鹿児島空襲

 

鹿児島市は、昭和20年3月18日から8月6日まで8回にわたる空襲で壊滅的な

打撃を受け、市街地の約93%を焼失、8千人近くの死傷者を数えた。

 

昭和20年 3月18日

午前7時50分頃、米艦載機40機が桜島上空に現れ鹿児島海軍航空隊を急降下爆撃。

この空襲では軍関係の施設だけが被害を受けた。

死者6人、負傷者59人、輸送艦1隻、航空隊の建物の大半を焼失した。

 

昭和20年 4月 8日

午前10時30分、米軍機数十機が鹿児島市上空に現れ市街地を空襲、250キロ爆弾

約60発が投下された。

被災人口12,372人、被災戸数2,593戸、死者587人、負傷者424人。

 

昭和20年 4月21日

午前8時頃、米軍機十数機により爆弾およそ200発が投下された。

被災人口4,548人被災戸数878戸。

 

昭和20年 5月12日

午後8時頃、沖縄基地から発進した米軍機20数機は鹿児島市に対し初の夜間空襲

を加え、主に湾岸地帯が被害を受けた。

被災人口67人被災戸数18戸。

 

昭和20年 6月17日

午後11時 5分頃、百数十機の大編隊突然深夜をついて一時間以上にわたり波状的

に焼夷弾の投下を繰り返した。

鹿児島市に投下された焼夷弾は13万個と推定され、僅かの間に鹿児島市内は火の海

と化した。

被災人口66,134人、被災戸数11,649戸、死者2,316人、負傷者

3,500人。

 

昭和20年 7月27日

午前11時50分、米軍機が国鉄鹿児島駅を目標に爆弾を投下、鹿児島駅では鹿児島

本線と日豊線両方から列車が到着した直後で同駅はあふれるような人でごった返して

いた。

被災人口8,905人、被災戸数1,783戸、死者420人、負傷者650人。

 

昭和20年 7月31日

午前11時30分頃、米軍機10数機が来襲し、上町一帯を爆撃した。

被災人口16,542人、被災戸数3,251戸。

 

昭和20年 8月 6日

午前12時30分頃、米艦載機が来襲して爆弾投下と機銃掃射を行った。

この日の空襲が鹿児島では最後の空襲となったが、既に鹿児島市は廃墟と化していた。

被災人口6,817人、被災戸数1,789戸、死傷者は不明。

 

 

8回にわたる空襲により、鹿児島市は灰燼に帰し市街地の約93%を焼失した。

被災人口11万5,385人、罹災戸数2万1,961戸

死者3,329人、負傷者4,633人、行方不明35人。

 

みなと大通り公園

鹿児島県鹿児島市

太平洋戦争民間犠牲者慰霊碑「人間之碑」

碑文

戦災により 非命にたおれた はらからの 痛恨のおもい あすのために この碑を建つ

昭和四十九年六月十七日 鹿児島市長 末吉利雄  南日本新聞社社長 川越政則

 

JR鹿児島駅

鹿児島県鹿児島市

旧4番ホーム 空襲で殉職した職員12名の名前を刻んだ慰霊碑

 

山形屋パーキング前

鹿児島県鹿児島市

広馬場通り戦災鎮魂慰霊の碑

碑文

昭和二十年六月十七日 太平洋戦争の終戦を間近に控え 鹿児島市は大空襲により甚大な

被害を受けました。

市街地中心部の堀江町広馬場通りの三ヶ所の防空壕において戦災死した春成直助一家七人

をはじめ、多くの戦争犠牲者の無念の霊魂は 浮かばれることもなく歳を経るごとに風化

されようとしています。

沈吟、空しうして慟哭悲嘆、寂々哀愁憐れむべし。

我ら志あるものが慰霊の誠を捧げ命の尊さを訴え 永遠の平和を願う尊い一灯を点じたく

ここに鎮魂の碑を建立します。

平成十六年六月十八日 広馬場通り戦災鎮魂慰霊の会 代表 春成幸男

 

共研公園

鹿児島県鹿児島市

鹿児島市立女子興業学校の碑

碑文

雪に耐えて 梅花麗し

 

鹿児島市立女子興業学校跡地

現 鹿児島女子高等学校

 

明治四十四年鹿児島市易居町から上之園町に移転

昭和二十年六月十七日の鹿児島大空襲により焼失

三十五年間の学び舎としての幕を閉じる

太平洋戦争の犠牲になられし学友の悲痛な叫び後の世まで忘るまじ

ああ あれから五十有余年 御霊よ 安らかなれと祈る

平成十六年六月十七日 創立百十周年記念事業 鹿児島女子高等学校同窓会帰厚会建立

 

日本銀行鹿児島支店

鹿児島県鹿児島市

盡躬救火碑

解説

空襲時に延焼を防いだ当直職員を称える慰霊碑。

 

都市空襲

更新日:2016/07/23