日立 艦砲射撃

 

昭和20年 6月10日 空襲日日日

午前九時前、大甕海岸から海岸沿いに北上したB29重爆撃機29機が日立市の上空1万mに飛来し

一トン爆弾806発を投下。

軍需工場として重要な役割を担っていた日立製作所の建物の大部分が押し潰されて634人が殉職し

隣接地域を含めると約1,200人が死亡した。

 

昭和20年 7月17日 艦砲射撃

米第三艦隊の戦艦16隻が日立沖に現れ、二時間にわたり530発もの砲弾がが工場へ向けられた。

大部分は工場外の住宅地に落下し317人が死亡、367人が重軽傷を負った。

 

昭和20年 7月19日 焼夷弾攻撃

19日深夜から20日早朝にかけて13,900発の焼夷弾が投下され104人が死亡、103人が

重軽傷を負い、主要な建物の大部分が焼失した。

 

成沢霊園

茨城県日立市

日立空襲艦砲射撃慰霊碑「陶輪碑」

碑文

昭和二十年此地空爆と艦砲射撃により被害夥し 日立多賀水戸等に於て其職に殉ぜしもの併せて

七五一名也 今復興漸く成るに方 其名を録し至誠を明にして気概の永へに傅せられん事を希ふ

銘曰

身帰四大 心長留茲 継業後人 護志不渝

空盡 馬場条夫  昭和丁酉春一九五七年

 

日立製作所 諸精霊之碑

碑文

昭和二十年数次に亘る戦禍に依り殉難せる諸士の遺骨を茲に納む 三十三回忌に当り供養の為此の

碑を建つ

昭和五十二年六月十日  株式会社日立製作所

 

成沢霊園より日立臨海地域を臨む

 

助川地区

茨城県日立市

茨城師範学校 嗚呼勤労学徒殉難碑

碑文

慰茨城師範学校教官生徒之霊

勤労誠実 挺身職場 師全重任 学徒■壮 一朝殉難 蛍雪没光 誰追素志 尚伝遺芳

 

学徒殉難碑の由来

私達は 昭和十九年十二月二十五日より 学徒動員令によって 日製日立工場 日立電線工場において

軍需生産に従事したが 戦局日々悪化し 昭和二十年七月十七日夜半 日立沖合からの米国海軍の艦砲

射撃により宿舎は全壊し 恩師級友相次いで血に染まり倒れた 折しも 宮田 助川の山麓一帯におけ

る死亡者三百十七名 重傷者三百七十六名を数え 軽傷者家屋の倒壊その数知れずの悲惨さだった

以来 昭和二十二年七月十七日 三回忌追悼会を期して殉難碑を建立し 教育の道を志ながら不幸にも

その前途を絶たれた霊を弔い 常しえの平和を希求してきた

この度 昭和の終焉と平成の時を迎えるに当り殉難碑を修復し その由来を添え 改めて 十二御柱の

ご冥福と 永遠の平和への願いを込めて 謹んでここに銘記するものである

平成三年七月十七日  茨城師範学校本科一組豫科一九会 長須 正文 撰文 大久保邦夫 謹書

 

茨城大学工学部 吼洋寮

茨城県日立市

清薫

碑文

太平洋戦争末期日立多賀地方に集中した米軍艦砲射撃は多賀工業専門学校長官舎と吼洋寮前に炸裂し、

日夜不屈の信念を持って教育に専念した早川校長ほか職員1名、勝利を信じ学問と国土防衛の励んだ学

生14名の尊い生命は一瞬にしてその犠牲となった。昭和20年7月17日小雨降る深夜のことであっ

た。16名の霊は悲しくも清くこの地に薫る。

今年23周忌を迎えるに当り卒業生戦没者の名を併せ刻み共にその霊を慰め、これら犠牲者が平和の礎

になることを祈り、ここに由来を記しす。

昭和42年7月17日  茨城大学工学部長 徳江 徳

 

六ツ野公園

茨城県勝田市

平和祈念之塔

戦没者追悼の碑

わたくしたち市民は、二度と戦争の惨禍をおこさないため、この地に平和祈念の塔を建立して、西南の役

以来第二次世界大戦に至るいくたびかの戦争で犠牲となられた戦没者と、昭和二十年七月十七日夜半郷土

勝田をおそった艦砲射撃によって亡くなられた方々を、心から追悼するとともに、永遠の世界平和と郷土

勝田の繁栄を念願し、平和の願いを次の世代に伝えます。

昭和五十八年三月  勝田市平和祈念の塔建設委員会

 

初代の平和祈念之塔 …平成23年3月11日 東日本大震災で崩壊

 

都市空襲

更新日:2013/07/14