光海軍工廠空襲

 

 

終戦前日

昭和20年 8月14日、晴天で暑く長い一日であった。午前10時から二時間弱にわたり空襲警報が発令され

たが、B29の通過によって解除された。

12時20分頃、空襲警報の影響で遅い昼食をとっていた構内に、突如「空襲、退避」の指令が発せられた。

この日、各地からの空襲警報の情報は光に関する限り皆無に等しかった。退避に必要な時間的余裕も無く、

退避指令とほぼ同時に空襲が開始された。

B29爆撃機157機の編隊が、五波をもって光海軍工廠に絨毯爆撃を加えた。およそ40分の間に885トン

の爆弾が投下され、ほぼ全弾が廠内に集中し施設の約70%が破壊された。

 

犠牲者

合計   738人

軍人  51人、軍属  554人 、動員学徒  133人

 

空襲を受ける光海軍工廠空襲/米軍機から撮影

 

戦没女子高生/父の手記(抜粋)

岡の上にある甘藷畑から見える西の空に、ものすごい黒煙がのぼる。

爆撃だ・・・ と直感する。

昭和20年8月14日、真夏の太陽がジリジリと照りつける。程経て、爆撃されたのは光海軍工廠らしい

という人の話。そこには長女が熊毛高女から学徒動員で出ており、長男も柳井中学から出動している。

気になる。時がたつほど胸さわぎがする。

いつも二人が帰ってくる川を隔てた向いの道を、じっと見つめていた。妻も生れて間もない三女を抱い

て神棚に手を合わせている。暮れかかる頃になって長男は帰ったが、姉が帰らない。

 

15日の朝、汽車の走るのも遅い気持で光に着いたのだが、どこをどう尋ねたら良いのか放心したよう

だった。

熊毛高女の先生の詰所があると聞いてそこを尋ねた。先生方は重い面持ちで並んでいられた。

まだお気の毒だが見当たりませんとばかり・・・。

長女の組の引率の先生は殆ど頭を伏せて顔をあげられない。

光会館に死体が収容してあるというので足を運ぶ気になる。会館に入ってゾッとした。

遺体が並んでいるのだが、その異様な姿に鬼気が迫ってくる重い。右の端から一隊ずつ見て回る。

でも一向長女らしいのに見当たらない。また最初から見直すことにした。

最初の担架の上に古トタンが敷かれそれに寝かされている女の子を、或はと思って口を開けて見た。

そしたら入歯の金がキラリと光る。

もしかと思って服の上着のボタンをはずし内ポケットに手を入れてみた。紙片があって長女の名前が

書いてあるではないか。

それを見るなり、お前であったのかと、その場にうずくまってしまった。

 

トラックは幾つかの遺体をのせて、田布施の方に向って帰るようだ。

道沿いの家から出ている瀬戸のおばさん達が私を見るなり、涙の目を袖で覆うて見送って下さった。

あの人達もう娘の死を知っていたのであろうかと思いながら、娘に「田布施に帰ったよ。お母さんや

懐かしい弟や妹が待っている家にも帰れるよ」と呼びかけた。

駅前で下してもらって、学校に知らせ家にも知らせてもらう。学校でも驚いて先生方や居合せた生徒

さんや傭人さんが来られて遺体を運んで下さった。

木地の道に遺体の列が入った頃、木地の男の方が大勢遺体を迎えて下さって担いで家に近づく。

私も長女に「お母さんの待っている家に帰ったよ」と呼びかけながら。

きのうの朝出る時は元気で出た長女が遺体になって帰ろうとは、学校から知らせがあるまでは知ら

なかった妻や子供らである。その頃は知らせるすべもなかった。

妻と弟妹は棺を見るなりワッと声をあげて泣いた。居合わせた村人達もみんな涙の顔を覆うた。

産後の母を連れて幼児を抱き、弟妹を指導して裏山に退避した空襲警報の夜も、幾度か私は学校

に出なければならないからと、動員で疲れた身体にむちうって、家族に責任をもって頑張ってくれた

長女だった。

 

光工廠の空襲は始めは防空壕で退避出来たとか、二度目は来ないと思って食事中だったという。

皆海岸に向って逃げた。

長女も逃げていたとき破片に当って倒れた。

友達が「早く早く」と言ったが長女は立てなかったのであろう。

「私はいいから皆早よう行って」と言ったという。

その次に来た爆弾で命を断ったのであろう。その間の思いを想像すると可哀相でならない。

 

