海軍大尉 小灘利春
第二回天隊実記A
平成 8年 4月
八丈島は繭の形をした伊豆七島最大の島で、南半分は10万年前の噴火で出来た標高七〇一米の三原山を包む、
高い台地である。
太平洋の荒波に裾を削られて周囲の大部分が断崖になり、なかには二〇〇米の高さから垂直に海に落ち込む大絶壁もある。
長い歳月の浸蝕をうけて険しい尾根と深い谷を刻み、大小の滝があるほど湧水が多く、緑豊かであった。
北の半分は駿河の富士山と同じ頃の、一万年前の噴火の産物である。
標高八五四米の休火山」八丈富士だけがあるような、水が全く出ない荒れ地であって、周囲の海岸は堅い溶岩である。
南北両山地の中間は広い平地になって、赤い溶岩の砂を敷きつめた、海軍の美しい飛行場があった。
20年2月、第2御楯隊の特攻機32機がこの飛行場から飛び立って散華した。
彗星艦爆、天山艦攻の各隊長は同期生であった。今もある八丈空港である。
その平地の東端に神湊港、西に八重根港があり、両方が島の玄関であった。
風の向き次第で、どちらか蔭になる方に船が廻る。敵の大軍が上陸できるような海岸は
結局、これら二つの山塊に挟まれた平地の東と西の浜辺しかない。
さて、二等輸送艦に便乗して神湊に着いた搭乗員四人は、先発基地員が整備した底土基地に入った。
三原山の崖が東の浜の南端に迫る底土海岸のこの基地には、回天を二本宛格納出来る長さ37米のトンネルが2本、
それに発電機など補助機械を収める長さ20米のトンネルなどがあった。
トンネルからレールが延びて、海中に届くスリップ・ウェイまで続いていた。
その硬い真っ黒な熔岩を爆破して削る作業が意外な難工事となり、完成が大幅に遅れたのが、我々の出撃決定から
出発まで日数が掛かった原因である。
我々本隊の宿舎は、八丈島で最も大きい建物、蚕業試験場であった。
江戸時代以前からこの島の租税であった特産の絹織物、黄八丈は最大の産業でもあったから、
指導に当たる試験場は木造ながらも広く、立派な造りである。
日本3大要塞の一つと呼号するこの島を、防衛する陸軍1万9千人、海軍2千人。
海軍部隊の本部は三原山中腹の、深い谷間にあった。雨が多いのでよく繁る樹木に隠れた、半分は横穴のような、
湿気の多いバラックであったから、蚕業試験場に入れて貰った回天隊は島で一番大事にされたのであろう。
これだけの軍隊が居りながら、島で兵士の姿を見掛けることは殆どなかった。
延長実に69キロに及ぶ地下壕が、飛行場を挟む両側の山地に、縦横に地中深く、且つ立体的に巡らされ、
兵員の大部分はこの土中の壕に住み、また掘り続けていた。
八丈島海軍警備隊の司令は中川寿雄大佐であった。
戦艦大和の砲術長、海軍砲術学校教頭を経て着任された方である。
私の警備隊内の職名は第2特攻科長であった。
先に到着していた第16震洋隊の、震洋艇50隻の隊長が私と同期の車田糖彦中尉で、第一特攻科長。
先任将校が兵科3期予備士官の野崎慶三中尉、今の月刊紙「オールネービー」発行者である。
搭乗員は、三重空乙飛19期出身であった。
回天8基と光からの搭乗員4人を乗せて八丈島南東端の洞輪沢泊地に入港した第20号輸送艦は、
5月31日朝、先ず警備隊向け託送資材の荷揚げに掛かった。
私も底土基地から洞輪沢に赴き、資材に続いて愈々回天を海面に下すことになったとき、空襲書報がかかった。
輸送艦の艦長が大変な剣幕で飛んできて、私に「回天は兵器だううが、輸送艦だって兵器だ。
大切だから回天を海中に落として退避する!」と、噛み付くように言われる。
御尤もである。
それに、積んだまま輸送艦が敵機に攻撃されたら回天も傷つく、咄嗟に判断した私は、
「結構です。我々の作業艇で曳航して、基地まで持って行きます。開店は急いで下してください」と答えた。
艦長は、流石に「それでは役目が果たせぬ」と考えたのか、黙り込んでしまい、空襲にビクビクしながらも、
回天を一基づつ丁亀にデリックで吊り上げて、海面に下してくれた。
ところがが最初の回天を載せた木製の架台が、重錘が外れて沈んでしまったので浮き上がり、回天が横倒しに
