峯 眞佐雄 奉職履歴

 

平成 5年 3月刊行 千葉県夷隅郡大原町大原町史 通史編」

回天基地(第十二回天隊)

 

はなやかな若者の集う大原海岸、漁船がせわしく行き交う大原漁港。

それにつらなる八幡岬はかつては別名、とんびざき(鳶岬)とも呼ばれ、太平洋を一望する大原隋一の観光名所

であり、小浜城址としても歴史に残る岬である。

その岬に、太平洋戦争末期に戦勢挽回のための特攻兵器、人間魚雷「回天」の基地があった。

 

「回天」は昭和十九年(一九四四)二月ごろ海軍で考案された。

潜水艦に搭載し敵艦に接近して発射し、あとは一人の搭乗員によって操縦され、体当りして撃沈するという

行きて還れぬことのできない「人間魚雷」であった。

全長一四・七メートル、胴直径一メートル(搭乗員一人が座れるだけの高さ)、総重量八・三トン、

最高三〇ノットで二三キロメートルの航続能力を持ち、頭部に一・五五トンの爆薬が装填され、

一発で巨艦をも撃沈し得る恐るべき兵器であった。

この「回天」は昭和十九年末より南方海域において戦果を挙げたが、米軍の本土上陸必至の情勢に至って、

今迄の潜水艦攻撃と併せ、全国各地の沿岸に配備すべく基地の建設が進められた。

小浜基地は関東地方では八丈島に次いでの建設であった。

 

(中略)

 

当時の特攻隊長 峯 眞佐雄氏が防衛庁戦史研究所の「回天」関係の書類中より発見した資料によると、

小浜基地は昼夜兼行の作業の結果、昭和二〇年七月末には長さ約四〇メートルの「回天」二基格納の隧道三本及び

通路・修理場・ポンプ室が完成し、他に独立した兵器庫・燃料庫も完成し、格納庫より直ちに出撃できるように、

海に向かってレールも敷かれていた。

居住区は帆万千館跡より大原漁港方面へ、六〇メートルにわたって大きく掘られたが、分路として現八幡荘(民宿)

に向けての通路もあり、基地員は七五名であった。

 

同二〇年七月三一日、光基地特攻隊長 三谷大尉の報告書

(防衛研究所図書館蔵「回天資料C特攻25」関東・中部・近畿回天基地視察状況報告中「小浜基地分」資料)

は次のとおりである。

 

