海軍大尉 小灘利春

 

故・飯野伴七理事を偲ぶ

平成15年 2月

 

財団理事の飯野伴七兄は本年八月初旬、鎌倉の病院に突然入院した。

市内に住む私が直ぐに見舞いに行ったところ「夏風邪が一向に治らないので入院した。

秋分の日の世田谷観音の法要には出席するが、目先の会合は無理だ」というので、私が代行していくつかの

会合の欠席通知をした。

いつも通りの元気さであり、直ぐ治るように思った。

しかし急性肺炎になり、八月十七日横浜市内の病院へ転院したが、二十三日に見舞った同期生の話でも至極元気で、

昔の歌をいくつか一緒に歌ったという。

それで安心していたところ、意外にも病状急変して九月三日、多臓器不全で世を去った。

 

飯野兄が本財団の評議員になったのは平成七年である。

他の方々よりもかなり遅い参加であるが、それには次のような経緯があった。

財団の前身「特攻隊慰霊顕彰会」は昭和五十三年に発足、特攻に参加した陸海軍各部隊の団体に呼びかけ、

海軍の関係各会も水交会々長の強力な斡旋があって次々と加入した。

顕彰会は平成五年に財団法人「特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会」に発展し翌春、千鳥が淵戦没者墓苑で財団として

最初の慰霊祭を開催する運びとなった。

しかしそれに至る間、海軍の航空関係者が会合、諸行事に顔を見せなくなり、やがて欠席が固定化した。

海軍側は各部隊、出身別、期別、地域別などで多様な団体を早くから結成し、それぞれが戦友たちの慰霊行事を

以前から続けていた。

回天関係では、元搭乗員たちが戦後十年の昭和三十年に始まり毎年、最初に敵艦隊に突入した記念日に回天発祥の地、

徳山沖の大津島に集まって慰霊祭を行っており、これが拡がって地元有志の顕彰団体に引き継がれ、

厳粛な慰霊行事が途切れることなく今日に続いている。

同様な状況で、海軍の関係者にとっては屋上屋を重ねる感じは否めなかった。

特に航空関係にその感が強く、いつしか遠のいたものと患われる。

 

大規模な特攻作戦を最初に実行したのは海軍の航空機特攻「神風」であり、且つ最も多く特攻戦没者を出している。

従って当然k特攻の代表となるべき神風の関係者が参加しないのでは、日本全体の特攻戦没者を慰霊する団体として

形を成さないので、前理事長とたびたび相談したが、この問題は早急には解決しなかった。

それで私は財団第一回の慰霊祭のあと、戦闘機乗りであった同期生の飯野伴七兄に会ってこの事情を説明し、

財団への参加を求めた。

彼はそれまでの海軍航空側の経過、空気を承知していたが

「よし、判った。俺が出よう。周囲の了解を取り付ける」と快諾し、零戦搭乗員会をはじめ関連諸団体を説得して

この財団に評議員として参加してくれたのである。

後に理事に就任した。

 

海軍兵学校第七二期出身の彼は戦闘機乗りとなり、昭和十九年七月以降は上海航空隊にあって

「零戦」と局地戦闘機「雷電」を操縦して来襲するB−29、P−51や艦載機を迎撃していた。

雷電を駆って離陸中に発動機停止、黄浦江に不時着水した経験もある。

当時、零戦搭乗員たちは各基地から次々と南九州に集まり特攻へ発進していたが、彼には特攻に直接参加する

機会がなかった。

因みにわれわれ兵学校七二期は二階級特進が最も多いクラスである。

神風特攻四十名のはか回天、震洋など各特攻部隊の最初の時期から多くが隊長、あるいは先任搭乗員として

出撃、散華した

 

飯野兄は以前から戦没した戦友の墓参や慰霊の集会に出席するため全国を回っており、評議員となってのちは

財団の航空関連行事の世話には特に熱心であった。

同期生が隊長であった第一御楯隊の慰霊祭に彼はたびたび参加してきたが、財団がその隊のビデオを作成したときは

参画の上、クラス会などで周知、販売につとめていた。

また編集委員として特攻隊遺詠集などの編集に当たっている。

 

本年五月の沖縄慰霊巡拝旅行にも参加した。

慶良問水域は海陸特攻機が集中して艦船攻撃をかけ戦果を挙げた場所であるが、白波が立つその海面に於ける慰霊祭は

彼にとっては最たる式典であったと思われる。

さらに彼は横浜を中心とする旧海軍関係親睦団体の「水交会みなと会」の会長として奉仕し、

最近は同会が海上自衛隊OBの会と合同した「湘南水交会」の名誉会長に就任していた。

九月六日の彼の告別式に制服の海上自衛官の姿が多数見られたのはそのためであろう。

 

飯野兄は性格が明朗、積極的であり、何人とも、また何事にも気軽に取り組んでいった。

胃全摘の病歴があるにもかかわらず至って元気で、酒も良く飲んでいた。

財団にとって貴重な人物であったが、彼の奉仕を引き継いで私どもも努めたいと考える。

 

財団法人特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会 会報「特攻」第54号

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/09/17