海軍大尉 小灘利春

 

帰ってきた人間魚雷「回天」

34年ぶりに靖國神社で元特攻大尉と感激の再会

昭和54年10月14日 内外タイムス

 

『回天』といっても、いまの若い人たちはご存知ない人が多かろう。

第二次大戦中、海の特攻兵器として旧日本海軍が開発、米軍から恐れられた人間魚雷=B

その『回天』がきょう十三日、東京・九段の靖国神社に奉納され、除幕式が行われた。

これまで終戦時に残っていた『回天』はすべて破壊されるか、米国に持ち去られるなどして日本国内には一隻も

存在していなかった。

それが米国側の好意と旧塔乗員など戦友たちの奔走で三十四年ぶりの帰還≠ニなった。

 

千六百キロの爆薬を艇首にたった一人で出撃

「日本に『回天』が帰ってきて、実物を見た時、一見してこれこぞ本物。

私たちか青春をかけた分身≠ェ掃って来たのだと思いました」 と口もとをほころばせながら語るのは

『回天』の返還に力をつくしてきた「回天会」の小灘利春会長=元海軍大尉だ。

小灘氏は、太平洋戦争の末期、特攻兵器『回天』の八丈島回天隊の隊長として、出撃の日を待っていたのだが、

終戦となって生き永らえてきた人だ。

『回天』は人間魚雷≠フ名の通り、すさまじい破壊力を持った爆薬を背に敵艦に体当りし、

一瞬のうちに敵艦を沈没させることを目的にしていた。

空の特攻隊がカミカゼ≠ネら潜水艦や陸上基地から出撃する『回天』は海底の特攻隊だった。

 

小灘さんは

「はじめて『回天』の存在を聞き、自分がその搭乗員になることが決まった時、これは素晴らしいものかできたと思いました。

これで日本は勝てる。

それまで米軍にジリジリ押されて敗け続け、日本はどっなるか分らない、民本民族は、親、兄弟はどうなるかと、

正直いってジりシりしていましたからネ」と当時をふりかえる。

その頃二十一歳の将校として、血気にはやる心を抑えながら、敗色濃い戦況に心を悩ませていた小灘さんが

心中歓喜したのは現代の平和日本で育った若い人たちには分かりにくいかもしれない。

「船というのは、飛行機で空から攻めても沈みにくいものです。しかし、船底に穴をあければ沈んでしまう。

当時、ふつうの魚雷は三百キロの爆薬が装てんされていた。

ところが『回天』は千六百キロの爆薬を積み圧倒的な破壊力がありました。

敵艦を一発で沈めることができます。

たとえば千人の将兵の乗った軍艦を、『回天』はたった一人の攻撃でせん滅させることができる。

文字通り一騎(基)当千の働きができる。

『回天』が百基飛び込めば百隻の敵艦を沈めることができると思いました。別にこわいとも思いませんでしたね」

 

一度出撃したら生きて帰ることのできない『回天』は約四百二十基生産され、そのうち出撃配備についたのが二百四十七基。

終戦までの損失は九十四基、戦空目は百四十四人だった。

「実際に特攻隊として敵艦に突進した『回天』がいったい何基あったのかは母艦である潜水艦が撃沈されたりしてはっきりしません。

米軍側も『回天』による損害の発表を厳重に禁止していた上に『回天』で沈められても何が原因か分らず

機雷や事故と間違われているケースも多いと思われますから、いったいどれだけの戦果があったのか不明です。

米軍の公認にると、わが方の戦果は二隻ですか、実際には敵艦二十隻を撃沈していると信じています」と小灘さんは語る。

 

終戦になり、米軍か進駐すると、米軍に恐れられていた『回天』は米軍の命令によって、真っ先に海底深く捨てられたり、

洞窟の奥探く爆破されたりした。

こうして日本国内には一隻も存在しなくなったのだった。

戦後、世の中が落ちついてくると、関係者の間から『回天』を探そう」という声が高まり、昭利四十年ころから『回天』探しが

始められた。

『回天』を爆破した八丈島の洞窟のなかに埋まっているかもしれないという情報で出かけたり、訓練基地のあった山口県大津島

周辺の海底を探しまわった。

しかし、関係者の努力にもかかわらずどこにも『回天』の姿は発見できなかった。

五十三年二月、靖國神社の筑波藤麿宮司あてに、ハワイ米陸軍博物館のウオーレン・セスラー艦長から手紙が届いた。

「当博物館では米国政府所有の回天を保皆しております。

同艇はパナマに潜入したもので、貴重な資料と思われます。

受け入れ希望がありましたなら、ご検討ください。

回天は後部が破損しているはかは完全で、当博物館では展示はしていません」

 

戦果は不明だが94基144人が散華した

セスラー館長の妻、ミチコさんんが日本人だったことが幸いしたのだった。

このニュースはただちに『回天』関係者に伝えられたが、

「パナマに出撃した回天はいない」「送られてきた回天の写真は回天一型ではない」と関係者は混乱した。

しかし、このニュースをハワイの日本語新聞「ハワィ報知」が報じると、ハワイから日本に吉報がもたらされた。

ハワイのワヒアワで農業をしている寺尾太助さんが、終戦当時、高知県で「回天」の整備責任者であったと

名乗りをあげたのだった。

寺尾氏は、さっそくマナナの海軍倉庫を訪れ、実物を見た。

ハッチをあけて「回天」の中に入った寺尾氏はこの「回天」が実戦に使われたた回天一型の練習艇であることを発見した。

また送られてきた写真は回天四型のものであり、同艇もハワイの陸軍博物館に現存することが確認された。

 

「大津島で訓練用に使っていた四基が米軍によって持っていかれました。

そのうち二基は水爆実験に使われ、残り二基のうちの一つだと思います。

戦死者、遺族のために、民族の遺産としてなんとしても日本に持ってこようと駆けまわり、永久貸与という形で

日本に持ち帰ることかでできました」と小灘さんはいう。

募金活動で五百五十万の資金が集まった。

日通の担当者が「回天」の元搭乗員だったことや、日本郵船のハワイルートの第一便になったことなど、

奇跡的な幸運もあった。

なくなっていた潜望鏡や魚雷部分の作成のほか塗装も回天会のメンバーである鉄工所経営者や看板屋さんが担当した。

そしてきよう十二日午後一時から三百五十人が参加して除幕式が行なわれる。

参列する人のなかには「同期の桜」の作者で「回天」の搭乗員だった帖佐 裕さんや、「回天鎮魂碑」のある山形県の月山から

山伏十七人の姿も見られるはすだ。

国を守ると信じて「回天」に若いいのちを散らした人間魚雷≠ヘ汚職、ヤミ給与の横行する日本になにを伝えようというのだろうか。

 

靖國神社に奉納された人間魚雷「回天」

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/10/21