下関空襲

 

関門海峡を控え戦略的要衝の地である下関は、火の山・後田・金比羅・彦島等に砲台を備えた

西日本最大の要塞地帯であった。貴船町には要塞司令部があり、小月には関門海峡を防衛す

る航空戦闘隊、吉見には下関海軍防備隊が配置されていた。また彦島の三菱重工下関造船所

三井製錬、長府の神戸製鋼等の軍需工場、前田の下関発電所、関門トンネルなど戦略的重要

施設があった。

 

昭和19年6月、B29とB24の二十数機編隊が中国の成都基地から関門地域に飛来したのが

下関への初空襲であった。陸軍小月基地から飛び立った迎撃機により撃墜された米軍兵士が

落下傘で彦島に着地し市民に包囲されている。

 

昭和20年6月29日午前1時10分ごろ、B29の大編隊が壇之浦上空に現れ、壇之浦から赤

間町までの間・宮田町・唐戸町・東南部方面に焼夷弾を投下。市民は町内の消火班や隣組の

バケツリレーで鎮火をこころみたが手の付けようがなく、市内東部地区は焼け野原となった。

 

余煙が去らぬ7月2日午前0時10分頃、彦島・新地を除く旧市内中心部に油脂焼夷弾により焼

き尽くされた。特に凄絶を極めたのは通称「清和園」の畑地に逃れた約80人で、火煙に巻き込

まれ75人が折り重なるようにして犠牲になった。

 

二度の空襲で約420屯の焼夷弾が投下され、旧市街地の主な地域が焼け野原と化した。こうし

て市民324人が死亡、1,100人が重軽傷を負い、被災者は4万6千人を超えた。

建物被害は一万戸以上以上にのぼり、ガス・電気・水道・電話・電車の電線などが破壊され機能

は全て停止。また医療機関の七割が壊滅するなかで集団赤痢が発生するなど、市民生活は未

曾有の打撃を受けた。

 

下関空襲の大きな特徴は、多くの非戦闘員が殺傷され市民生活は壊滅的な打撃を受けたが、軍

事的要衝・軍需工場地帯が攻撃の対象から外され無傷のまま残された事である。

 

幸町保育園

山口県下関市

清和園 幸せ地蔵

 

都市空襲

更新日:2010/01/17