小浜基地状況  以下( )は峯 眞佐雄氏の注訳

(一)位置(勝浦では)歩行十分にして本部

  東京−秋葉原−千葉−大原−勝浦

  (大原では)歩行二〇分にして小浜 東京よりの便稍良好なり

  大原駅下車二〇分歩行せば泊地に達す

  本部【12zg(12突撃隊の意)勝浦にあり 大原の次の駅

  環境 漁港にして基地又漁港の中にあり

  「回天「レール」と漁船引揚用「レール」とが一致するが如き状況なり

  機密保持に関し極めて重大なる留意肝要なり

(二)設営関係 作業現場は別図 付近の漁民家を接収しあり

  現在の作業員は其処に住みあり

  七−二六附 編成せられたる回天基地員(七三名)は七−二八小浜着

  基地関係の整備に着手せり

  居住区 糧食庫 調整場 火薬庫の隧道何れも完成極めて良好なり

(三)回天格納隧道 別図第二参照 極めて良好

  湿気又少なく作業丁寧にして而も全部内張りを施せる隧道一本あり

  計画は四型なるが故に隧道の大さは極めて大なるものなり

(四)軌道 水上レール全部完成 水中レール七月三〇日完成

  偽装作業 相当難しい

(五)引堤装置 滑り一組しかなし 架台 ワイヤ滑車なし その他完備

  八月一日以降何時進出するも差支へなし

  漁港なるが故に横抱艇には困難を感ぜざるべし

(六)基地員 七−二八編成終了

  基地隊長 高橋中尉

  警備隊長 池森少尉

(七)基地要員 回天関係以外を除き基地員と同時に進出しあり

  本部まで近き故極めて有利なり

(八)通信施設 明確に調査せさりしもTM軽便無線電信器一台装備の筈

  勝浦との間に直通電話設置しあり

(九)発進 漁港内に在り

  自力発進不可能なるも「ポンド」(港内)外への引出しは容易にして発進可能なり

(十)機密保持 漁港「ポンド」内に設計せられたるものなるが故に機密保持に関しては極めて不利なリ

  深甚なる注意と防諜上の方策を講ずるの要あり

 

「回天」は隧道より台車に載せられ、レールによって漁港内に運ばれ、キャッチボートの横腹に抱かれて港外に出、

そこから発進して目的の艦に体当りすることになっていた。

当時九十九里沖には米航空母艦が接近しており、その艦載機が連日のように当地方に対し、機銃掃射と爆撃を

行っていた。死者も出たし家も船も焼けた。

 

八月六日、山口県徳山湾・大津島の回天基地を発った第十二回天隊十二突撃隊は、その数日後着任した。

峯中尉以下六名の二〇歳前後の若者であった。

彼らは塩田川河口にあった旅館「翠松園」に宿泊し、「回天」の到着を待ったが、「回天」を運搬する輸送艦は

途中で触雷して到着せず、そのまま終戦を迎えた。

彼ら特攻隊員は死と定められた命を永らえ、戦後日本の復興を担った一員として生きた。

 

平成三年一〇月六日(雨)、特攻隊員であった峯 眞佐雄、伊藤兵次、高坂 林、中村八郎、

(青山善一、石田 忠の二氏は既に死去)

の四氏は、若き命をかけた大原の地を四六ぶりに再訪し、町史編集部員と共にその基地跡を探索した。

現在、その「回天」格納隧道出入口のほとんどは擁壁工事で蔽われており、ただ一ヶ所入壕できる無線局下の

入口も塵芥が堆積し、その奥に「回天」の基地があったとは信じ難かった。

大型の懐中電灯を頼りに入ると幅・高さ共に約三メートル、奥行約四〇メートル前後ほどの隧道三本と、

それに連絡する通路などがあり、まさに往年の基地跡が存在していた。

格納庫の壕内には装備の部品は全く消えて、壁面を刻んだ鶴嘴の跡、「回天」運搬のためのレールの枕木跡が

当時を偲ばせるだけであった。

また居住区も、大原漁港に面した出入口は石積み擁壁で整備されてはいるものの、民宿「八幡荘」側も

「帆万千館」跡側も埋もれて出入は不可能に近かった。

辛うじて調査した結果は、六〇メートルの長さという壕に時折、水滴の音がする暗黒の世界であった。

当時、八幡岬を含む丹ヶ浦一帯は、陸軍も米軍上陸に備えて壕を掘っており、防諜のために立入り禁止となっていた。

なお、この施設が実戦に参加するために終戦を迎えたため、戦史の表面に現れることはなかったが、

平成元年(一九八九)五月、地元城山区長より、防災上の観点からの調査要望書が町に提出されている。

 

終戦時、夷隅郡下に配備されていてた陸海軍部隊は表78のとおりである。

また、各部隊における装備は貧弱で、中には小銃を持たず、剣のみの兵卒もあったという。

大原町 における「回天」小浜基地のような資料や出動計画が明瞭なものは少ない。

 

表78

区 分

部  隊  名

兵 力

所 在 地

陸 軍

特設備第28中隊(捷7897)

125人

勝浦市墨名

第428連隊(護北22456)

495人

夷隅町

海 軍

第七特攻戦司令部

65人

勝浦市

第十二突撃隊

 

勝浦市

第3013設営隊

444人

大多喜町

『千葉県史』大正昭和編による

 

大原漁港

千葉県夷隅郡大原町 

 

     

回天格納濠(現存)

 

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更新日:2007/12/30