釜石艦砲射撃

 

釜石市は東北で唯一の製鉄所を持つ工業都市であったため、大規模空襲にみまわれる事を予測して

各地に監視哨が設置され高射砲連隊が駐屯していた。

 

昭和20年7月14日、釜石は本州初の艦砲射撃を受け2,565発もの砲弾が打ち込まれた。製鉄所を

中心に砲弾が集中し周辺の鈴子・只越・嬉石・松原地区等が大きな被害を受けた。砲弾の破片や爆風

で死傷する者、防空壕の崩壊で圧死する者が相次ぎ、更に艦砲射撃によって火災が発生し、市街地は

焼け野原となった。

 

8月9日、釜石は二度目の艦砲射撃を受け2,781発の砲弾が打ち込まれた。再び製鉄所が攻撃され

たほか、中妻・小川・小佐野等の社宅街が被害を受け多くの住民が犠牲となった。製鉄所は一回目の

被災から辛くも復旧し操業を再開できる状態になっていたが、この攻撃により工場は完全に破壊され、

機能を停止した。

艦砲射撃と合わせて艦載機による機銃掃射も行われたが、正式な記録は残されておらず詳細は不明。

 

二度の艦砲射撃により、市街地の殆んどの地域が被災し、被災4,543世帯、被災人員16,992人、

うち750余名の尊い命が奪われた。死者の中には連合軍捕虜32名も含まれている。

 

薬師山公園

岩手県釜石市

平和女神像

碑文

釜石市として、公の立場から釜石永遠の平和を祈念するために、平和像の建立が昭和二十七年から

計画され、沢田元釜石市長は市の予算に計上、平和像を薬師山上に建立することになった。

平和像は、盛岡短期大学堀江赴氏に依頼して製作したものであった。当初は平和観音像ということで

あったが、結局は平和女神像として昭和二十九年完成をみた。

建立場所になった薬師山上は、戦前より戦死者のための忠魂碑が建立された場所で、釜石市街を一

望にできる台地で、広場になっているところから、はやくから市民の憩いの場所でもあった。

第二次の艦砲射撃時には、山頂は高射砲陣地になったため、熾烈な砲弾を浴び、翌日のグラマンに

よる機銃掃射においても、高射砲陣地からの対空射撃と、艦載機との彼我の応戦は釜石における最

も激しい戦いであった。その時に忠魂碑(砲弾型の塔)が崩れ落ち、その碑の下敷きになって死亡した

犠牲者もあったのであるが、その地に平和の女神像を建立し、戦死戦災者の慰霊と釜石平和を祈念

するのには、もっともふさわしい場所であった。

平成二十一年三月  釜石市 「釜石艦砲戦災誌」より

 

  

平和女神像

 

艦砲射撃で崩れ落ちた忠魂碑

 

   

独立高射砲第三十四中隊の陣地跡(六角形の部分)から望む釜石湾

 

釜石湾

 

新日本製鉄 釜石製鉄所

岩手県釜石市

新日本製鉄 釜石製鉄所

 

平田トンネル

概況

二度の艦砲射撃により、十一基あった溶鉱炉はすべて破壊され壊滅的な製鉄所は打撃をこうむった。

従業員は防空壕やトンネルに避難したが、直撃を受け大量の犠牲者を出した。

トンネル内では従業員に混じって連合軍の捕虜も避難しており、アメリカ・イギリス・ニュージーランド・オ

ランダの捕虜32名が死亡した。

戦後、極東軍事裁判において安全対策が不十分との理由で、捕虜収容所分所長等3名が有罪判決を

受けた。

 

嬉石地区

岩手県釜石市

戦災死者の菩提を弔う地蔵菩薩と慰霊碑

概況

山林内の防空壕に砲弾が直撃し、約70名もの市民が死亡した。一家全滅した家庭も有った。

 

    

地蔵菩薩

銘文

為 昭和二十年七月十四日戦災死没者菩提

昭和二十二年

 

草叢の慰霊碑

 

釜石大観音

岩手県釜石市

  

第四十八号駆潜艇戦死者慰霊碑の紹介碑                           千鳥島(沈没海域)   

平和の誓いを新たに

はるか沖合い1300メートル 黒崎の突端と重なり合って見える千鳥島は 昭和二十年七月十四日

米海軍の釜石艦砲射撃のさい 日本海軍第四十八号駆潜艇(加藤本艇長以下一二一名乗組)が敵

艦載機グラマンの集中攻撃を受け 各員はよく勇戦奮闘しましたが 遂に弾薬庫に引火誘発し爆沈

しました現場です

そのとき艇長以下二十八名が壮烈な戦死を遂げ 十四名の死体は収容されましたが残る十四名は

艇と運命をともにしました 以来シケのたびに平田の浜には遺骨が片々と打ち上げられるようになり

ました それを見た当地の佐藤スキらが丁重にこれらを拾い集めてはねんごろに供養しました。そし

て昭和二十九年には有志の手により千鳥島に駆潜艇戦死者の慰霊碑が建立されました。

ふる里を遠く離れただひたすらに戦い釜石の海で一命を捧げた勇士の霊がここに眠っています 大

観音ご礼拝の皆様方ともども千鳥島に眠る英霊に黙祷を捧げ 二度と戦争を起こさぬよう 平和の

誓いを新たにしたいと思います  合掌

昭和五十五年七月十四日  第四十八号駆潜艇戦没者慰霊碑を守る会一同

 

第四十八号駆潜艇沈没海域と紹介碑(写真手前の広場)

※慰霊碑は写真後方の千鳥島(沈没海域)に建立されたが、陸路が無く一般の人は行けないため、

島を見下すこの地に紹介碑が建てられた。

 

後藤野工業団地

岩手県白石市

岩手陸軍飛行場跡 記念碑

概況

当初は陸軍の教育訓練飛行場として使用され、上空には赤トンボと呼ばれた複葉練習機が飛び交った

が、昭和十九年本土が空襲を受けるようになって俄かに実践基地化され、「神鷲隊」という特攻隊が移

駐し短期間の訓練の末各地に配属されていった。

 

釜石が艦砲射撃にみまわれた 昭和二十年八月九日、この飛行場から陸軍特別攻撃隊「神鷲第二五五

隊」三機が釜石 沖の敵機動部隊をめざして発進。

吉村公男中尉(二十二歳)・渡辺秀男少尉(二十二歳)・石井 博伍長(十九歳)は還らぬ人となった。

 

都市空襲

更新日:2009/08/30