熊谷 兼一

陸軍軍曹

 

都営亀戸七住宅

東京都江東区

神鷲 陸軍軍曹熊谷兼一戦死之地

碑文

(前略)昭和十九年十二月二十七日、西南太平洋より侵入したボーイングB29の編隊は十二時三十分〜十四時の間、

富士山・八王子を経て帝都上空に達し爆撃を開始。これを撃墜すべく飛行第七十戦隊の各隊は迎撃したが、戦果少

なく、これを見た熊谷軍曹機は一殺必中の体当りを敢行し編隊の一機に猛然と突撃、一機を炎上撃墜し、自らの搭乗

機も大火に包まれたが眼下の市街地を避け、亀戸七丁目の工場跡地の沼地に墜落、水没した。これを目撃していた

大勢の住民は直ちに機体の掘り起こしに当ったが湧水が激しく遺体並びに機体の発掘を断念し、この身を犠牲にし

多くの都民を救った行動に感動し、東京都庁に申請、時の東京都長官・陸軍大将西尾寿造殿より直筆の書を戴き、

戦死之地の碑を多くの住民により建立されたものである。

戦後東京都が当地に恒久住宅を建設する前に遺体を収容すべく建設業者と有志が一体となり発掘に当り、昭和四十

五年二月十二日遂に機体の部品及び遺体を収容することができました。二十五年もの間、沼地深く眠っていた熊谷軍

曹の永遠のご冥福をお祈りいたしました。

 

本土防空

更新日:2006/07/02