海軍大尉 小灘利春

 

平成 9年

回天烈士ならびに回天搭載潜没潜水艦乗員追悼式

平成10年 2月

 

大東亜戦争末期に戦没した回天搭乗員一〇六名はか隊員の慰霊祭は、回天の訓練基地であった山口県徳山湾の大津島で、

昭和30年に地元有志により最初に執り行われ、35年に「回天碑」建設、昭和37年からは毎年、盛大な慰霊祭が開催されている。

地元有志者の団体「回天顕彰会」が募金運動の上、「回天記念館」建設を昭和43年に達成し、徳山市に寄付した。

平成3年よりは、回天を搭載し戦場に赴いて還らなかった潜水艦八隻の乗員八一〇名を加えて共に追悼する、宗教色のない

式典の形となり、毎年11月の第二日曜日に開催されて今日に至っている。

 

平成9年の追悼式は11月9日13時30分より厳粛に執り行われた。

御遺族約四〇名と県、市はか各種自治体、国会議員、海陸空の各自衛隊、地元諸団体、会社の代表、地元有志、

旧軍関連の団体など三百余人が、大津島の回天記念館前庭の白菊の花に囲まれた回天碑に参集した。

御遺族は、北は北海道、西は長崎の、全国各地から参加されたが、そのなかに本年は

回天の創始者、故・黒木博司少佐の兄上の姿も見えた。

 

雲ひとつない見寧な秋晴れとなり、魚雷発射場跡からは、周防灘に面した九州の山影が青い海の彼方にはっきりと望まれた。

慰霊飛行の自衛隊機の編隊も、高く澄んだコバルトの空にひときわ鮮やかであった。

恒例の「大徳山太鼓・回天」が、真っ黒に塗装された実物大模型の回天の前で、十七名の若い男女によって演奏された。

勇壮な太鼓の音を聴くうちに、国を、民族を、愛する人々を護るために進んで自らの生命を捧げた隊員たちの面影が、

次々と眼の前に浮かび、涙が滲んでくる。

この太鼓のグループへの参加を希望する青年たちが最近は多いと聞くにつけ、徳山近在の市民の回天、また特攻に寄せる

関心が高いことに、日本の将来が力強く思われる。

 

JR徳山駅の南側にある桟橋と大津島を結ぶ巡航船に本年、徳山市が建造した高速船「回天」が加わり、運航を開始した。

在来の定期船の半分の所要時間、二一分で島に渡ることが出来るようになり、便数もひと頃の倍、一日一二便に増え、

JRの周遊地にも指定された大津島との往来が、かなり便利になった。

「旅客船に、神聖な人間魚雷・回天の名をつけるとは何事か」と本年四月、徳山市長に対して船名撤回を求めた投書が

発端となり、朝日新間ほか各種の新聞が採り上げて、賛否の大論争が巻き起こった。

中には「殺人兵器の名前を客船につけるのか」との異論まで飛び出す混乱ぶりであるが、いずれ収束がつくと思われる。

図らずも「特攻」を改めて考え直すきっかけを、世間の人々に提供した結果になっている。

 

回天記念館は、所蔵する千五百点に及ぶ回天戦没者の遺品、遺筆の永久的保存を期して、徳山市の予算で本格的な

保管展示場に改築する工事に入るため、明年初から10月末まで休館する。

次の平成10年11月8日の追悼式には、新装成った記念館でビデオによる解説も聞けることになる筈である。

その日は昭和19年、回天特別攻撃隊の第一陣菊水隊の回天搭乗員一二名が潜水鑑三隻と共に大津島を出撃して行った、

記念すべき日に当たるので、多数の参会が望まれている。

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/09/30