海軍大尉 小灘利春
八丈島の記憶
平成10年 5月
斉藤 恒氏 九六.六.一付書信(前後一部省略)
当時八丈島石積基地回天搭乗員、海軍上等飛行兵曹
一、最後の休暇について
光組は四月二四〜二七日(或いは二八日)〈出発−帰隊)です。
この間中学の友人家族、写真館で写真を撮っています。
その家族の写真の裏に「二〇.四.二六最後の休暇」の記録があり、その中に相模原へ動員に行っていた弟が入っています。
二五日に 母が連絡、家に帰らせて貰ったのだと思います。
又、帰郷の途次、名古屋駅で偶然会った小学校の同級生(半田市へ動員中)も四月下旬と記憶していました。
甲府駅を夜行で山田君と同行で帰隊したので、二晩家に居たなら二八日の帰隊になりますが、残念ながらハッキリした
記憶がありません。
二、神湊の爆発事故について
私はその時復員のため弾薬箱の積んである横の広場で訓示(?)を受けている時発生しました。
その後、我々は出港地を八重根港に変更、乗船・出港は夜でした。
翌日昼頃(?)伊東へ上陸、列車で伊東−熱海−東京−新宿−甲府と、帰郷は翌朝でした。
私の記録は「十一月一〇日復員」となっています。多分「伊東上陸、解散」の時点 を書いていると思っています。
それであれば事故は十一月九日で正しいと思います。
三、その他
(1)米軍機の行動
私達は石積ガ鼻の絶壁の上で内地爆撃に向かうB二九の大編隊を望見しました。
「浮かべる城」と呼んでいました。上から下へ何段にも重なって一かたまりになっていました。
それが左側へ向かっている時は関東方面、右側を飛んでいるいる時は名古屋以西がやられていました。
夜の帰りは島の上空を一機編隊で、次から次へ南下していました。
(2)米軍の上陸時期
一〇月中旬以前のように思います。私達は末吉の宿舎で何日も米艦船を望見しました。
昼は良く見えるのですが、夜は水平線の彼方へと移動していました。
「回天が怖いので退避するんだろうな」と言っていました。
それから回天爆破−末吉退去−蚕業試験場へ移転。従って一〇月下旬ではなく、中旬では・・・と思います。
(3)戦死扱いについて
一二月に入った頃、甲府駅長名で「荷物の扱い加算料が嵩むので至急取りに来られたい」と一枚の葉書が配達された。
荷物はミカン箱より一寸大きめで、表面に白墨を塗った手製の白木の箱であった。
中には紙製の黒い鞄があり、封筒の中から、
遺品目録 第六艦隊司令長官 長井 満
一、髪毛
一、写真
一、鉛筆
一、布地
とあり、それぞれの品物が入っていた。
誰が送ってくれたのかは不明です。(安西さんも鈴木さんも知らないと言っています)
私が復員してからで良かったと思いました。
若し「早く受け取っていたら」と思うとゾッとしました。
(4)八丈石積小唄 (おじゃれ節)
誰の作詩作曲かは忘れましたが今でも歌えます。終戦後何度か歌ったのでしょう。
1.エーエ
. 八丈よいとこ 椿の花よ 島にはヨー エコリャ 乙女(めならべ)の しぼまぬ愛の花
. 八丈よいとこ 情けの島よ サッサヨイヨイ コリャサノサーッササーッサヨイヨイ
. 又おじゃれ ソリャ 又おじゃれ
2.エーエ 花の末吉 思い出恋し 村にはヨー エコリャ 乙女(めならべ)の 懐かし島なまり
. (囃子 ・・・一番と同じ。以下同様)
3.エーエ 夢の石積 谷間のすそね 山にはヨー エコリャ 菊水のきらめく つわものよ
4.エーエ 小鳥囀る 石積行けば 海にはヨー エコリャ つわものが ハッパで鯛を取る
5.夜の末吉 銀座を行けば 可愛いヨー エコリャ あの娘にね 思いをかけられる
6.エーエ
. 酒と乙女(めならべ) 飯より好きよ あの娘がヨー エコリャ 菊水に 愛呼び恋招く
―― 中略 ――
小灘 注:
上記二
11月9日、神湊の爆発事故が発生したときは、内地へ復員する回天隊員たちが波止場に向かって整列し、