娘を、妹を、友を偲びて

国のため けなげな心胸にしめ 若きつぼみで 散りにけるかな

靖国の神に詣でて目を閉じれば 我が娘のすがた見えて語りぬ

 

国のため 今日もはげむといひし妹よ とわに帰れぬ身と知らずして

今いずこ 妹が姿に目ざむれば 遺影かなしく我にほほえむ

 

悲しさは 一人耐えよと山の嶺に ふりいしづめる雲の静けさ

いくさあり友を失ふ 教え子に光の思ひ 二度とさせまじ

 

汚れなき乙女のままの君なれば 世の荒波の安かれと祈る

生きの身は 襤褸のごとき苦難経て 三十八年夏の雲湧く

 

 

光海軍工廠跡地

山口県光市/新日本製鉄・武田薬品工業

  

光海軍工廠本部庁舎                               入口付近 の塀    

 

光廠会 平和の光

碑文

戦雲急を告げる昭和十五年十月一日、光海軍工廠はこの地に開庁、大戦中は建設と生産を併行して推進、

従業員、動員学徒三万数千人は一丸となって辛苦の職域活動に挺身した。

しかるに終戦の前日、昭和二十年八月十四日の空襲により壊滅し、不幸にも犠牲者七三八名を数え、光海

軍工廠の命運はここに尽きた。

星霜は移ること四十年、いま我ら光廠会の名の下に集い、戦中の日々に思いを馳せ、殉職者の冥福を祈る

とき、万感惻々として胸に迫る。

ここに新たな決意もと不戦の信念を堅持、恒久平和の礎たらんことを誓い記念碑−平和の光−を建立する。

昭和五十九年五月二十日   光廠会

 

光市 光工廠戦没者慰霊碑

碑文

この碑は、昭和20年8月14日の空襲によって殉難した、旧海軍工廠職員、動員学徒738人ならびに人間魚雷

回天特別攻撃隊員の、尊い犠牲を追悼して建立した。

昭和20年7月24日、光市沖における対空戦により惜しくも祖国に殉じた旧海軍駆逐艦「樺」及び「萩」の乗員38

人の御霊を追悼し、ここに合祀した。

光市民は、この地に永眠したこれら殉難者の霊やすかれと祈るとともに、世界の恒久平和を願うものである

 

柳井高校

山口県柳井市

柳井高校 戦没学徒の碑 紅

碑文

昭和二十年八月十四日 終戦前日の正午 折から飛来の米軍機は 学徒動員令により 光海軍工廠

ならびに岩国ミヨシ化成工場において作業中のわれらの頭上を襲い 瞬時にして同朋の若い生命を奪

い その後有為転変二十七年の歳月が流る が今なお われわれの脳裏はまざまざと往時の彼等の

紅顔を描く

紅−くれないの色こそ若者の象徴であり 彼等の痛憤を土台として後輩一同の生きるよすがとしたい

昭和四十七年十二月三日

中学校二十、二十一、二十二、二十三回卒業生      

女学校三十四、三十五、三十六、三十七、三十八回卒業生

高等学校一回卒業生                      

 

熊毛南高校

山口県熊毛郡平生町

熊毛高女 弔魂碑

碑文

国が戦に苦しみを極めし日 純く雄々しき心もて 起ちてゆきたる処女らよ 再び語らざる

昭和二十年八月十四日 光工廠において学徒動員作業中戦死

在校生十九名 卒業生挺身隊三名 以上二十二柱

昭和三十三年十一月建立

 

光井小学校

山口県光市

光井国民学校 悠久の碑

碑文

昭和二十年八月十四日 幼き身をもって勤労学徒として光海軍工廠に動員中

光井国民学校高等科一年生

井下満夫  小田 誠  兼清敏雄  幸本 満  末岡博明  末岡泰雄

の六君は折からの大空襲によって 花開くことなく終戦を目前にしながら あえなくもその生命を失った

われ等亡き友の霊魂安かれ 永久の平和を守り給えと祈念しつつ ここに悠久の碑を建立する

昭和四十八年八月十四日   昭和十九年、二十年初等科卒業 同級生一同

 

