田無空襲

 

米軍の中島飛行機・武蔵野製作所を目標とする空襲は、4月に入ると集中的に行われ、

2日・7日・12日の三回の空襲では田無市・保谷市の住宅街も広域で被災した。

特に4月12日の空襲では国鉄田無駅・所沢街道の周辺に1トン爆弾が多数投下され、

この周辺だけでも50余名が犠牲となり、市内全域では130余名が亡くなった。

 

JR田無駅

東京都田無市

田無戦災記念碑

碑文

太平洋戦争末期の昭和二十年四月十二日 B29爆撃機の空襲により市内各所で百三十

余名という多数の犠牲者をだしました 駅前周辺だけで死者が五十余名 破壊家屋は五

十軒に達したといわれております

以来、その霊を多くの方々が慰めてきましたが田無駅北口再開発事業のため その慰霊

塔は田無山総持寺の一角に移りました

よって 戦争による田無の被災中心がこの地であることを末永く伝え 恒久の平和を願い

この碑を設けるものです。

平成八年三月  田無市

 

平和のリング

 

総持寺

東京都田無市

戦災者慰霊塔(平和観音)

碑文

太平洋戦争末期の一九四五年四月十二日 米軍機B29の爆撃により田無駅前において五

十数名の罪なき人々が一瞬にして爆死し、その他多数の人々が被災者となつた。更にこの

年の八月十五日の終戦までに田無全域において百数十の尊い命が爆撃の犠牲となった。

一九五七年四月十二日 被災地居住の歯科医海老沢太一氏が中心となり被災者遺族及び篤

志家により 金物店主下田武主氏が所有地を無償提供され 駅前の爆心地に観音像の戦災

者慰霊塔が建立された。

爾来、霊を同所で慰めてきたが アスタビル建設のため 一九九二年移転せさせるを得な

くなり 総持寺のご好意によりこの地を安住の地と定める事となり移住した。

田無駅前被災の中心地には「田無平和の日」条例制定記念として記念碑を設け この慰霊

塔はこの地で平和のシンボルとして子孫が平和を享受出来るように祈願する。

一九九九年四月十二日

 

宝晃院

東京都田無市

爆死者供養地蔵菩薩立像

 

都市空襲

更新日:2012/09/02