海軍大尉 小灘利春
第二回天隊実記・断章 Bの部
平成 9年 1月
◎彩雲隊の飛来
或る日、高速を誇る新鋭の艦上偵察機「彩雲」が数機、八丈の飛行場にやって来た。
あれだけの数なら、乗員の中に同期生が多分いるだろうと思い、隊の乗用車を出して飛行場の庁舎に行ってみた。
やはり一人、加藤孝二大尉がいた。
一緒に蚕業試験場の回天隊宿舎まで来てもらって、夕食を共にしながら歓談した。
大規模の航空特攻作戦を実施するため、偵察機の一隊が予め八丈島に進出し、気象調査と発進、誘導の準備に
当たっているこのここである。
楽しい一夜であった。
その情景は瞼に残っているが、なにを話したかは思い出せない。
どちらからも深刻な話題が出なかった為であうう。大津島でのクラス同志の会話がいつもそうであったように、
朗らかな雑談ぽかりであった筈である。
今でも加藤は「あの時はすいぶんと御馳走になった」と言ってくれるが、変わった食べ物や、手の込んだ料理が
あるわけではない。
ただ海の幸、山の幸が新鮮であり、量は豊富に出てきたと思う。
当時の内地から見れば、それが値打ちだったのかもしれない。
八丈では震洋隊長の吉田義彦大尉が同期生であるが、島の南端、洞輪沢の崖の下にいるので滅多に会うここがない。
島外からやって来た同期生は結局、この時の加藤一人であった。
我々が八丈島に着いた頃、飛行場には毎日のように一式陸攻が単機でやって来た。
見事なのは、彼等は敵機の目を避けて海上をかなり低く飛んで接近し、そのまま滑走路に滑り込んでいた。
飛行場の上空を回った後、遠くから高度を徐々に下げて進入する通常の着陸方式を執らないのである。
操縦員の練度が高く、且つ何も積んでいないので可能だったのであうう。
燃料、資材を積込んで内地へ運んでいた。
ある時陸攻の乗員が「何かプツ(物資のここ)が欲しい。牛がおれば機内に棲んで行きたい」と、
飛行場を管理する警備隊の士官に掛け合っているのに出会った。
人口一万人足らすの八丈島に、牛が戦前は二万頭もいたのである。
多くは乳牛であり森永乳業の工場があったが、戦争になって閉鎖したので、既に減っていたであろう。
いずれにしても、警備隊が飼っている牛はないので、いきなり欲しいと言われてもどうにもならない。
警備隊の士官は苦笑いして黙殺した。
私は時おり飛行場の見物にいったが、これら飛来する陸攻に同期生は乗っていなかったようである。
◎新聞記者の来島
20年の7月であったか、新聞各社の記者団が島にやってきた。
その頃では取材に行ける最前線だったのであろう。
彼等は島内を廻って、陸海軍を活発に取材し、写真を撮っていた。
回天隊にもやってきて、底土基地の斜路や八丈富士を背景にして朝日新聞のカメラマンが我々搭乗員八名の
写真を撮ってくれた。
目映のカメラマンは「訓練が終わって基地に戻ってきたところを想定して下さい」と言って、搭乗員が一団となって
歩く姿に向けて環影機を廻していた。
彼等と海軍警備隊幹部との会食に私も同席した。
酔うほどに芸達者振りを発揮し始めた彼等は、軍部をからかうような芸を平気でやる。
新聞記者たちの才気と図太さを存分に見せ付けられた。
そのうち求められて、無芸の私は止むなく童謡をひとつ歌った。
大津島を出て横須賀に向かう途中、親に別れをそれとなく告げるため自宅に一泊した時、繰り返し童謡のレコードを聴いた。
これが特攻に向かう自分の心情に一番ぴったりしていたからである。
途中まで歌った時、新聞記者たちはいきなり私を隣室に引っ張り込んで「今の童謡の歌詞を書いてくれ」と、
ノートと鉛筆を突き付けて迫る。
抑えて飲む僅かな酒が急に回ってきて、うろ覚えの歌詞が急には出てこない。
ウンウン言いながら、月の兎は何見て踊る 盆の灯籠 見て踊る サア 見て踊る・・・ ≠ニ、なんとか書き上げた。
続いて「貴方の死生観を是非」と来た。
それについては大いに言いたいことがあった。
再びは帰る事のない特別攻撃隊の隊員は、最も重大な「自分は何のために死ぬが」という問題を、
それぞれに考えて自身が納得した結論、覚悟を心の中に築き上げている。
死生観は各自が出す人生の結論であるがら、人により異なって当然である。
私の場合、戦中にしては特異な、天皇陛下への独自の思いを含むものであったので、考えてみると記者に説明しても、
まともに理解できなかったであろう。
さりとて、型に嵌った文句は無意味である。
私は遺書なるものを書いていなかった。
これが家郷へ、日本の国へ、自分の言葉を残す唯一の、また最後の機会であろうと思いながらも
「私は確固たる死生観があって行動している。だが言えない。いや、言わない」と突っ撥ねた。
この死生観は、今なら問題ないが、かの戦中ではやはり発言しない方が良い。
詳しく述べないと誤解を招くので、この件は纏めて別記するつもりである。
猛者揃いの中でも、日本経済新聞の記者が一番逗しかった。
名前は時々思い出していたが、今は一寸浮かんで来ない。
戦後、我々を撮影した映画のフイルムの所在を尋ねたところ、終戦の時焼却したと言う。
朝日新聞の写真の方は、戦後20年経って一部を焼増しして貰うことができた。
更新日:2007/09/17