私が「別れの訓示」めいた挨拶を終えた直後であったと思う。
港の広場は芝生が多少生えた程度で、周りに弾丸や火薬を収めた木箱が沢山ならべてあり、海岸の近くは
何段にも棲み上げてあった。
爆発の大音響を背後に聞いて私は振り返り、真近かに大量の黒い煙が吹き鹿がるのを見た。
そのとき、隊員は「休め」の姿勢で、横隊で整列したままであった光景が目に浮かぶ。
復員船に乗る前の集結であるが未だ解散してはいなかった。
(当時、神湊の波止場は現在のような大規模な掘り込み工事が施されておらず、小型漁船しか入れない小さな港であった。
本船は沖がかりして、上下船者は大発く大型発動艇〉で行き来した)
私は直ちに「解散、退避」の号令を掛けて水産試験場の方向へ移動した。
同じく石積基地にいた搭乗員高野(山田)慶貴氏もこの爆発に遭遇し、通達した後、八重根に廻って乗船したと語っている。
このときの便船は疎開先から八丈島に戻る島の人々を乗せて来ているので、復員する部隊が集結したこの時刻は既に
神湊沖に入港して帰島者は上陸を終えていた筈であるが、港が使えなくなったために八重根沖に回航し、乗船は夕刻になった。
また、底土基地にいた搭乗員佐藤喜勇氏は実家が遠い北海道にあり、出撃前の帰郷もできなかったため最初の復員船に
乗っており、この爆発事件を見ていない由。
なお、八丈島の海軍部隊では真先に回天隊が復員させて貰うことになったが、実際は第一便と次便の二回に分けて乗船した。
第一陣の選抜は、私の判断で一二〇人の隊員から家族持ちと年齢の高い者を優先し、次いで故郷が遠い者を指定した。
その区分をするため、余計なことをしたと思うが状況がよくわからない隊員をひとりひとり呼び出して家庭の事情を聞いた。
特攻隊の復員を海軍が優先したのは、あとで聞くと「占領軍の進駐を平穏裡に迎えるために、元気のよい連中を先に分散させる」
目的であったようであるが、そんなこととは気付かず、私は搭乗員でも家が近い者は後の組に回した。
この事故について三根村役場の日誌には
「一月九日神湊堤防で一〇〇〇、集積中の爆薬が次々と爆発、死傷者数十名、行方不明十名内外、一五〇〇頃爆発が止んだ」
との記事がある。
米軍資料その他によれば、日本人二四名死亡、約四〇名負傷となっている。米軍は一名死亡、一名負傷という。
連日の弾薬投棄作業のため黒色火薬が厚く堆積していた神湊の岸壁の上で、米兵が無知なのか、うっかりしたのか喫煙して、
吸殻を投げ捨てた瞬間に爆発が起こったと言う。
その米兵は爆発で吹っ飛び行方不明になったと、私は連続爆発の最中に聞いた。
この大事故の原因を作った張本人の死亡は多分間違いないであろう。
もうひとり、全身に火傷を負い真っ裸になって、三根寄りの低い潅木の間に倒れこみ、虫の息になっていた若い米兵がいた。
私が気付いたのは、陸軍の兵士が十人ほど、何かを取り巻いて、円陣を作っていたからである。
彼らは腑抜けのように呆然と突っ立って見ているばかりで、何の処置もとっていなかった。
私はすぐ米軍を 捜しに走り、先任下士官のような髭を生やした中年の軍人を見つけ出して引き渡したが、
連続爆発が下火になりかけた頃であった。作業立ち会に来ていた米軍備の人員は僅かであった。
二、三日して「病院に収容しましたが、助かりませんでした。
着ていたものが無いので、遺品は彼の総入れ歯だけです」との報告があった。
私は驚いて「子供のような若い兵隊だったではないか!それが総入れ歯だなんて、まさか」と言ったら、
「奇妙なのですが、事実そうだったのです」との返事であった。
目の前に見た人間が死んでしまったと聞く衝撃に加えて、
「米国人は甘いものばかり食べているのかな。砂糖が歯を若いうちから駄目にするのだろうか?それとも、
虫歯になって痛い思いをするよりも総入れ歯にしてしまうほうが合理的なのか?」
