上原重雄
陸軍中佐
沼代占有地
神奈川県小田原市
写真および碑文の提供 K-N様
上原重雄陸軍中佐 戦死の地(鉄塔の真下)
故上原重雄之墓 上原重雄戦死之地(四式戦「疾風」のプロペラ )
説明版
昭和20年2月16日、相模湾沖に進行した航空母艦から発信したグラマン戦闘機延べ600機が初めて
関東地区を襲った。硫黄島上陸作戦を目前にした米軍の本土の目標に対する超低空からの集団攻撃
をしてきた。2日目を迎えた当地は朝から空襲警報下にあった。
午前10時頃攻撃を終えて南下してきた暗緑色の大編隊の群に単機捨身で突入した日本軍機があった。
衆寡敵せず不運にも本市小竹上空で被弾してしまった。機は相模湾上で反転し飛行場への帰還に向か
ったが、後続し南下する敵編隊の挟み撃ちにあい当地上空で炎につつまれ天蓋から身を乗り出して北方
の基地、皇居に両手を上げて決別しそのまま機とともに自爆し壮烈な戦死を遂げられた。その姿は当地
の人々に現在も鮮烈に残っている。
戦死した搭乗者は首都防衛飛行第22戦隊長上原重雄中佐であった。
歴戦の中佐は陸士第52期の卒業でスマトラ島のパレンバン航空隊を拠点として遠くニューギニア戦線ま
でも遠征し縦横無尽に活躍をし、特にB17爆撃機の迎撃には偉勲の戦士と言われている。
前年に祖国に帰り兵庫県加古川航空隊で教育にあたっていたが、20年1月愛甲郡愛川町中津にあった
第22航空戦隊長として着任した直後であった。当日は部隊が朝鮮平壌に移駐が決まり軍は迎撃中止を
命じていたが我が物顔の敵機の振る舞いに祖国の末路を案じてか、はやる部下隊員を掩体壕になだめ
おいて、自らは義憤の単機発進をされたものと思われる。
当地においては故人を偲び、当地区の戦死者として遺影を福泉寺に掲額し遺族会としても懇ろに供養し
ている。墓地の記念碑は搭乗機「疾風」のプロペラ4枚のなかの1枚である。
昭和28年9月3日建立 小田原市遺族会
. 故上原重雄之墓 上原重雄戦死之地(四式戦「疾風」のプロペラ )
墓碑裏面
百機 一機を以て挑戦
献歌
爆音のたへて 桜とちりぬるも 高きかんばせ 永遠にきへなん
更新日:2007/04/27