巡洋艦
摩耶
艦歴
昭和 3年12月 4日 起工(川崎造船所)
昭和 5年11月 8日 進水
昭和 7年 6月30日 就役
昭和12年 8月20日 日華事変に出動、上海上陸作戦・華北攻撃等に参加
昭和16年12月 日 フィリピン攻略に参加
昭和17年 4月 日 東京空襲を行ったドーリットル隊の追撃戦に参加
昭和17年 5月 日 アリューシャン列島侵攻作戦に参加
昭和18年11月 5日 ラバウル空襲により左舷機関室を損傷
昭和18年 月 日 修理および対空兵装強化の改装のため横須賀に帰投
昭和19年10月22日 捷一号作戦に参加のためブルネイを出航
昭和19年10月23日 パラワン水道にて米潜水艦デイスの攻撃を受け魚雷4発が命中
. 船体が切断されおよそ8分で沈没、艦長以下336名が戦死
. 駆逐艦「秋霜」に769名が救助され、戦艦「武蔵」に移乗したが、
. 翌日の対空戦闘で更におよそ120名が戦死または行方不明
対空兵装を強化後の摩耶 …昭和19年5月、フィリピン・タウイタウイ泊地
天上寺
軍艦摩耶之碑
碑文
軍艦摩耶は帝國海軍第二艦隊第四戦隊の一艦として 大東亜戦争中は 南方部隊 北方部隊.
前進部隊 遊撃部隊に属し幾多の海戦に参加 最後にレイテ湾へ進撃中 潜水艦の雷撃を受け
沈没した 戦死者は艦長大江寛治少将以下四七〇名である
軍艦摩耶と戦死者の慰霊を念願する関係者一同の努力によって記念碑が建立され 軍艦摩耶は
南海の底からよみがえり ふるさと麻耶山上に その雄姿を現した
生命の限りを祖国に捧げ 青春のすべてを軍艦摩耶につくされた戦士たちよ ここにきて永遠の
平和の眠りにつきたまえ
昭和五十九年十月二十三日 元摩耶主計長 永末英一
摩耶山から望む神戸港
更新日:2010/05/02