海軍大尉 小灘利春
麦が浦 回天捜索の参考資料
平成17年11月22日
1.回天を海中投棄処分した時期
1)昭和20年9月頃
. 時期は9月の下旬だったと思います。10月10日から正式に豊後水道の掃海作業が開始されたので、
. その前だったと記憶します。
. 10月10日が私の故郷の秋祭りでしたので頭から離れませんでした。
. 佐伯海軍防備隊 第四曳船乗組電信員 書信
2)昭和20年9月下旬か10月初め頃
. 昭和20年9月20日過ぎ、米国艦隊が福浦に入港し一週間以上滞在した。
. その間に上層部の軍人たちが回天や高茂衛所、武者泊の砲台等の撤収をしていたのでしょう。
. アメリカの艦隊二十数隻が福浦湾に入港して来たのが昭和20年9月20日過ぎ
. (24− 25 日頃。確実な日付は不明)
. 湾内一杯になり、それこそ立錐の余地がないとはあのことでしょうか。
. それから数日後に回天を沖合に曳いて沈めたものと思います。
. 日時を想像すると9月下旬か10月初め頃ではないかと思います。
. 元・
3)昭和20年9月末頃
. 期日は9月末頃だったと思う。
. 元・
4)昭和20年10月頃
. 米軍が宿毛に来てから行ったと記憶しているので10月頃ではなかったか、と思う。
. 第11回天隊、第21突撃隊とも、誰も立ち会っていない。
. 第11回天隊次席搭乗員(中尉) 電話/故人
2.回天搬出、曳航方法
1)当日は晴天であり、定刻佐伯防備隊のポンドを単艦で出港しました。
. 人員は艇の乗組のみで (約20名) 他の指揮官や便乗者はいなかった。
. 佐伯海軍防備隊 第四曳船乗組電信員 書信
2)漁民が山裾の横穴から牽きだしてきた魚雷を小舟で曳き、一定の海面まで出て第四曳船が小舟、魚雷を
. 曳航して港を離れ、沖合に投棄したものです。
. 佐伯海軍防備隊第四曳船艇長(特務士官) 書信
3)当日は晴天で殆ど波もありませんでした。現場には人影はありませんでした。
. レ−ルの上に台車があり、それに回天が乗っていた。回天の頭部は北向きであった。
. 佐伯海軍防備隊 第四曳船乗組電信員 書信
4)われわれが洞窟から回天を牽き出しました。回天は洞窟の入り口に南を向いて頭が出ており、
. レ−ルの上に土砂が積もっておりましたので、それを取り除きワイヤ−を掛けて曳船で海へ牽きだし、
. われわれはパンツ一枚で作業をしたのを覚えています(注:後に「南向き」を「北向き」に訂正)。
. 回天の処理は一本づつ投棄しましたが、一日で作業は終わったような気がします。
. 佐伯海軍防備隊 第四曳船乗組電信員 書信
5)一基、一基、一基、私達が(私も)海に入り「曳航ワイヤ−」を取り付け、一基づつ指定海面に曳航しました。
. (縦曳き)曳航に自信をもってお答えします。
. 回天壕付近には人影などは見当たらなかった様に思います(横抱き曳航ではない)。
. 佐伯海軍防備隊 第四曳船乗組電信員 書信
6)回天を引き出したのは自分たちではなく、消防団だったと思う。米軍の将校らしき者が立ち合っていた。
. 午後2時か3時頃から曳き始めた。
. 元・
7)回天の格納壕は6本あり、中心の2本に回天を2基づつ格納し、他は1本づつだった。
. 空からの攻撃を避けるため、壕は入り口から内部にかけてカ−ブしていた。
. 回天の頭部が壕の入り口から外へ出ていることはない。
. 回天の信管はセットしてあったが、投棄の時点では分からない。
. (追加連絡:終戦後回天を壕の奥から若干牽きだしていたかも知れない)
. 第11回天隊次席搭乗員(中尉) 電話/故人
3.回天投棄地点、投棄方法
1)投棄地点については記憶が確かではありませんが、往復30分ぐらいの近くであったと思います。
. 佐伯海軍防備隊 第四曳船乗組電信員 書信
2)艇長は「面舵」で現地を出ました。
. その後30分ぐらいして旗を揚げて待っていた小さい漁船に引き渡し、私たちは直ちに引き返しました。
. 30分ぐらい曳航したのでだいぶ沖だなあと思いました。
. 佐伯海軍防備隊 第四曳船乗組電信員 書信
3)われわれの曳船が回天を曳航して、漁民が3−4人乗った小舟に引き渡し、彼等が作業して海水を入れて
. 海底に沈めたように記憶しています。
. 佐伯海軍防備隊第四曳船艇長(特務士官) 書信
4)三十有余年の歳月が経ちおることとて、土地名とか魚雷処分の位置とか全く記憶がない。
. 佐伯海軍防備隊第四曳船艇長(特務士官) 書信
5)回天の海中投棄にかかわった者が一名生存していました。
. 現在は寝たきりの状態ですが、しっかり当時のことを記憶されていました。
. 回天は8基を二箇所に分けて投棄したとのことです
. 元・
6)投棄位置は陸からも見える近くだそうです。
. 寝たきりの状態ですが、記憶がしっかりしているので、投棄地点なども覚えていると思います。
. 元・
7)投棄した地点は、宿毛湾ではなく笠ハズシ鼻の沖合であったと言っています。
. (宿毛湾に出る前の、麦が浦東方の入江)
. 正確ではありませんが、海床は岩礁だと思います。
. 元・
8)回天の海中投棄にかかわった
. その折り同氏が回天8基それぞれの海没処分した地点を私の大学ノ−トに自ら記載してくれた。
. 回天8本は二箇所に分けて沈めた。笠ハズシ鼻沖100米に2本、
. あと6本は野地島/ 高床鼻を結ぶ線の中央地点。
.