三田尻女子高校

山口県防府市

三田尻高女 殉国諸嬢顕彰之碑

碑文

番屋寿子 岡本シゲ子 渡辺ユクエ 金子静江 玉木美智子 山崎智子 有井房子 末富正枝

動員令くだり光海軍工廠へ出動せし教え子三百名作業成績優秀なりと賞揚せられしが

昭和20年8月14日正午爆撃にあひ八名みまかりぬ

これを悼みて詠める

国のため たつは今ぞと をとめごの いでしまごころ とはに伝えむ

おくりにし いなごうましと 求めつる わが教え子の 爆死かなしも

すぐれたる いさをとどめし 八柱の よみぢのさちを ともに祈らむ

昭和四十二年四月建立 三田尻女子高等学校  同 同窓会

 

防府高校

山口県防府市

防府高女 乙女椿の碑

碑文

佐竹政子 田村美鈴 中村貴子 中司アツ子 中司昭子 西村フジエ 橋本理子 山根和子

今次大戦末 当時動員学徒として 旧光海軍工廠に出勤中 昭和20年8月14日にあいあたら八人の級友を失う

その後あわただしく過ぎて二十一年の歳月 今日ようやく機熟し 大方の芳情にすがり 思い出も新たに 母校の

佳地にこの碑を建立す

周囲に八本の乙女椿をめぐらし 私達の追慕の情を宿すと共に永く相伝えて霊を慰めあわせて平和の礎石たら

しめんことを祈念する

昭和四十一年十二月四日   旧防府高等女学校第三十六期生

 

山口高校

山口県山口市

山口中学 動員学徒犠牲者の碑

碑文

昭和二十年八月十四日正午すぎ 米軍B29の爆撃は光海軍工廠に学業なかばにして動員されていたあたら

春秋に富む十六名の友のいのちを一瞬のうちに奪い去った

時移り平和のおとずれた今 なき友をしのぶ情去りがたきわれわれは 子を思う母のなげきに思いをはせ 

山口大学助教授伊藤均氏にこの像の制作を依頼し せめて友を思うよすがとした

同じ非命の死を遂げた下級生二名を加え ここに若くして逝った十八の友のみたま安かれと祈りつつこの像

を建てる

昭和四十七年八月十二日   山口県山口中学校 第五十三期 第五十四期 同期生一同

 

中村女子高校

山口県山口市

中村高女 純真の碑

碑文

大東亜戦争の終結を一日の後に控えた昭和二十年八月十四日 光海軍工廠は凄絶な爆撃を受け動員学徒として

ここに出動中の本校生徒の中三十三名は難に殉じてあえない最期を遂げたのである

ひたすらに使命をかしこみ責任を思い あたら春秋に富む身を苛烈な職場に挺して散華した純真崇高な生命を憶え

ば 切々として痛恨の情に堪えない

ここに英霊三十三柱の芳名を銘刻して天翔ける人魂を慰め とこしえに敬仰追慕のよすがとなすものである

昭和四十三年十一月   学校法人中村女子高等学校

 

真福寺

山口県光市

倶会一処

碑文

昭和二十年八月十四日 光海軍工廠に於いて米機爆撃の際戦死せる無縁佛五十六名之碑

 

光市文化センター

山口県光市

光海軍工廠関係の展示

 

  

光海軍工廠関係の展示

 

九十九橋

広島県安芸郡海田町

瀬野川に架かる九十九橋

由来

旧来の九十九橋は昭和20年の水害で流失。

昭和25年 6月、戦後の物資不足の為に旧光海軍工廠の建屋の鋼材(廃材)を使って再建された。
 

   

鉄骨に残る光海軍工廠空襲時の弾痕

 

本川橋

広島県広島市中区

本川(太田川)に架かる本川橋

由来

明治に完成した初代の本川橋は、昭和20年8月6日の原爆の爆風で橋桁が橋台から外れた状況になり、

落橋は免れたが通行は不可能だった。軍により板を渡しただけの応急修理がなされたが、同年9月の枕崎

台風・同年10月の阿久根台風で本川増水したため完全に落橋した。

板を渡した仮橋が架けられたが、交通の要所であったため優先的に再建が決定し、土木事務所に大量の

鉄材が運ばれ、昭和24年に残った橋脚を利用して架け直された。

物資不足の中、鉄材がどこから調達されたか市等に記録はないが、終戦前日の空襲で壊滅状態となった

旧光海軍工廠の廃材も使われたとの証言がある。

 

都市空襲

更新日:2010/11/07