なって曳航出来ない。
止むなくワイヤーを切り、艇体と架台を別々に曳航した。
あと、錨泊した輸送艦が振れ回って、海面に浮べておいた回天に接触し、特眼鏡の屈曲、プロペラや鰭の曲損などの
損傷を蒙った。
空襲警報の方は、B29の編隊が上空を通過しただけで済んだ。
洞輪沢で下した4基の行く先は、近くの石積基地である。八丈島唯一の灯台がある石積鼻の蔭の小さな入江に、
魚雷艇隊の基地が以前あった。
崖下の格納トンネルは魚雷艇用だけに大きく、1本は長さ50米、2本が30米。
ほかに居住用の壕などがある。コンクリートの斜路から、長いレールが引き込んであった。
5月31日一四〇〇、海上を曳航してきた回天の引上げ作業を開始。
幸い八丈では珍しいほど海が穏やかであったが、長いウネリが入ってくるので、切り離した架台に再び回天を
乗せることからして難作業であった。
一五二五、1本目揚収。
照明がなく、月も出ない中で、深夜まで作業。翌1日未明から震洋隊の応援を得て続行、
4基全部が水を切ったのは日没時であった。
その時豪雨襲来、土砂崩れが発生、3日深夜に漸くトンネル格納を終えた。
回天の損傷箇所は整備員が直く修理にかかり、特眼鏡、プロペラなどの部品受取りに、飛行機便で整備員を
内地に派遣した。
底士基地の揚収作業も、31日一九〇〇開始、徹夜の作業で翌朝〇七三〇、全基陸揚げを終え、壕内に格納した。
大発4隻を使用、基地員、設営隊員のほか、作業員二〇〇名を別途準備してもらった。
ウネリは小さいが、斜路にはやはり白波となって躍り込むので危険な作業であった。
回天と搭乗員が無事に進出する、八丈島での第一段階は何とか終えたが、予想外の事態が数々あったので、
これから各地へ進出する基地回天隊の参考になるよう、経過や意見を急いで大津島、光に連絡する必要があると考え、
直ちに進出報告書の作成に取りかかった。
同時に、八丈進出の回天は12基であるが、残り4基分の基地はまだ竣工していなかった。
回天隊長用に、弱冠21歳の身に勿体ない話であるが、真鍮の錨のマークが付いた青い四輪駆動の乗用車と
サイドカーが運転手付きで配置されていたので、新基地の候補探しにこれらを使って、
第三〇五設営隊長の早川楕技術大尉と一緒に島内全部の海岸を回った。
底土、石積の両基地とも八丈の東海岸にあって、東の風が強いときは回天全部が発進困難になる恐れがある。
その場合に備えて、是非とも西海岸に機知が欲しい。
2基宛の、二が所が良いと考えながら丹念に探したが、艦砲射撃に耐えて、しかも発進しやすい場所は仲々無かった。
島の西側の沖合に浮かぶ、八丈小島という高さ六一七米の火山が海から立ち上がったような、険しい無人島に行った。
南端に大きな洞窟があり、入り口が海面すれすれに開いている。
外海から全く見えず、広い内部で回天を整備し、随時発進できる。
まるでSF小説に出てくる秘密基地のような、絶好の候補地が見付かった。
これらを進出報告書に書き加えて、第2特攻戦隊あて送付してほしいと、司令中川大佐に承認をお願いした所、
警備隊本部で謄写して送ってやるこの事。
暫くして私がもらった控えには八丈警機密第一号ノ七 (3/15) と書き込んであった。
増備の回天4基は、新基地の造成が略終わる段階で終戦を迎えたが、現物が何時来るのか、
搭乗員は誰が来てくれるのが、結局聞く事なく終わった。
大津島では、第二回天隊も、私も、戦死したことになっていた由である。
また終戦直後自決した故橋口 寛大尉は、遺書に戦没した同期の回天搭乗員の名前を書き連ねていたが、
それに私の名前も入っている。
回天は出撃即戦死が基本であるから、それは良いとして、後発の基地回天隊に役立つようにと、
願いを込め急いで書いた私の26頁にわたる進出報告書は、16部謄写されたらしいのに、
何処へ届いたか、検討してもらったのか、今では判らない。
現存する八丈島進出報告書は、私の控だけのようであり、このほど防衛庁戦史室に寄贈した。
(若しもどなたが必要であれば写をお渡しします)
更新日:2007/09/17