9)回天を沈めるときはハッチ蓋を開き、ハッチに足を掛けて揺さぶり、海水を入れて沈没させた。
. しかし途中で回天の操縦席の海水弁を開けて沈めるよう米軍から指示があって、
. 最後の2基はそのようにしたので、沈むのに時間がかかった。
. 元・
10)4本目の回天が沈んだ後に海中で爆発が起こり、
. 打ち上げられ、失神した。
. 船は網元の動力船で損傷した。
. 気がついたとき、艇底の海水弁から注水した回天2本が野地島の南100〜150米をプカプカ浮かんでいる
. のを見た。
. 何時、何処で沈んだかは見ていない。
.
11)回天が直ぐに沈まず、大潮でなければ、野地島沖の南南東、
. 付近に沈んでいるのではないでしょうか。
. 野地島と鵜来島までの中間地点に放棄したと思われます。 (中略)
. 南南東−南東が70% 、西方が30%のように思えてなりません。
. 秋から初冬にかけてヤカンバエ(高茂岬の沖)で一本釣りをしていた漁舟が漂流して柏島に浜に流れ着いた
. 過去の実例からみて、この方面が確実性が高いように思われますので、二年前探索した場所から宿毛湾入り口
. 付近がよいのでは
. ないでしょうか。
. (注:柏島は宿毛湾の対岸東寄り、鵜来島は宿毛湾の入り口中央)
. 元・
12)当時の記憶では水深120メ−トル以上の場所に沈めろと米軍が言っていた記憶がある。
. 第11回天隊次席搭乗員(中尉) 電話/故人
4.これまでの回天引揚 関連情報
1)終戦から何年も過ぎた夜に、投棄した付近に知らない船が来て回天を引き揚げたとの噂を聞きましたが、
. 確かではないそうです。
. 元・
2)回天が引き揚げられた話も噂も聞いたことがない。
. 元・
3)当時の潜水技術の限度は水深50米ぐらいで、この80米ほどの水深では潜水夫による海底での作業は不可能と
. 思われる。
. 海上からのロ−プ捜索では回収は不可能。ワイヤ−で海底の回天を引っかけても、円筒形にためワイヤ−が
. 外れやすく、潜水夫を入れてモッコに類似したものか、二箇所以上にワイヤ−を下から廻して固定してから、
. または浅い場所まで海底を移動させてから潜ってワイヤ−を固定すれば、船上に引き揚げることが可能。
. 日本サルベ−ジ業務課
小灘注
1)回天を損傷しないように引揚げるのは専門業者でなければ困難であるが、スクラップ目的で遮二無二引き揚げる
. のであれば、素人でも底曳網(一艘曳きまたは二艘曳き)で海底を曳けば可能である。
. 但し海底が平坦な水域では容易であるが、岩礁の多い海底では網が引っ掛かり、水面上の岩が多いところ
. 或いは浅い岩礁地帯では漁船が行動できず、回天の引揚げは簡単ではない。
. 回天を野地島/高床鼻間の水道に沈めたことが確実であって、しかも現存しないのであれば、既に何者かが
. 何らかの手段で奪ったことを意味する。
. 何本を引き揚げたか確認できれば、回天が海中に現存するか否か、推定できると思われる。
2)回天の重量は8,300キロであって、浮力を搭乗員が乗った状態で100キロに調整してあるので、
. 搭乗員が乗っていなければ約160キロの浮力である。
. 従って海水が約160ℓ艇内に入れば浮力がなくなるので回天は沈没する(ドラム缶1本で約200ℓ)。
. ハッチから海水を入れると直ぐに沈没する。しかし操縦席のなかの海水弁は本来は艇内に溜まった水を陸上で
. 排出するためのもので孔の直径が小さく、この弁から海水を入れる場合は或る程度の時間がかかる。
. しかし浮力が減少してゆき艇が沈下すれば、ハッチからも波が打ち込むので、あまり長い時間は浮かんでおれず、
. 遠くには漂流しないであろう。
. 野地島/高床鼻の間で注水を開始した回天が野地島の南に流れていったことは、当時の海面流が東の方向に流れ
. ていた
. ことを示すと思われる。
. 回天が沈没した地点は目撃されていないが、おそらくは同じ方向に流れ続けて、暫くの後に沈んだ可能性が高い
. ように思われる。
3)当時の月齢は、9月22日の午前零時が満月(月齢15.0) であった。
. これから作業当日の潮流が分かり、回天2本が漂流していった方向、速度を推定できると思われる
. (仮に作業日を9月30日とすれば月齢は23)。
注:「
更新日:2008/08/24