津空襲

 

昭和20年3月12日

贄崎・阿漕の海岸や安東・北河路の水田が爆撃されたが、早朝の海岸・水田であったため、

人的被害は出なかった。

 

昭和20年3月19日

長岡地区で死者一名。

 

昭和20年4月 7日

神戸地区で死者26名。

 

昭和20年6月26日

軍需工場等が攻撃目標とされ、死者174名・負傷者190名の被害。

 

昭和20年7月16日

P51艦載戦闘機70機によって津市内へ機銃掃射が浴びせられ、御殿場あたりでは死者も出た

様だが実態は不詳。

 

昭和20年7月24日

市街中心部に爆弾が投下され、死者約1,200名、負傷者約2,000名に達したと言われ

ている。

 

昭和20年7月28日

深夜から29日未明にかけて、焼夷弾が「雨あられ」の様に投下されて市街地一円が炎上し、

罹災家屋は約10,000戸、死者344名・行方不明38名。

 

被害者数は資料によってまちまちで、死者については1,492〜1,745名となり、戦後

の経済安定本部『太平洋戦争による我国の被害総合報告書』では1,885名となっている。

 

塔世橋

三重県津市

被爆欄干

説明文

旧塔世橋の親柱・高欄は、赤みがかった万成花崗岩を使用し美しく磨き出したもので、そのデザイン

には、それまでの様式にとらわれない落ち着いた中にも新しい技法が用いられ、昭和九年に建設され

たものでした。

その後、太平洋戦争の終わりに近い昭和二十年三月から七月の間に、津市内は何度も空襲を受け、こ

の高欄は七月二十四日の爆撃により橋脚・橋桁と共にところどころに被爆した傷跡が残り、平成元年

の架け替え工事が施行されるまで、そのままの状態で使用されてきまました。

これは、津市内に残る数少ない戦災の傷跡であり、戦争の悲惨さと平和の尊さについて考える貴重な

資料として後世に残すため、ここに移築保存したものです。

平成四年三月  津市

 

被爆欄干

 

JR阿漕駅

三重県津市

憲兵隊の塀に残る弾痕

説明文

太平洋戦争末期の1945年に津市は幾度も空襲を受け、2500余人の市民が犠牲になった。なか

でも7月24日の爆弾による無差別の空襲は津市の住宅密集地を壊滅させ、その4日後には焼夷弾に

よる空襲で市街地のほとんどは焼きつくされた。

阿漕駅付近では多くの死体が重なり、悲惨さを呈した。焼け跡には爆弾の破片でできたという弾痕の

ある元憲兵隊のコンクリート塀が残った。

当時の市民の無念を思い、戦争の悲惨さを後世に伝え平和を祈念して塀の一部をここに移した。

2005年5月  津平和のための戦争展実行委員会 津の戦争遺跡・遺物を守る会

 

蓮光院

三重県津市

焼け爛れた地蔵石仏

 

四天王寺

三重県津市

焼け爛れた地蔵石仏

 

都市空襲

更新日:2012/01/21