秋田・土崎空襲

 

秋田港は雄物川の河口に発達した港で、土崎港と称していたが昭和16年の秋田市・土崎港町の合併により

秋田港と改称された。秋田県秋田市土崎の秋田港周辺は現在でも採掘可能な油田が存在しており、空襲に

晒される事も無く無傷のままであった。

 

終戦前夜の昭和20年8月14日の22:30から翌15日の03:30まで、土崎は米軍機による激しい爆撃を受

けた。

秋田県における最初で最後の大規模空襲は日本石油秋田製油所破壊を目的にしたもので、132機のB29

から投下された爆弾は12,047発・約1,000トン、製油所周辺は真っ赤に燃えあがり石油精製工場の87

%・貯蔵設備の70%が破壊された。

夜間の攻撃だったために目標がそれやすく被害は工場周辺の住宅地区にも及び、特に通称ハマナシ山の日

石住宅では住民の被害が大きかった。港でも工事中の浚渫船2隻が爆撃を受け沈没、死者が出ている。

この空襲による死者は100人とも250人以上とも言われているが、正しい人数は判明していない。

 

秋田・土崎港空襲は、日本で最後の空襲となった。

 

土崎港

秋田県秋田市

  

爆撃目標地                                        土崎市街

 

港湾公園

秋田県秋田市

平和を祈る乙女の像

説明

子供を失った多くの母親達の思いを表現した乙女の手から、世界へ向けて平和の使者

として鳩が飛び立とうとしている。

 

かもめ公園

秋田県秋田市

祈恒久平和

碑の由来

昭和二十年八月十四日夜半から十五日未明にかけて、B29爆撃機百三十二機による、日本

最後の土崎空襲で、上酒田町・新城町・稲荷町・小鳩町・加賀町で三十名の方々が尊い生命を

失いました。

この碑は、この犠牲者の慰霊と戦争のない恒久平和をきずく誓いとして、市民の篤志募金で建

立したものです。

平成四年八月十四日  土崎港被爆市民会議 平和祈念碑建立実行委員会

委員長 佐藤 実謹書

 

浜ナシ山

秋田県秋田市

土崎空襲犠牲者に捧げる 慰霊平和

説明

当時、浜ナシ山には日石の社宅が有り、日石社員・家族などが多数犠牲になった。

 

光沼公園

秋田県秋田市

光沼

説明

猛爆撃から逃れようと逃げてきた人々が、途中光沼付近で爆撃に会い犠牲になった。

 

土崎市民運動場

秋田県秋田市

  

慰霊碑つばさ

碑文

この周辺は、一九四五年八月十四日夜半から、終戦の十五日未明にかけて、米軍機B29による日本最後の

土崎空襲で犠牲になった百数十人の遺体を鉄道線路上に置かれた痛恨の地である。

ここに、慰霊と恒久平和の誓いを捧げる。

一九九一年八月十四日  土崎港被爆市民会議 平和祈念碑建立実行委員会

委員長 佐藤 実

 

飯島小学校

秋田県秋田市

祈恒久平和

碑文

一九四五年八月十四日未明 米軍機による太平洋戦争最後の空襲で飯島小学校を

仮兵舎にして駐屯していた少年兵を含む海軍兵が 日石製油所で死傷者を救援中

爆撃を受け三〇余名が亡くなりました

ここに再度 戦争のない恒久平和をねがって碑を建立します

一九八九年八月十四日  土崎港被爆市民会議 平和祈念碑建立実行委員会

委員長 佐藤 実謹書

 

土崎小学校

秋田県秋田市

  

学童12名受難の碑

碑文

一九四五年八月十五日未明 米軍機による太平洋戦争最後の土崎空襲で犠牲となった十二名の児童に捧げる

祈る 永遠の平和

一九九〇年八月十四日  土崎港被爆市民会議製作 PTA会長 佐藤 実謹書

説明

月見草の咲く浜で遊ぶ12名の姿が陶板に描かれている。空襲で生き残り同校の美術教師になったかつての同窓

生が作成した。

 

 

土崎南小学校

秋田県秋田市

  

恒久平和の碑

碑文

この地は終戦前夜からの空襲で負傷した多数の被災者の救護にあたった痛恨の地である ここに碑を建立し

不戦への証とする

土崎港被爆市民会議

説明

当時の土崎高女では従軍看護婦としての教育が行われており、第二救護所として多くの負傷者が運ばれたが、

医師・看護婦・医薬品の不足で次々と死亡していった。

 

都市空襲

更新日:2009/01/25