海軍大尉 小灘利春

 

第一回天隊の戦闘 参考資料

平成17年 3月31日

 

)大津島分遣隊溝口大尉の沖縄基地視察

第一回天隊の内地出撃に先立ち、大津島分遣隊の副長溝口智司大尉は基地観察のため沖縄こ派遣され、

二十年二月九日出発、現地調査の上、三月五日帰着した。

溝口大尉の報告内容は現在全く不明。

沖縄本島北部の本部半島北岸に運天という良港がある。

此処に基地を置いていた沖縄第二蛟龍隊および第二七魚雷艇隊の両隊の主計長を兼ねていた住田充男主計大尉によれば、

米軍来襲前の二月の某日、沖縄地区特別根拠地隊司令官の太田 実少将が自動車で同基地を視察に来られた。

そのとき見知らぬ、沖縄の海軍部隊所属ではない海軍士官一人が同行していた由である。

溝口大尉(当時)はかねて太田少将とは懇意な間柄であったので、司令官はおそらく回天基地の説明を兼ね、

島内各陣地を巡視されたのであろう。

 

岐阜県で開催された回天会の全国大会に溝口氏が珍しく出席されたので、沖縄の現地調査の状況をお訊ねしたいと、

一同が同氏の部屋を訪れようとした矢先、溝口氏は持病のため人事不正に陥られ、以後意識が戻らなかった。

遂に誰も本件についてお聞きできず、記録もないままに終わっている。

 

運天基地にいた人々は回天が沖縄こ進出することを全く知らなかった由である。

回天が来ることは大歓迎なので、若しその話が出ていれば忘れる筈はないという。

なお、先任将校近江(山地)誠大尉は「回天基地は運天港、と思い込んでいた。だが誰から、どのように蘭いたか、

その経線は分からない」とのことであった。

来敵を予想される那覇近辺で回天を使用するには、運天では距離が遠すぎる難点があるので、多分に疑わしいように思われる。

 

(2)粟国島の日本兵

沖縄本島を占領した米軍は、粟国島に日本軍の大部隊がいるとの情報を得て、同島に敵前上陸した。

物々しい装備で島の村落に追った米軍部隊は、路上にいた制服姿の人を射殺した。

それは小学校の制服を着た児童であった。

日本軍は陸海とも全く駐屯していなかった。

米軍の指揮官は島の住民全部を一か所に集めて整列させ、一人一人を検査した。

住民に紛れていた二人が、肌の色が一般島民よりは白いのを怪しまれ、尋問を受けた結果、付近に不時着した飛行機の

乗員であることが判明し、捕虜として沖縄本島に連行された。

 

実は日本兵がもう一人いた。陸軍中野学校を出た残置諜者である。

ルパング鳥に隠れ続けていた小野田寛郎少尉と同じように、敵軍に占領されたのちも潜伏し、再起に備える任務を帯びて、

身分を隠し小学校の教師になっていた。

学校の先生であれば余所者でも不思議ではないであろう。

島のことは細大洩らさず、秘かに調べ上げて、承知していた。

海面上に潜水艦の潜望鏡を発見した人が、直ちに走って役所に通報したように、防衛意嶺は島民全体にあった模様である。

現在も健在であり、六十年前の状況、出来事を明確に記憶しているというこの優秀な諜者も、

第十八号輸送艦の事件には全く気付かなかった。

島に上陸した乗員は皆無であったという。

 

(3)沖縄先遣隊

二十年二月、大浦崎の特潜隊の蛟龍二隊、六隻が沖縄への自力回航を計画した。

二〇三号艇の艇長三笠清治中尉(兵七二期)の隊の三隻には、第一特別基地隊所属の芙蓉丸が母艦として随伴し、

沖鶏に向かった。

大津島の掌整備長樽井辰雄兵曹長は沖縄地方根拠地隊へ転勤命令を受け、同時に発令された整備員、基地員十一名を

率いて二月一日出発、この芙蓉丸に便乗して第一回天隊の基地設営のため先行しようとしたが、

連続の荒天により蛟龍各艇が故障したため、芙蓉丸はやむなく引き返した。

樽井兵曹長ほかは復帰命令を受けて二月 四日、大津島墓地に戻った。

三月六日、樽井兵曹長は整備員二名とともに光基地へ転任して十三日、第十八号輸送艦に乗り込んで出撃した。

 

(4)某機関兵の謎(秘)

沖縄で陸戦に参加、戦死したと公表されながら、後に戦死を取り消された人物が一人いる。

三月九日、潜水学校を卒業して「第一特別基地隊」に配属された海軍上等機関長である。

その頃から既に、沖縄に渡島するには第十八号輸送艦しかなかった昔である。

沖縄蛟龍隊も−特基から出た部隊であるが、その隊員でもない。 

従って「本人が第一回天隊の隊員である」ことを確認できれば、同隊の一部が沖縄本島に上陸できたことの証明になるのであるが、

本人は復員後、北九州の炭鉱で 働いて故郷に帰ることなく、本籍地にも連絡することなく、死亡した。

夫人は、本人から戦時中の話は一切聞いていないと言い、面会を拒絶している。

 

海軍大尉 小灘利春

更新日:2007/10/21