水上特攻

 

出撃命令

3月24日、連合艦隊から出撃準備命令

3月29日、戦艦「大和」、軽巡「矢矧」以下、三田尻沖に停泊

4月05日、連合艦隊から機密電

「第二艦隊は四月六日内海を出撃し、沖縄嘉手納沖の米部隊に対して水上攻撃

を敢行せよ。攻撃は四月八日黎明に予定せらる。」

 

航路の選択や気象条件を分析することも無く、出撃日・突入時刻を決められたので

は、隠密行動の余地は無い。制空・制海権のない洋上で航空機の掩護無しに白昼

行動することは、沖縄に到達できる可能性は無いに等しい事を物語っていた。

 

第二艦隊司令長官:伊藤整一中将は、水上機で戦艦「大和」に飛来した連合艦隊参

謀長:草鹿龍之介中将の作戦説明に対して、はっきりと反対の意思を主張した。

伊藤中将

「成功の算なき作戦に、七千の部下を犬死させる訳にはいかない」

草鹿中将

「要するに一億特攻の魁となってもらいたいのだ」

伊藤中将

「作戦の成否はどうでもいい、死んでくれと言うのだな。」

「それならば何おか言わんや、わかった」

 

この作戦に先立ち、海軍兵学校を卒業したばかりの74期生が「大和」に49名、

「矢矧」に28名配属された。有賀幸作「大和」艦長は伊藤長官、森下艦隊参謀長

と図り、重病人とともに出撃前に退艦させている。

  

伊藤司令長官             有賀「大和」艦長

戦闘履歴

4月6日

16:15 第二艦隊、三田尻沖を出撃

4月7日

08:00 駆逐艦「朝霜」、機関故障で停止、その後敵襲で沈没

12:15 敵襲(第一波)、「大和」被弾

13:30 敵襲(第二波)、「大和」被弾

14:23 「大和」沈没

  

攻撃を受ける戦艦「大和」

艦名

菊水一号作戦

その後

戦艦

大和

20.04.07沈没/東シナ海

  

軽巡

矢矧

20.04.07沈没/東シナ海

  

駆逐艦

冬月

帰還

20.08.20触雷で大破

涼月

20.04.07大破/東シナ海

終戦

磯風

20.04.07沈没/東シナ海

  

浜風

20.04.07沈没/東シナ海

  

雪風

帰還

賠償艦として中国へ引渡

朝霜

20.04.07沈没/東シナ海

  

初霜

帰還

20.07.30触雷で沈没

20.04.07沈没/東シナ海

  

 

戦果

作戦的なダメージはゼロ

 

喪失

戦艦一隻、軽巡一隻、駆逐艦五隻

戦死者 3、721人

 

伊藤長官は「大和」の沈没が決定的になった時点で、参謀の「駆逐艦に移乗し

沖縄へ突っ込むべき」という意見具申を制し、「作戦中止、残存艦艇は内地に

帰投すべし」と強く命令して、長官室に入り内側から錠を下ろした。

 

呉海軍墓地

広島県呉市

  

戦艦大和戦死者之碑                 軽巡矢矧戦没者慰霊碑

 

靖国神社

東京都千代田区

冬月会献納額

 

妙法華寺

静岡県三島市

駆逐艦朝霜慰霊碑

 

山田記念病院

東京都墨田区

駆逐艦初霜主錨

※山田記念病院の経営者は、昭和十五年当時に軍医長として「初霜」に乗り組んでいた。

 

海上自衛隊 幹部候補生学校・第一術科学校

広島県安芸郡江田島町

駆逐艦雪風主錨

 

沖縄決戦

更新日:2008/10/13