尽きて遂に沈没するに至る。司令官の

責任を重んじ、ここに収容として艦と運命を共にす。その職務に殉ずる崇高の精神、まさに至高にして

喩ゆるに物なし

 

青山墓地

東京都港区

墓碑

 

呉市海事歴史科学館

広島県呉市

  

山口中将の参謀肩章                                                   .

.                飛龍に掲げられていた少将旗 …沈没に際し主席参謀 伊藤清六中佐に託された

 

果断の提督

更新日:2007/05/06