と思案したが結論が出なかったので記憶に残っている。
すなわち米軍の死亡者は、これで少なくとも二名になる筈である。
若しも米側記録どおり死亡一名が正しいのならば、何処に間違いがあるのか判らない。
「米軍の死者一名」を前提とすれば、この少年兵が火の点いた煙草を投げ捨てた当人であるケースがひとつ浮かんでくる。
黒色火薬は容器に詰めて密閉状態になったときだけ爆発する。
空気中に剥き出しになった状態で火が付けば、激しく燃え上がるが爆発はしないのである。
この時点では吹き飛ばされることはない。
恐らくは黒色火薬に引火して先ず岸壁の上が一挙に火焔こ包まれ、衣服に火が付いた本人が逃げだす間に、
山と積まれた弾薬にやがて火が廻り、連続爆発になっていった可能性がある。
夢中で走る本人の着衣が全部燃えてしまったか、或いは自分で脱ぎ捨てて丸裸になり、独りかなり離れた所まで逃れて
倒れたのかも知れない。
私は現場で、衣服の背中に火がついた儘よろよろと歩く兵士を目撃した。
燃えている服は日本軍の作業衣であった。
倒れて口も利けない少年兵の白い素肌は顔以外の全身が赤く焼けていた。
災難に巻き込まれた不運な被害者と、私はそれ以来思い込んでいたが、煙草を投げ捨てた米兵がどんな人物であったか、
目撃者が若しも現れれば、この悲惨な事故の実態をもひとつ明らかに出来るであろう。
上記三(2)
米軍が上陸した日付については、八丈町役場の記録に二〇年一〇月二八日来島、二九日武装解除作業開始と
記載されている。
旗艦「クインシー」の艦長ほか士官多数が底土に回天の見学に来たのは二九日ということになる。
真先に回天を処分すると言っていたから、全海軍部隊の武装解除作業は回天壕爆破を手始めに翌三〇日から始まった筈である。
上記三(3)
内地(第二特攻戦隊)では第二回天隊は全員戦死と信じられていた。
「出撃即戦死」が回天隊では一般的であるから、我々の場合も大津島、光の両基とも戦死扱いになっていた。
復員前に遺品が家族に届けば一時的には正に悲劇になるが、一面では終戦、部隊解散の混乱のなか、
遺品を揃えてまで発送してくれたことは、親切は親切として寧ろ感謝すべきかも知れない。
但し潜水艦部隊である第六艦隊から遺品を届ける筈はなく、光突撃隊もしくはそ の上の第二特攻戦隊とあるべきで、
長井少将も二特戦の司令官であった。
この単純な誤りか見ても、詳しくない、担当ではない人の善意で発送の手配がなされたたものと想像される。
私の場合、大津島の主計長がわざわざ留守宅を訪れ、床の間に飾るように大きく引き伸ばした、一種軍装の姿の私の
出撃記念写真を届けてくれた。
何も知らない家族の者が平然としているので、「おや?何か言ってませんでしたか?」と主計長は訊ねたそうである。
我が家族には「特攻戦死」した筈との認識が全くなかった。
死地に赴く最後の一泊であっても、それと、みすみす家族を悲しませる事を言えたものではない。
出撃直前の帰郷のとき、はっきりと「今生の別れ」の挨拶を告げた者は回天隊員には誰もいないであろう。
指示はされなくても機密保持という配慮はあろうが、それよりも、いずれ散華を発表される日までは家族の心の平安を願うのが
自然と思われる。
皆が、心のなかで秘かな別れを告げた筈である。
上記三(4)
上記「おじゃれ節」の作曲者は石積基地の倉沢栄治主計兵曹と私は当時聞いた。
作詞者も同兵曹の筈。
彼はアコーディオンの名手であり、海軍部隊全部の演芸大会では単独演奏して、回天隊の芝居「丹下左膝」の優勝に次ぐ、
二位を受賞した。
終戦後末吉の小学校に奉職して島に残り、すぐの復員ではなかった。
おじゃれ節は明るく活気のあるメロディの、良い歌曲と思うのであるが、古典的で静かな「ショメ節の八丈」では、このおじゃれ節が今でも残っているのか、心配である。
更新日:2007/10/21